第9話 崩壊する城塞
第9話 崩壊する城塞
月曜日の午前六時十五分、黒瀬隆一は自宅の書斎でパソコンを開いていた。病院を退院して三日が過ぎていたが、黒い礼服から着替えたあとの生活は元へ戻らず、薄い灰色のパジャマの上へ紺色のカーディガンを羽織り、夜明け前から血圧を二度測っていた。机には妻が運んだ梅粥と温かいほうじ茶が置かれていたが、粥の表面は乾き始め、刻み海苔が一か所へ固まっている。黒瀬は画面の文字を読み返しながら、左手で胸元を何度も押さえた。
前夜、黒瀬の個人用メールへ短い文章が届いていた。差出人の名前も所属もなく、添付された資料には、富岡製薬が隠してきた臨床試験の記録の一部が写っていた。富岡と黒瀬しか知らないはずの会議の日付まで書かれていたため、ただの脅しとして消すことはできなかった。
「捜査への協力を示した者だけが、薬の反動から助かる。会社はすでに、全責任をあなたへ負わせる準備を始めている」
文章には、何を警察へ渡せばよいのか書かれていなかった。誰が黒瀬を裏切るのかも、どうすれば薬の反動から助かるのかも示されていない。それでも黒瀬は、法務担当の榊原や開発担当の大崎が、自分だけを主犯に仕立てようとしていると考えた。
書斎の扉が開き、妻が空になっていない茶碗を見て眉を寄せた。薄い水色の割烹着には、朝食に焼いた卵の油が小さく跳ねている。妻はカーテンを開け、雨上がりの白い光を室内へ入れた。
「お粥を一口も食べていないでしょう」
「あとで食べる」
「昨日も同じことを言って、昼まで置いたままでした。薬を飲むなら、何かお腹へ入れてください」
「薬の話をするな」
「病院からいただいた薬のことです。名前の分からない白い錠剤ではありません」
黒瀬は椅子を回し、妻に出ていくよう言った。妻は言い返さず、冷めた梅粥の茶碗を持ち上げた。扉を閉める直前、会社のために家族まで疑うようになったのなら、一度すべてを手放したほうがよいと告げた。
黒瀬は、その言葉を妻の心配とは受け取らなかった。すべてを手放せという部分だけが耳へ残り、家族にも自分を辞任させようとする話が届いているのではないかと疑った。携帯電話を取り、法務部長へ早朝から連絡した。
「私を会長の不正の責任者にする文書があるか」
「何のお話でしょうか」
「取締役会の議事録だ。私が一人で指示した形へ書き換えていないだろうな」
「そのようなことはしておりません」
「では、原本を今すぐ確認しろ。誰にも触らせるな」
「副社長、今日は取締役会があります。そこで皆様と――」
「取締役会まで待てるか。私が会社へ着く前に、保管庫を開けておけ」
電話を切った黒瀬は、机の引き出しから小さな外部記憶装置を取り出した。過去の臨床試験データ、被害者への圧力記録、研究費の会計資料を、会社の非常時に備えて複製していたものだった。富岡からは、問題が起きた場合には会社を守るために使えと言われていたが、黒瀬は今、自分を守るために使おうとしていた。
午前八時、富岡製薬本社では社員たちが出勤し始めていた。追悼式のあとも玄関には富岡の遺影が置かれていたが、白い花の一部は萎れ、交換する予算を誰が承認するのか決まっていなかった。社員食堂では味噌汁の鍋から湯気が上がり、調理員が焼き鮭を白い皿へ並べている。普段なら朝食を取る社員で席が埋まる時間だったが、水道水や食事への噂が残り、持参したペットボトルだけを飲む者もいた。
黒瀬は地下駐車場から専用エレベーターへ乗り、誰とも顔を合わせず役員階へ上がった。濃紺の背広に薄い灰色のネクタイを締めていたが、シャツの襟は首へ強く当たり、何度も指を入れて緩めた。役員室へ入ると、社内サーバーへ接続し、保管されている資料と自分の複製を照合した。
富岡製薬では、表向きの報告書とは別に、原資料が限定された保管領域へ残されていた。新薬による重篤な副作用、亡くなった患者の経過、補償額を抑えるために交わされたメール、医師へ圧力をかけた記録が整理されている。津田浩介を研究費横領の疑いで処分するために作られた偽の会計資料もあった。
