第6話 追悼式典のカウントダウン
第6話 追悼式典のカウントダウン
追悼式の朝、東京には低い雲がかかり、細かな雨が歩道を濡らしていた。都内の高級ホテル「帝都グランド」の正面玄関には黒塗りの車が次々と到着し、黒い傘を差した参列者たちが磨かれた石段を上っていった。大宴会場の入口では、黒い制服を着たホテルの従業員が濡れた傘を預かり、白檀に似た芳香剤と淹れたてのコーヒーの匂いが広いロビーに漂っていた。
会場正面には、高さ三メートルを超える白い花の祭壇が設けられていた。百合、菊、胡蝶蘭に囲まれた富岡宗一郎の遺影は、病院への寄付金贈呈式で撮影されたもので、穏やかな笑みを浮かべている。遺影の下には「医療の未来を信じ続けた偉大な創業者」という言葉が金色の文字で掲げられ、会場の照明を受けて光っていた。
黒瀬隆一は祭壇の前に立ち、黒い礼服の袖口を引いた。昨夜はほとんど眠れず、朝食に出された鮭のおにぎりも半分しか食べていない。首筋には冷たい汗が浮かんでいたが、追悼式を無事に終えれば会社を掌握できると考え、鏡の前で何度も背筋を伸ばした。
「遺影は、もう少し照明を落としたほうがよくないか」
「会長のお顔が暗くなってしまいます」広報部長が答えた。黒瀬は写真の笑顔を見上げ、胸元へ手を当てた。「明るすぎると、目がこちらを見ているようだ」
「正面を向いたお写真ですから、どこから見てもそのように感じるのではありませんか」
「理屈を聞いているんじゃない。少し落とせと言っている」
広報部長はホテルの照明係へ合図を送った。会場がわずかに暗くなると、白い花の陰影が深くなり、富岡の笑顔だけが浮かび上がった。黒瀬は先ほどより見られている気がしたが、もう一度変更を命じれば周囲に体調を疑われると思い、口を閉じた。
控室では、幹部たちへ軽食が用意されていた。銀色の盆には小さな卵サンド、ローストビーフを挟んだパン、果物が並び、白いポットには温かい紅茶が入っていた。大崎は卵サンドを一つ取り、二口食べただけで皿へ戻した。
「味がおかしくないですか」
「何がだ」黒瀬は紅茶へ口をつけずに尋ねた。大崎はパンの断面へ鼻を近づけ、眉を寄せた。「少し薬品のような匂いがします」
「ホテルの消毒液でしょう。食べ物に入っているわけがない」
「副社長は、なぜ召し上がらないのですか」
「弔辞の前に食べる習慣がないだけだ」
黒瀬が答えると、榊原は手にしていた紅茶をテーブルへ置いた。誰も毒という言葉を口にしていないのに、幹部たちは皿の食べ物から手を引いた。ホテルの従業員が新しいサンドイッチへ交換すると申し出ても、大崎はもう結構だと断った。
「例のメールについて、警察が調べているそうです」榊原が声を落とした。黒瀬は控室の扉を確認し、従業員を全員外へ出した。「この場で話すことではない」
「会社の誰かが警察へ渡しました。秘密にするよう命じたのではありませんか」
「口の軽い人間は、どこにでもいる」
「副社長は、あの薬をお持ちなのですか」
「持っていないと何度言わせる」
「ならば、胸ポケットを触る癖はやめたほうがいい」
黒瀬は礼服の内側へ入れかけた手を下ろした。銀色の薬入れは、今朝も捨てられずに持ってきていた。弔辞の途中で身体に異変が起きたとき、最後の一粒を飲めるようにしておきたかった。
午前十時を過ぎると、会場の席が少しずつ埋まり始めた。製薬会社の経営者、大学教授、病院長、政治家、報道関係者が前方へ案内され、元社員や研究者は後ろの席へ回された。司会台の近くでは、黒いワンピースを着た女性が進行表を確認し、「黙祷は三十秒です」と何度も練習していた。
津田栄美は、父の元同僚である元研究員の佐伯と一緒に末席へ座った。栄美は襟元の詰まった紺色のワンピースを着て、雨で濡れた黒い鞄を膝へ載せていた。朝は食パンを一枚焼いたが、焦げた部分を削っているうちに食欲を失い、牛乳だけ飲んで家を出ていた。
「来たくなければ、帰ってもいいんだよ」佐伯が小声で言った。彼の黒い背広には細かな雨粒が残り、白髪は櫛で強く撫でつけられていた。「君のお父さんなら、こんな式を見ろとは言わない」
「父が何を見せられていたのか、私は知りたいんです」
「ここにいる連中は、富岡先生を立派な人間として送り出す。それを見るだけでも、腹が減るような疲れ方をするぞ」
「佐伯さんは、朝ご飯を食べましたか」
「女房が作った卵焼きと味噌汁を食べた。こんな日でも、味噌汁が薄いと言ったら怒られたよ」
