第11話 透明
季節が巡り、大学の卒業式を迎えた。
講堂の壇上で学長の声が響くたび、拍手が遠くに聞こえた。
目の前の景色がまるでスクリーン越しの映像みたいで、現実味がなかった。
隣に、“彼”はいなかった。
当然だ。いなくなってから、もう二年も経っている。
式が終わっても、誰も彼の話をしなくなっていた。
最初は「消息不明」「連絡が取れない」で済まされていたのが、やがて誰もその名を出さなくなった。
けれど僕の中では、まだ彼が生きていた。
夜ごと、脳裏に浮かぶのは、舞台の終幕でこちらを見たあの笑み。
「透、君は僕より伊織を上手くやるね」
その声が、いつまでも消えなかった。
まずは外側からだと髪を切り、服を選び、歩き方を変えた。
周囲の反応は微笑と軽い驚きだった。誰もその変化を咎めなかった。家族も、友人も、稽古仲間も「役者のブラッシュアップ」と受け取った。
八代は最初に顔をしかめたが、言葉にはしなかった。言葉よりも目が語ることがある。
彼の目は、僕が段々と“伊織”になっていくのを記録していた。
次に声。
朝の発声練習を欠かさなくなったのは、声帯の震え方まで同じにするためだ。
台詞を自分のものとして吐くのではなく、伊織の呼吸法で言葉を引き出す。夜になると、僕は自分の声に耳をそばだてていた。
鏡の前で少し笑い、鏡の裏側で自分が応えるのを待つ。応えはいつも同じで、僕はそれに従った。
最も決定的なのは、他者とのやりとり。
人と話す時、僕は透としての間合いを捨て、伊織の間合いで接した。
言い回し、相槌の位置、沈黙の長さ。その瞬間、相手は反射的に僕に安心を寄せた。
長年の付き合いのある人間ですら、違和感を飲み込んだ。安心は適応を生み、適応は現実を形作る。
八代は手放しで賛成したわけではない。
ある夜、稽古場の廊下で彼がとどめを刺した。
「お前、本気でそれに成るつもりか?」
「成るよ」
僕は平然と答えた。胸の奥にある確信は、もはや説明を要しなかった。
八代はしばらく黙って、やがてため息をついた。人の意思は、他人の意志を変えられない。ただ見届けるか、関与するかの選択しかない。
彼は見届ける側を選んだのだ。
卒業後、僕は小劇団のオーディションに行った。
演出家は目を細め、笑った。
「君は他の誰でもない。君自身の色がある」
とんでもない皮肉だと思った。
その言葉の受け取り方は人それぞれだ。僕はその笑顔を自分への承認だと飲み込んだ。
日常は滑らかに移行した。役者仲間は「伊織」と呼び、劇団の名簿にもその名が書かれた。
誰もそうなることに抗わなかった。
ある雨の夜、また八代が来て、傘を差し出した。
濡れた路地に二人で立ち尽くしながら、彼は震える声で言った。
「お前、本当に幸せか?」
僕は少し笑い、傘を受け取った。答えは簡単だ。幸せとは、欲望が満たされることだ。僕は欲しかった。誰かに“伊織”だと認められることが、信仰のように甘美だった。
「うん、幸せだよ」
月日は流れ、周囲の人々は慣れていった。
僕はもう透ではない。
鏡に映る顔が自分のものだと迷うことはなくなった。名は皮膚のように僕を覆い、動き方も、思考の癖も、すべてがその名に沿って組み替えられた。
夜になると、たまに遠くで拍手の音が聞こえる気がした。
舞台の残響か、自分の過去の鼓動か分からない。その音に合わせて僕は少しだけ微笑む。
透が消えた穴には、伊織の輪郭がぴたりと填まっていた。欠けはもう見えない。
必要とされたのは、いつだって代用品の確かさだ。