「全部、残っていたのか」
黒瀬は画面へ顔を近づけた。富岡は、必要がなくなれば消すと言っていた。しかし実際には、幹部を支配する材料として保管していたらしい。黒瀬が富岡の命令を実行した証拠だけでなく、大崎や榊原が承認した記録もそろっていた。
午前八時四十二分、複数の報道機関と捜査機関へ、大量の資料が一斉に送られた。表向きには富岡製薬の内部告発窓口から送信されたように見えたが、操作したのは黒瀬だった。自分だけが協力者だと示すため、資料の末尾には内部不正を止めようとしていたという説明まで添えた。
送信を終えると、黒瀬は椅子へ深く座った。胸の圧迫感が軽くなったように感じ、机の水を一口飲んだ。数日前には苦いと思った水が、今朝は何の味もしなかった。
「これで、私だけは助かる」
黒瀬がそう呟いた直後、役員室の扉が開いた。大崎が焦げ茶色の背広を着たまま入り、手にした携帯電話を机へ置いた。画面には、報道機関から届いた取材依頼が並んでいた。
「何をしたんですか」
「何の話だ」
「社内の原資料が外へ出ています。あなたしか知らない記録まで含まれている」
「君が送ったのではないのか」
「私が送るなら、自分の署名がある資料を含めるはずがないでしょう」
黒瀬は大崎を見上げた。先に相手の不正を暴けば、自分が協力者になれると考えていたが、大崎も同じ考えへたどり着いたらしい。二人が言い争う間に榊原も現れ、黒瀬が自分だけ助かろうとしたのだと声を上げた。
「あなたは会長の命令を最も多く実行した。今さら告発者のつもりですか」
「法務が承認しなければ、何一つ実行できなかった」
「私は法的な助言をしただけです。被害者への圧力を命じたのは副社長でしょう」
「大崎が不利なデータを外さなければ、圧力をかける必要もなかった」
「私だけの判断ではありません。会議の録音が残っています」
大崎がそう言うと、黒瀬と榊原は同時に口を閉じた。録音の存在を二人は知らなかった。大崎は自分が責任を負わされる場合に備え、富岡が不正を指示する会議を何年も録音していた。
「録音をどこへ隠している」
「答える必要はありません」
「会社の記録を無断で持ち出したのか」
「副社長がそれを言いますか」
三人は互いの顔を見た。長い間、患者や研究者を黙らせるために協力してきたが、そこに信頼はなかった。富岡が生きている間は、彼の権力が三人を同じ側へ並べていただけだった。
午前九時を過ぎると、報道各社の速報が流れ始めた。富岡製薬が新薬の重い副作用を隠していた疑い、内部告発者を陥れた偽装会計、被害者家族へ秘密保持を迫った記録が、次々と報じられた。本社玄関には取材車が集まり、社員たちは窓へ近づかないよう社内放送で命じられた。
広報部では、白いブラウスを着た女性社員が記者からの電話を受け続けていた。机には朝に買ったクリームパンが開封されないまま置かれ、紙コップのコーヒーは冷えていた。社員たちは会社が事実を否定するのか、それとも会長個人の責任と説明するのかを待っていたが、役員会議室から指示は来なかった。
「記者会見は開くんでしょうか」
「副社長は、誰とも話すなと言っている」
「でも、資料には副社長の名前も出ています」
「今度は、大崎専務が自分は会長へ反対していたとコメントを出したらしいよ」
「さっきまで、全員で会長を偉大な人だと言っていたのに」
社員たちは小声で話し、電話が鳴るたびに肩を揺らした。追悼式で配るはずだった焼き菓子の箱が休憩室へ積まれ、賞味期限が近いため自由に持ち帰るよう紙が貼られていた。しかし富岡の名前が印刷された箱を持って帰る者はいなかった。
その日の午後、大崎は会議の録音データを警察へ提出した。榊原は黒瀬が指示した被害者への圧力記録と、自分が保管していた裏帳簿を報道機関へ渡した。財務担当の稲葉も、自分だけが責任を負わされることを恐れ、見舞金を別名目で支払った一覧を提出した。
