第10話 残響
伊織がいなくなって、最初の一週間は、誰も本気にしていなかった。
「ちょっと休んでるだけだろ」
「スマホ壊したって言ってたし」
皆がそう言って笑っていた。僕も、笑った。笑えた。
でも、LINEの未読は増えなかった。
伊織の席には、稽古の時に脱ぎ捨てた上着がそのまま置かれていた。
葛原がそれを持ち上げて、言葉を失ったのを覚えている。
その瞬間、胸の奥が急に冷えた。
それから、何かが狂い始めた。
朝、鏡を見ると、伊織が映っている気がした。
少し寝癖のある髪、伏せた目元、肩の角度。
自分の顔なのに、伊織の残り香のようなものが滲んでいた。
無意識に彼の声で「おはよう」と呟き、笑いかける。
耳の奥で、もうひとりの俺が応える。
夜になると、脳の中で伊織の声が鳴った。
「透、そんな顔しないで」「舞台、楽しかったね」
柔らかくて、遠くて、消えそうな声。
布団に潜っても、息の隙間にその声が入り込む。
それが嬉しくて、怖かった。
稽古場に行けば、誰もいない。
伊織の残した上着に袖を通しながら暗い舞台の中央に立って、あの日の台詞を繰り返す。
照明は落ちているのに、視界が白く滲む。
“伊織の呼吸”を真似ると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
その瞬間、ほんの一秒だけ、伊織がそこにいる気がした。
八代が部屋のドアを開けて、僕を見つけた。
「透……またやってんのか」
僕は笑顔でふり返った。
「八代じゃん、おは……」
「お前じゃねぇよ」
その声が冷たく響いた。
息が詰まり、何も言えなかった。
彼のいない世界で、俺だけが彼を演じ続けていた。
それだけが、生きている証だった。




