第7話 恐怖の連鎖反応
第7話 恐怖の連鎖反応
黒瀬隆一が救急搬送された都内の総合病院では、追悼式の参列者や報道関係者が救急入口へ集まっていた。黒瀬は黒い礼服の前を開けられ、白い肌着の胸へ検査用の電極をつけたまま、カーテンで仕切られた処置室に横たわっていた。鼻には酸素を送る管がつけられ、右腕には点滴の針が刺さっている。消毒液の匂いに、看護師が休憩室から持ってきたカレーの匂いが混じり、廊下では車輪のついたベッドが何度も行き来していた。
心電図、血液検査、胸部の画像検査が行われたが、急性心筋梗塞や重い不整脈を示す結果は出なかった。担当医の野口は白衣のポケットへ聴診器をしまい、椅子へ座って黒瀬へ検査結果を説明した。野口は昼食に買った海苔弁当へ一口も手をつけておらず、机の隅では白身魚のフライが冷え、タルタルソースの袋が潰れていた。
「現時点で、命に関わる急性の心疾患は認められません。強い不安によって呼吸が速くなり、手足のしびれや胸の圧迫感が起きたと考えられます」
「それでは説明にならない。私は壇上で息ができなくなったんだ」
「過呼吸でも同じ症状は起こります。心拍数も、こちらへ到着してから落ち着いています」
「薬の反動は検査に出ないのかもしれない」
「何という薬ですか」
黒瀬は口を閉じた。富岡から渡された白い錠剤には、商品名も製造会社も書かれていなかった。海外から取り寄せた特別な薬だという富岡の説明を信じただけで、自分では一度も調べていなかった。
「名前は知らない。会長が飲んでいたものだ」
「名前も成分も分からない薬を飲んだのですか」
「富岡会長が、安全だと言った」
「いつ、何錠飲みましたか」
「数年前に一粒だ。それでも身体へ残る種類なのかもしれない」
野口は黒瀬の顔を見たあと、記録用紙へ視線を落とした。一粒の錠剤を数年前に飲んだことと今日の発作を結びつける医学的な根拠はないと説明したが、黒瀬は首を振った。検査で異常がないことを聞くたびに安心するのではなく、通常の検査では見つからない薬だという考えを強くしていった。
「壇上に白い錠剤が残っていました。警察が成分を調べています」
「返してもらえ。あれは私の薬だ」
「検査が終わるまでは難しいでしょう」
「もし今夜、反動が起きたら誰が責任を取る」
黒瀬は起き上がろうとし、点滴の管を引っ張った。看護師が肩へ手を添えると、彼は触るなと声を上げた。野口は一晩入院して経過を見ると伝え、呼吸が苦しくなったときには呼び出しボタンを押すよう説明した。
個室へ移された黒瀬は、病院の寝間着へ着替えることを拒み、礼服のズボンと白い肌着のままベッドへ入った。妻が持ってきた紺色のパジャマは紙袋へ入れたまま、窓際の椅子に置かれている。夕食には白いご飯、鶏肉の煮物、青菜のおひたし、薄味の味噌汁が出たが、黒瀬は水に何か入っているかもしれないと言い、箸をつけなかった。
「病院の食事まで疑うのですか」妻は青いブラウスの袖をまくり、林檎の皮を小さな果物ナイフでむいていた。皮は途中で切れ、白い皿へ細く落ちた。「朝から何も食べていないでしょう。せめて林檎を一切れ食べてください」
「この病院は富岡製薬と取引がある」
「だから何ですか」
「会社は薬のことを隠している。病院にも話が回っているかもしれない」
「あなたは長い間、その会社の副社長をしているでしょう」
黒瀬は妻の顔を見た。問い詰められれば、自分も秘密を隠してきた側だと答えなければならない。妻が差し出した林檎を一切れだけ受け取り、匂いを確かめてから小さくかじった。
夕方六時過ぎ、草壁修司が病室を訪れた。草壁は灰色の背広の上着を腕へかけ、青いネクタイを緩めていた。病院へ来る途中で買った缶コーヒーはすっかりぬるくなり、ポケットには開封していないクリームパンが入っていた。
