第8話 証拠のない殺意
第8話 証拠のない殺意
追悼式が崩壊してから二日後、帝都グランドホテルの大宴会場では祭壇の撤去が始まっていた。白い百合は水を失って花びらの縁が茶色くなり、富岡宗一郎の遺影は壁へ立てかけられ、薄い布をかけられている。従業員たちは踏み潰された羊羹の跡を絨毯から拭き取り、割れたグラスが残っていないか椅子の下まで調べていた。富岡をたたえるために用意された金色の文字は、作業員の白い手袋によって一文字ずつ外されていた。
宴会場の隣にある小会議室では、草壁修司が長机の上へ資料を並べていた。富岡の服薬日誌、匿名メールの写し、追悼式で黒瀬の席に置かれたカード、白い錠剤の鑑定結果が、時間の順番に置かれている。草壁は灰色の背広の上着を椅子へかけ、白いシャツの袖を肘までまくっていた。昼食に買った焼き鮭のおにぎりと即席味噌汁は窓際へ置かれ、味噌汁の表面には薄い膜ができていた。
「神崎を連れてきました」三田村が扉を開けた。神崎涼は白いシャツに黒いベストを着て、濡れた黒い傘を手にしていた。「任意の聞き取りだと説明しています」
「分かっている。三田村、お前は外で待て」
「一人で大丈夫ですか」
「殴り合う相手じゃない」
神崎は傘を入口の傘立てへ入れ、草壁の向かいへ座った。窓の外では、清掃会社の作業員が雨に濡れた白いクロスを台車へ積んでいる。神崎は机に並んだ資料を左から右へ見たあと、手を膝へ置いた。
「ホテルを選んだのは、追悼式の続きをしたかったからですか」
「警視庁へ呼ぶと、お前は取調べではないと言葉にこだわるだろう。ここなら、ただの話だ」
「私は、場所によって言葉の意味を変えません」
「人の言葉の意味は、好きなように変えるくせにな」
草壁は錠剤の鑑定結果を神崎の前へ押し出した。白い錠剤から検出されたのは、市販のビタミン剤に含まれる一般的な成分だった。富岡の死を引き起こす毒も、黒瀬たちの発作を説明する薬物も見つかっていない。
「富岡邸に残っていた粉と、追悼式で黒瀬が落とした錠剤は、ほぼ同じものだった。健康な人間が一粒飲んだからといって、何年もあとに反動が起こるようなものではない」
「それは安心できる結果ですね」
「黒瀬は安心していない。検査で見つからない毒だと言い始めた」
「医師の説明より、自分の感覚を信じているのでしょう」
「そうなるようにした人間がいる」
草壁は匿名メールを指で叩いた。神崎は文面へ一度だけ目を向けたが、表情を変えなかった。廊下では台車の車輪が床の継ぎ目を越え、一定の間隔で小さな音を立てていた。
「毒を探していたのが間違いだった。お前が富岡に飲ませたのは薬じゃない。薬がなければ死ぬという考えだ」
神崎は否定も肯定もせず、机の上の服薬日誌へ視線を移した。草壁は椅子へ深く座り、富岡の記録を開いた。前半のページには脈拍、睡眠時間、食欲が整った字で書かれ、薬の供給量が減るにつれて文字が右下へ崩れていた。
「富岡は死ぬことを恐れていた。医師より、自分だけが受けられる特別な治療を求めていた。そこへ海外の研究所を名乗る人間が現れた」
「現れたという証拠は?」
「本人は富岡へ直接会わなかった。富岡が信頼する資産管理人を通じて情報を流し、選ばれた者だけが使える薬だと思わせた。簡単に手に入らないものほど、富岡が欲しがると知っていたからだ」
「よくできた推理です」
「薬を飲ませただけではない。効いた証拠を富岡自身に作らせた」
草壁は日誌の赤い線を指した。よく眠れた日、食事を多く取った日、胸の違和感が少なかった日だけが薬の効果として強調されている。状態の悪い日は薬に身体が慣れる途中と説明され、どちらの結果が出ても薬への信用が揺らがないようになっていた。
「富岡は自分の字を見て、薬が効いていると信じた。誰かに押しつけられた話なら疑ったかもしれない。だが、自分で書いた帳面は疑わなかった」
「人は、自分の経験を信じます」