「大崎が話したなら、私も説明させてほしい」
「黒瀬副社長の指示を証明するメールがあります」
「私は会長と副社長に反対していました」
警察には同じような連絡が続いた。幹部たちは自分を守るため、他人の不正を証明する資料を持ち込んだ。誰か一人が口を開くたびに、別の幹部がさらに大きな証拠を差し出した。
草壁は警視庁の会議室で、集まった資料を一つずつ確認した。机の上には録音の一覧、裏帳簿、患者への圧力記録が積まれ、三田村が買ってきた幕の内弁当を置く場所もなかった。二人は書類の箱を床へ移し、冷えたご飯と鶏の照り焼きを食べながら、捜査の対象を整理した。
「黒瀬が最初に資料を流したようです」三田村は煮物の人参を箸でつまんだ。「匿名の協力者として自分だけ助かるつもりだったのでしょう」
「誰かに、協力すれば助かると思わされたんだ」
「また神崎ですか」
「証拠はない。だが、黒瀬が一番欲しがる言葉を知っている」
「自分だけは助かる、ですか」
草壁は頷き、冷えた味噌汁を一口飲んだ。神崎の方法を認めることはできなかった。人の恐怖を利用して行動を操り、その結果を本人の選択だと言うやり方は、法の外から人を裁くことと同じだった。
それでも、目の前へ集まった証拠を無視することもできなかった。富岡たちが患者や研究者を法から遠ざけてきたのなら、今度はその記録を法の下へ戻さなければならない。草壁は捜索差押えに必要な資料をそろえ、上司へ本格捜査の開始を求めた。
翌朝、富岡製薬本社へ捜査員が入った。濡れた歩道には報道陣が並び、玄関へ運び込まれる段ボール箱をカメラが追った。社員食堂では朝の味噌汁が鍋に残り、出勤しても自席へ入れない社員たちが、紙コップの茶を飲みながら壁際へ座っていた。
捜査によって、津田浩介の研究費横領が会社の捏造だったことも証明された。電子署名は別の端末から不正に使われ、資金の移動先となった関連会社は黒瀬の指示で用意されていた。浩介の懲戒処分を正当化するため、同僚の証言まで書き換えられていた。
栄美がその知らせを受けたのは、母の家で夕食を作っているときだった。白いブラウスの上へ花柄のエプロンを着け、豆腐と葱の味噌汁を温めていた。母は食卓で冷やしたトマトを切り、形が不ぞろいになったものを自分の皿へ入れていた。
携帯電話に表示された佐伯の名前を見て、栄美は鍋の火を弱めた。佐伯は、会社が父の処分を撤回する方針を決め、横領の事実はなかったと公式に発表すると伝えた。栄美は聞き間違いではないかと思い、同じ内容をもう一度話してもらった。
「お父さんは、盗んでいなかった。会社が認めたよ」
「本当に、名前を出して訂正するんですか」
「ああ。津田浩介さんへの懲戒処分を撤回すると、明日の会見で発表する」
「父が嘘をついたのではないと、みんなに分かるんですね」
「遅すぎるが、それでも残しておくべき記録だ」
電話を切った栄美は、味噌汁の鍋から蓋を外した。煮立った汁の中で豆腐が崩れ、葱の青い匂いが台所へ広がった。母はトマトを切る手を止め、何の電話だったのかと尋ねた。
「お父さんの横領は、会社が作った嘘だったって。処分も取り消されるって」
母は包丁をまな板へ置き、エプロンの裾で両手を拭いた。栄美は、母が声を上げると思っていたが、母は食卓に残っていた父の湯飲みを戸棚から取り出した。父が亡くなってから誰も使わず、底には細かな茶渋が残っていた。
「この湯飲み、明日からまた使おうかしら」
「誰が使うの」
「私が使うわ。しまったままだと、お父さんがまだ帰ってくるみたいでしょう」
栄美は味噌汁を二つの椀へよそった。父の名誉が戻れば、胸の中の重さがすべて消えると思っていた。しかし食卓には母と自分の二人分しかなく、父の椅子は壁際へ寄せられたままだった。