「検査では異常がなかったそうですね」
「警察が決めることではない」
「壇上に落ちた錠剤は調べています。あなたは、あれを富岡会長からもらったと話していた」
「混乱していた。よく覚えていない」
「数年前、京都の料亭でもらったのではありませんか」
黒瀬の手が、掛け布団の上で止まった。草壁は薬入れに残っていた小さな傷と、黒瀬の出張記録を確認していた。黒瀬は妻へ席を外すよう言い、扉が閉まるのを待ってから声を落とした。
「どうして京都だと分かった」
「薬入れを買った店が京都にありました。裏側に店の印が残っていた。会長と二人で出張した時期とも一致します」
「あの薬入れは土産として買っただけだ」
「先ほどは、薬も会長からもらったと言いました」
「会長が健康食品を一粒くれただけだ。特別な薬だという話は、私の勘違いだった」
草壁は椅子を引き、黒瀬の正面へ座った。病室のテレビでは追悼式の映像が繰り返し流れ、黒瀬が壇上で胸を押さえて倒れる瞬間に、赤い円が重ねられていた。音量は下げられていたが、画面の下には「富岡製薬幹部に連続する謎の発作」という見出しが表示されている。
「勘違いなら、なぜ錠剤を何年も持っていた」
「会長から預かったものだからだ」
「なぜ医師へ渡さなかった」
「私の所有物だ。どう扱おうと勝手だろう」
「名前も分からない薬を失うのが怖かったんじゃないですか」
黒瀬は窓の外へ顔を向けた。雨で濡れた病院の駐車場では、傘を持たない若い看護師が白い紙袋を頭へ載せて走っていた。草壁は急かさず、ぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。
「富岡会長は、白い錠剤がなければ死ぬと信じていた。あなたも、同じ錠剤が自分を救うと考えた。誰から、反動が起きると聞きましたか」
「匿名メールだ」
「送られる前から薬のことを知っていた人間は、会社に何人いますか」
「知らない」
「白い錠剤を分けてもらった幹部は」
「私は、そんなものを管理していない」
「会長の秘密の薬について、取締役会で話したことは」
黒瀬は答えようとして口を閉じた。取締役会という言葉から、新薬の副作用報告を受けた会議を思い出したからだった。あのときも黒瀬は、証拠の残らない口頭で処理するよう命じていた。
「刑事さん、薬の話だけを調べているのではないのか」
「会長の死に関係するものは、すべて調べます」
「会社の研究資料は関係ない」
「まだ研究資料とは言っていません」
黒瀬は掛け布団を握り、視線を草壁からそらした。草壁は、追悼式のカードを作った稲葉から話を聞いたことも伝えた。稲葉は匿名掲示板の情報を信じ、黒瀬を試すためにカードを置いたと認めていた。
「つまり、あれは稲葉の悪ふざけだった。私が倒れたこととは関係ない」
「先ほどまで、薬の反動だと言っていたでしょう」
「医師が心臓に異常はないと言った。疲労が原因だったのかもしれない」
「どちらが本当ですか」
「人間は、あとから思い違いに気づくこともある」
草壁は手帳を閉じた。黒瀬は薬の危険を訴えれば、富岡と秘密の薬を共有していた事実を調べられる。薬との関係を否定すれば、追悼式での発作が恐怖によるものだったと認めることになる。そのどちらを選んでも、自分に都合の悪い場所へたどり着くため、証言を変え続けていた。
「また来ます。次は会社の研究資料についても聞かせてもらいます」
「待て。私は何も言っていない」
「だから、次に聞きます」
草壁が病室を出ると、黒瀬は呼び出しボタンを押した。看護師が入ってくるなり胸が重いと訴えたが、モニターの数字は安定していた。看護師は夕食を少しでも食べるよう勧め、冷えた味噌汁を温め直すか尋ねた。