「経験じゃない。都合よく選んだ記憶だ」
「その二つを、本人が区別できるとは限りません」
草壁は冷めた味噌汁へ手を伸ばしかけ、やめた。神崎は机に置かれた焼き鮭のおにぎりを見たが、食事を勧めることも、空腹を指摘することもしなかった。草壁は、神崎が相手の生活まで観察する男だと知っていたため、その沈黙も計算に思えた。
「次に、お前は供給を減らした。一か月分を三週間、二週間、最後には七粒にした。富岡が残りの数を気にするようになったところで、警告書を送った」
「その警告書は見つかりましたか」
「富岡の寝間着の胸ポケットに入っていた。『中断後、重大な反動が生じる可能性があります』。病名も症状も書かれていない」
「可能性という言葉は、確定を意味しません」
「確定させたのは富岡自身だからな。指先が冷えれば反動、めまいがすれば反動、食欲が落ちても反動。何が起きても、警告どおりだと思うようになった」
神崎は指を組み、草壁の話を聞いていた。草壁は富岡の主治医が入院検査を勧めた記録を出した。富岡は診察を断り、正規の処方薬を決められた時刻に飲まなくなっていた。
「お前は、あいつが医師を嫌っていることも知っていた。秘密の薬を飲んだと知られれば、経営判断を疑われると考えることもだ。だから助けを求められない形にした」
「富岡さんには、電話をかける自由がありました」
「その自由を使わないように追い込んだ」
「説得と強制は違います」
「言葉だけなら、何をしても強制ではないと言うつもりか」
草壁は次に、富岡邸へ届いた被害者一覧の写真を置いた。最初の文字を縦に読むと「次はあなた」になる文書だった。名簿に選ばれた被害者は、富岡が取締役会で直接報告を受け、補償の減額や公表の中止を命じた人物ばかりだった。
「これは会社の内部事情を知る人間にしか作れない。津田浩介の資料には、被害者の名前と富岡の指示が残っていた」
「会社の内部事情を知る人間は、ほかにもいるでしょう」
「津田栄美は、半年前にお前へ父親の資料を渡した。追悼式にも二人そろって来ていた」
「知人と同じ式へ参列すると、共犯になるのですか」
「栄美は何も知らされていなかった。お前は、彼女が富岡へ直接接触することを止めた。自分の仕掛けを壊されたくなかったからだ」
神崎は栄美の名前を聞いても、姿勢を変えなかった。草壁は黒い表紙の手帳へ目を落とし、富岡の死亡時刻までの流れを一つずつ確認した。薬がなくなり、被害者一覧が届き、睡眠と食事が乱れ、処方薬の服用も不規則になった。最後には胸の違和感を予告された反動と信じ、救急車を呼ばずに走り書きを残した。
「仮にあなたの推理が正しいとして、富岡さんを殺したのは誰ですか」神崎は机の上の資料を順番に見た。「薬を処方した医師ですか。診察を拒んだ本人ですか。それとも、不安を抱いただけで人間を殺せると、本気でお考えですか」
「あいつには重い心疾患があった。お前は、持病で死ぬ可能性を知っていた」
「可能性を知ることと、死を実行することは同じではありません」
「薬を切らせたあとにどうなるか、観察していたんだろう」
「私が薬を奪った証拠はありますか」
「白い錠剤を用意し、供給を止めた」
「富岡さんには、医師から処方された本物の薬がありました。病院も、電話も、使用人もいた。選択肢は一つではありません」
「お前が別の選択肢を全部、信用できないものに見せた」
「見せただけで、奪ってはいません」
草壁は拳を握り、机の下へ下ろした。神崎の言葉には、人間を救う手段が物理的に残されていたという事実があった。しかし神崎が、その手段を選ばない人間の性格まで読んでいたことも確かだった。
「富岡が助かっていたら、どうするつもりだった」
「どうもしません」
「入院して偽薬だと知り、お前を捜したら?」
「その場合、富岡さんは自分が思い込みに支配されたことを認めなければなりません。会社の不正とは別の意味で、難しい選択だったでしょう」