翌日の夕方、栄美は神崎の事務所を訪れた。紺色のワンピースに薄い灰色のカーディガンを羽織り、会社帰りに買った小さなどら焼きの箱を持っていた。神崎は白いシャツに黒いベストを着て、報道された富岡製薬の記事を黒いファイルへ整理していた。
「父の処分が撤回されます」
「確認しました」
「黒瀬が資料を出したんですね」
「そう報じられています」
「あなたが、あの人へ何か送ったんですか」
神崎は記事の端をそろえ、ファイルを閉じた。栄美は返事を待ったが、神崎は肯定も否定もしなかった。机には温かい紅茶と、小さく切った林檎が置かれていた。
「これで終わったんですか」
「富岡製薬への捜査は、これからです」
「父のことです。父は、やっと正しかったと認められたんでしょう」
「横領していなかったことは証明されました」
「それ以外に、何があるんですか」
神崎は机の一番下の引き出しを開けた。中から取り出したのは、黄ばんだ封筒だった。表には告発支援団体の名前と住所が書かれ、裏には津田浩介の署名が残っている。
栄美は椅子から立ち上がり、封筒へ手を伸ばした。神崎は拒まずに渡したが、栄美の指が触れるまで手を離さなかった。紙からは古い書類と、父が使っていたコーヒーに似た匂いがした。
「どうして、父の手紙を持っているんですか」
「津田浩介さんは亡くなる前、私が協力していた告発支援団体へ相談していました」
「それなら、最初に会った日に見せられたはずです」
「見せないと決めていました」
「どうしてですか」
「富岡が死ぬ前には、読ませないと決めていました」
栄美は封筒を胸元へ引き寄せた。父の筆跡で書かれた自分の名前はなく、宛先は告発支援団体になっている。封は切られておらず、糊の部分には父の指で押さえたような跡が残っていた。
「中に何が書いてあるんですか」
「私は内容を知っています」
「あなたが読んだのに、どうして封が開いていないんですか」
「団体へ送られた原本の写しを、津田さん自身が別の封筒へ入れていました。これはご家族へ渡すために用意されたものです」
「父が私に読ませたかった手紙なんですか」
「読ませたかったかどうかは、本人にしか分かりません」
栄美は封を切ろうとし、指を止めた。父の汚名が晴れた日に、なぜ神崎が別の事実を持ち出すのか理解できなかった。封筒の中には、会社の不正を証明する最後の資料が入っているのかもしれない。それとも、家族へ残した謝罪文とは違う言葉が書かれているのかもしれなかった。
「今、読めと言うんですか」
「読むかどうかは、あなたが決めてください」
「また、選ばせるんですね」
「私が答えを決めれば、あなたはその答えを信じるだけになります」
栄美は椅子へ座り直し、封筒を膝の上へ置いた。どら焼きの箱は机の端へ残され、包装紙の内側には餡の甘い匂いがこもっていた。神崎は紅茶を一口飲み、栄美が封を切るのを待とうとはしなかった。
「父の名誉が戻ったのに、まだ何かを疑わなければならないんですか」
「名誉が戻ることと、一人の人間を知ることは別です」
「父は被害者です」
「それを確かめるためにも、手紙は必要でしょう」
栄美は父の署名を親指でなぞった。紙の上の文字は、研究資料に残された細かな筆跡より少し乱れていた。父がこの封筒を閉じた夜、食卓には何があり、母へどんな声をかけたのかを思い出そうとしたが、その日の夕食だけは思い出せなかった。
事務所の窓へ雨粒が当たり、古い除湿機が低い音を立てていた。神崎は黒いファイルを棚へ戻し、どら焼きの箱を開けてもよいかと尋ねた。栄美は頷いたが、自分は食べなかった。
封筒を鞄へ入れて持ち帰ることも、ここで開くこともできた。栄美は何度も持ち直した末、父の署名がある面を上にして膝へ置いた。富岡製薬という城塞は、幹部たちが互いに抜いた石によって崩れ始めていた。
しかし父について栄美が築いてきたものは、まだ形を保っていた。封筒の中には、その最後の扉を開ける言葉が入っていた。