「病院で作ったものではなく、封を切っていない水を持ってきてくれ」
「売店で購入したものでよろしいですか」
「私の前で開けろ」
看護師は返事をし、手つかずの膳を下げた。黒瀬はテレビを消そうとしたが、画面に映る自分から目を離せなかった。
追悼式の映像は、その日のうちに何度も放送された。ニュース番組では白い錠剤へ拡大した映像が使われ、専門家が集団的な不安反応の可能性を説明した。ところが富岡製薬の社員たちは、その説明より、画面の隅で胸を押さえる幹部の姿に注目した。
翌朝、本社の給湯室では、女性社員二人が水道水を紙コップへ入れて匂いを嗅いでいた。一人は灰色のカーディガンを羽織り、もう一人は制服のスカートへ昨夜の雨でついた泥を残していた。流しには誰かが捨てたカップ麺の汁が残り、醤油と洗剤の匂いが混じっている。
「昨日から、水が苦いと思わない?」
「私は分からない。でも、役員が水へ何か入っていると言っていたらしいよ」
「空調から毒が出たという話もあるでしょう」
「朝から喉が痛いの。会社へ来た途端に」
二人の後ろに並んでいた社員は、飲みかけの紙コップを捨てた。その様子を見た別の社員も水筒の蓋を閉め、昼休みに近くの店で水を買うと話した。午前中だけで売店の水は売り切れ、社員たちは自動販売機の前へ列を作った。
社内の掲示板には、空調設備の点検を求める書き込みが増えた。誰かが天井の吹き出し口に白い粉がついていると写真を載せると、別の部署でも同じものが見つかったという投稿が続いた。設備担当者がただの埃だと説明しても、会社に命じられて隠しているのだと言われた。
「空調を止めてください」大崎は役員会議の冒頭で命じた。黒いネクタイの下には、汗で濡れた白いシャツが貼りついている。「昨日の会場でも、空調から妙な匂いがしました」
「ホテル側の検査では何も出ていません」榊原はペットボトルの水を一口飲んだ。「警察も、毒物はなかったと言っています」
「警察が調べられる毒ばかりではない」
「それなら、どうして社員は倒れていないのですか」
「まだ症状が出ていないだけかもしれない」
榊原は反論しようとしたが、胸のあたりに小さな圧迫感を覚え、指でネクタイを緩めた。大崎はその動きを見て、自分の胸へ手を当てた。会議室では誰も咳をしていなかったのに、数分後には三人が喉を鳴らしていた。
神崎は、その日から新しいメールも書き込みも送らなかった。事務所の机には、追悼式の記事を切り抜いた新聞と、富岡製薬の社内掲示板から印刷した書き込みが並んでいた。昼食に買った昆布のおにぎりは包装を開けたまま乾き、湯飲みの緑茶には薄い膜が浮いている。
栄美は窓際の椅子に座り、追悼式の映像を携帯電話で見ていた。薄い黄色のブラウスへ黒いカーディガンを重ね、膝の上には病院の売店で買った小さな袋が置かれている。袋の中には、黒瀬の病室を訪ねた佐伯から渡された林檎が二個入っていた。
「黒瀬さんは、何度も助けてくれと言っていました」栄美は携帯電話の画面を消した。神崎は新聞の切り抜きを日付順に並べ、端を定規でそろえた。「病院では、心臓に異常がないと言われています」
「本人は信じていませんでした。水にも薬が入っていると言って、看護師さんを怒鳴っていました」
「富岡さんと同じです。自分の恐怖に合わない説明を受け入れない」
「あなたは、もう何もしないんですか」
「何もする必要がありません」
神崎は富岡製薬の社内掲示板を栄美へ見せた。水道水、空調、弁当、清掃用の洗剤まで疑う書き込みが並んでいる。神崎が最初に送ったメールには、そのどれについても一言も書かれていなかった。