「だから、認めないと読んだ」
「人間の行動に、絶対はありません」
「だが、お前は死ぬ側へ賭けた」
神崎は答えなかった。外では作業員が遺影を箱へ入れ、段ボールを閉じるテープの音がした。小会議室へ漂っていた百合の香りも、撤去が進むにつれて薄くなっていた。
草壁は匿名メールと追悼式のカードを並べた。二つの文章は似ているようで、目的が違っていた。匿名メールは受け取った人間へ空白を与え、自分で反動を想像させるものだった。カードは黒瀬が倒れる時刻を指定し、反応を試すためのものだった。
「カードを置いたのは稲葉だった。お前の匿名情報を信じ、黒瀬を試したと認めている」
「それなら、私へ尋ねる必要はありませんね」
「匿名情報を流したのは、お前だ」
「証拠は?」
「今はない」
「では、稲葉さんが別の情報を信じた可能性もあります」
「稲葉は、お前が作った恐怖の続きを書いた。黒瀬が倒れるところまで含めてな」
神崎は初めてカードへ手を伸ばした。触れる直前で指を止め、印刷された文章を読んだ。黒瀬が弔辞を読み終えるまでという時間の指定は、神崎が幹部へ送ったメールにはなかった。
「稲葉がカードを置くと予想していなかったのか」
「予想していませんでした」
「黒瀬が倒れることも?」
「発作を起こす可能性は考えていました。しかし、あの場で錠剤を落とし、複数の人間へ連鎖するところまでは計画していません」
「ようやく認めたな。計画があったことを」
「一般的な可能性について話しただけです」
草壁は小さく舌打ちした。神崎は必要なところだけ認め、犯罪へつながる部分では仮定へ戻る。白い錠剤は無害で、富岡は自分の意思で飲み、自分の意思で診察を拒んだ。被害者一覧が健康な人間を直接死なせるものでもなく、匿名文書と死亡との因果関係を医学的に証明することも難しかった。
「お前を逮捕する材料は、今のところない」
「それなら、帰ってもよろしいですか」
「任意の話だ。止める権利はない」
神崎は椅子から立ち上がり、黒いベストの裾を整えた。草壁は机の上の資料を見た。これだけの紙があっても、神崎の指紋も署名も残っていない。証拠がないのではなく、証拠と殺意を結ぶ線だけが欠けていた。
「完全犯罪だと思うな」草壁は立ち上がらずに言った。神崎は傘立てへ向けた足を止めた。「お前は人間の心を読み違える。必ず誰かが、お前の筋書きから外れる」
神崎は振り返り、初めて草壁を正面から見つめた。薄い照明の下でも、その顔には笑みがなかった。
「すでに外れていますよ。だから、ここまで大きくなった」
「自分の計画ではないと言いたいのか」
「人間は、自分へ与えられた役を演じるだけではありません。稲葉さんは疑念を確かめるためにカードを作り、黒瀬さんは錠剤を壇上へ持ち込み、大崎さんたちは互いの症状を真似た。私が命じたことではありません」
「だが、最初の一押しはお前だ」
「最初だったかどうかも、まだ分かりません」
神崎はそれ以上答えず、濡れた傘を手に取った。扉を開けると、廊下には撤去された白い花を載せた台車が止まっていた。作業員が神崎へ頭を下げ、通れるよう台車を壁際へ寄せた。
草壁は一人になった小会議室で、冷えた味噌汁の蓋を開けた。箸で混ぜても表面の膜は細かく散るだけで、湯気は戻らなかった。焼き鮭のおにぎりを一口食べながら、神崎が最後に言った「最初だったかどうか」という言葉を考えた。
神崎は計画が自分の手を離れたことを認めていた。それでも止めるつもりはなく、幹部たちが互いを追い詰める様子を見ていた。草壁には、その無言の観察にも殺意と同じ冷たさがあるように思えた。
廊下の先で、神崎が黒い傘を開いた。雨はまだ降り続き、ホテルの玄関前には濡れた白い花びらが何枚も落ちていた。神崎はそれを踏まないよう歩幅を変え、雨の向こうへ出ていった。




