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11/12

第11話 透明

 季節が巡り、大学の卒業式を迎えた。

 講堂の壇上で学長の声が響くたび、拍手が遠くに聞こえた。

 目の前の景色がまるでスクリーン越しの映像みたいで、現実味がなかった。


 隣に、“彼”はいなかった。

 当然だ。いなくなってから、もう二年も経っている。


 式が終わっても、誰も彼の話をしなくなっていた。

 最初は「消息不明」「連絡が取れない」で済まされていたのが、やがて誰もその名を出さなくなった。


 けれど僕の中では、まだ彼が生きていた。

 夜ごと、脳裏に浮かぶのは、舞台の終幕でこちらを見たあの笑み。


 「透、君は僕より伊織を上手くやるね」


 その声が、いつまでも消えなかった。



 まずは外側からだと髪を切り、服を選び、歩き方を変えた。

 周囲の反応は微笑と軽い驚きだった。誰もその変化を咎めなかった。家族も、友人も、稽古仲間も「役者のブラッシュアップ」と受け取った。

 八代は最初に顔をしかめたが、言葉にはしなかった。言葉よりも目が語ることがある。

 彼の目は、僕が段々と“伊織”になっていくのを記録していた。



 次に声。

 朝の発声練習を欠かさなくなったのは、声帯の震え方まで同じにするためだ。

 台詞を自分のものとして吐くのではなく、伊織の呼吸法で言葉を引き出す。夜になると、僕は自分の声に耳をそばだてていた。

 鏡の前で少し笑い、鏡の裏側で自分が応えるのを待つ。応えはいつも同じで、僕はそれに従った。



 最も決定的なのは、他者とのやりとり。

 人と話す時、僕は透としての間合いを捨て、伊織の間合いで接した。

 言い回し、相槌の位置、沈黙の長さ。その瞬間、相手は反射的に僕に安心を寄せた。

 長年の付き合いのある人間ですら、違和感を飲み込んだ。安心は適応を生み、適応は現実を形作る。



 八代は手放しで賛成したわけではない。

 ある夜、稽古場の廊下で彼がとどめを刺した。


「お前、本気でそれに成るつもりか?」

「成るよ」


 僕は平然と答えた。胸の奥にある確信は、もはや説明を要しなかった。

 八代はしばらく黙って、やがてため息をついた。人の意思は、他人の意志を変えられない。ただ見届けるか、関与するかの選択しかない。

 彼は見届ける側を選んだのだ。


 卒業後、僕は小劇団のオーディションに行った。

 演出家は目を細め、笑った。


「君は他の誰でもない。君自身の色がある」


 とんでもない皮肉だと思った。

 その言葉の受け取り方は人それぞれだ。僕はその笑顔を自分への承認だと飲み込んだ。



 日常は滑らかに移行した。役者仲間は「伊織」と呼び、劇団の名簿にもその名が書かれた。


 誰もそうなることに抗わなかった。



 ある雨の夜、また八代が来て、傘を差し出した。

 濡れた路地に二人で立ち尽くしながら、彼は震える声で言った。


「お前、本当に幸せか?」


 僕は少し笑い、傘を受け取った。答えは簡単だ。幸せとは、欲望が満たされることだ。僕は欲しかった。誰かに“伊織”だと認められることが、信仰のように甘美だった。


「うん、幸せだよ」



 月日は流れ、周囲の人々は慣れていった。


 僕はもう透ではない。


 鏡に映る顔が自分のものだと迷うことはなくなった。名は皮膚のように僕を覆い、動き方も、思考の癖も、すべてがその名に沿って組み替えられた。


 夜になると、たまに遠くで拍手の音が聞こえる気がした。

 舞台の残響か、自分の過去の鼓動か分からない。その音に合わせて僕は少しだけ微笑む。

 透が消えた穴には、伊織の輪郭がぴたりと填まっていた。欠けはもう見えない。


 必要とされたのは、いつだって代用品の確かさだ。

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