「人は一度、恐怖の物語を受け入れると、矛盾する事実を捨てます。毒物が検出されなければ、検査で見つからない毒だと考える。発作を起こさない人がいれば、まだ症状が出ていないだけだと考える」
「何でも証拠にできるんですね」
「正しいことを確かめたいのではなく、自分の考えが正しいと感じたいからです」
栄美は林檎の入った袋を開けた。一つには小さな傷があり、そこだけ茶色く変わっている。父は傷んだ部分を厚く切るともったいないと言い、栄美の手から包丁を取り上げたものだった。
「黒瀬さんが苦しむところを見たら、少しは胸が軽くなると思っていました。父を泥棒にした人です。父が食べられなくなり、眠れなくなり、最後には家族の顔まで見られなくなった原因を作った人です」
神崎は答えず、乾いたおにぎりを包装へ戻した。栄美は林檎の傷を親指で撫で、窓の外を走る電車の音を聞いた。追悼式で黒瀬が倒れたとき、自分は笑うことも、よかったと思うこともできなかった。
「どうして、少しも気が晴れないんでしょう」
「あなたが欲しかったのは、彼らの苦痛ではないからです」
「では、私は何が欲しかったんですか」
神崎は栄美を見たが、すぐには答えなかった。机の上には、津田浩介の黒い手帳が置かれている。表紙の角は擦れ、間に挟まれた林檎の種が入った小袋が少しだけのぞいていた。
「それは、私が決めることではありません」
「また、私に自分で考えろと言うんですね」
「答えを渡せば、あなたはその答えに合わせて、お父さんを見ます」
栄美は父の手帳へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。父の名誉が戻ることを望んでいるのは確かだった。しかし、名誉が戻ったあとに、自分が父のいない家へ帰ることまでは考えていなかった。
そのころ草壁は、警視庁の資料室で富岡の服薬日誌を読み直していた。机には病院から受け取った黒瀬の検査結果、追悼式のカード、匿名メール、鑑定中の白い錠剤の写真が並んでいる。三田村が買ってきた幕の内弁当は蓋を開けたまま冷え、焼き鮭の脂が白く固まっていた。
「黒瀬の錠剤は、ただのビタミン剤らしいです」三田村が鑑定の途中経過を読み上げた。「富岡邸で見つかった箱の付着物とも、成分が一致する可能性が高いそうです」
「薬が同じなら、思い込みも同じように作られた」
「誰かが富岡へ偽薬を渡し、今度は幹部へ反動のメールを送ったということですか」
「同じ人間かどうかは、まだ証明できない」
草壁は富岡の日誌へ赤い線を引いた。服用後に体調がよくなったと書かれた日には、客観的な検査結果がほとんどない。睡眠時間、食欲、不安の強さはすべて富岡自身が判断したものだった。
「富岡は、薬が効いている証拠を自分で書いていた。幹部たちは、薬が危険な証拠を互いの身体から探している」
「どちらも、白い錠剤そのものには関係がない」
「関係がないから厄介なんだ。毒なら調べれば終わる。だが、考えを飲み込ませた人間は、瓶の中には残らない」
草壁は神崎涼の名が書かれた資料を取り出した。追悼式で、カードは自分の仕掛けではないと話した神崎の顔を思い出した。神崎は恐怖が計画を離れたことへ驚いていたが、止めようとはしなかった。
「神崎を呼びますか」三田村が尋ねた。草壁は服薬日誌、匿名メール、カードを一つのファイルへまとめた。「呼ぶ。今度は、薬の話ではなく、考えを植えつけた人間の話をする」
窓の外では、夜の雨が庁舎のガラスを流れていた。草壁は冷えた幕の内弁当から焼き鮭を一切れ取り、骨を確かめながら口へ運んだ。神崎に物証が残っていないことは分かっていたが、だからこそ本人の言葉から、仕掛けの形を確かめるつもりだった。