栄美は父も味噌汁の濃さへよく文句を言っていたことを思い出した。母は文句を言われるたびに次の日だけ味を濃くし、父が水を足すのを見て笑っていた。栄美は祭壇の遺影ではなく、佐伯のネクタイに残った小さな卵焼きの染みを見ていた。
会場後方には、黒い背広を着た神崎涼が立っていた。白いシャツの襟はきちんと整えられ、胸ポケットには細い黒色のペンが一本入っている。神崎は祭壇より、参列者の手元、座る位置、隣同士で交わされる短い会話を見ていた。
栄美は振り返り、神崎の姿を見つけた。神崎は会釈もせず、前方の役員席へ目を戻した。大崎は水の入った紙コップを握り、榊原は首元へ指を入れて襟を緩めている。黒瀬だけは姿勢を崩さなかったが、右手が何度も胸ポケットへ動いていた。
草壁修司は会場の左端に立ち、その様子を見ていた。くたびれた灰色の背広の上へ黒い腕章をつけ、式典の関係者を装っている。朝にコンビニで買った梅のおにぎりは、時間がなくて半分しか食べられず、残りはポケットの中で平たく潰れていた。
「後方にいる黒いベストの男が神崎だ」草壁は隣の三田村へ囁いた。三田村は会場係の紺色の制服を借り、出入口の脇に立っていた。「隣にいる女性は津田栄美。二人が誰と話すか見ておけ」
「任意で話を聞きますか」
「まだ触るな。今日は何かが起きる」
「何がですか」
「それを知っていたら、こんな服を着て立っていない」
開式五分前、黒瀬は弔辞の原稿を持って前方の席へ戻った。椅子には何もなかったが、席次表の下へ白いカードが一枚挟まっていた。黒瀬は周囲を見回し、誰にも見られないようカードを膝の上へ置いた。
「白い薬を飲んだ者は、弔辞が終わるまでに最初の症状が現れる」
印刷された一文を読んだ瞬間、黒瀬は喉の奥が乾くのを感じた。時計を見ると、開式まで四分二十秒だった。弔辞は八分ほどかかるため、壇上へ立っている間に何かが起きると告げられたように思えた。
「副社長、そろそろお願いいたします」広報部長が声をかけた。黒瀬はカードを二つに折り、礼服の内ポケットへ入れた。「私の席へ近づいた者はいなかったか」
「先ほどまで会場係が資料を整えていました」
「ほかには」
「皆様が出入りしておりましたので、分かりません」
黒瀬は大崎と榊原を見た。二人とも視線をそらした。黒瀬は、どちらかが自分の反応を確かめるためにカードを置いたのではないかと考えた。
実際にカードを置いたのは、財務担当役員の稲葉だった。彼は匿名掲示板へ書き込まれた「白い薬の服用者は弔辞の最中に倒れる」という情報を読み、自分だけ薬の詳細を知らされていないことへ腹を立てていた。黒瀬が何か隠しているなら、その反応を見れば分かると思い、ホテルの複合機でカードを作った。
稲葉は黒い礼服の内側へ、印刷に使った残りの紙を入れていた。カードを置いたときは、黒瀬が慌てて薬の存在を認めると考えていただけだった。追悼式を壊すつもりも、人を倒すつもりもなかった。
午前十時三十分、照明が落とされ、司会者が開式を告げた。会場には千人近い参列者が座り、衣擦れの音も次第に消えた。祭壇へ向けて黙祷が行われたあと、富岡の生涯を紹介する映像が大型画面へ映し出された。
若いころの富岡が白衣を着て研究室に立つ写真、製薬工場の開設式、外国の要人と握手する映像が続いた。司会者は落ち着いた声で、富岡を多くの命を救った革新的な経営者と紹介した。栄美は膝の上で両手を握り、父の名前が一度も出ない画面を見つめた。
「よく、こんなものを作れますね」栄美が囁いた。佐伯は祭壇へ顔を向けたまま、口元だけ動かした。「会社が残したいものだけを並べれば、どんな人間でも立派に見える」
「父の資料も、都合の悪いところだけ外されたんですね」
「数字も、人の一生も、切り取る者の都合で形が変わる」
映像が終わり、黒瀬が弔辞を読む時間になった。黒瀬は椅子から立ち上がり、祭壇へ向かって一礼した。壇上までの十数歩がいつもより長く感じられ、革靴が絨毯へ沈むたびに、胸の鼓動が一つずつ大きくなった。
「富岡宗一郎会長は、常に患者の命を第一に考え、我が国の医療の発展へ尽くされました」
読み始めた声は安定していた。ところが二段落目へ入るころ、壇上の照明が額へ熱く当たり、喉が狭くなった。黒瀬は用意された水を飲んだが、冷たいはずの水に鉄の味がした。
役員席では、大崎が胸元へ手を当てていた。榊原は黒瀬の指先が震えていることに気づき、自分の両手を膝の下へ隠した。稲葉はカードが効いたと思ったが、黒瀬の顔色が本当に青くなっていくのを見て、座り直した。
「会長が、私どもへ遺された使命は……」
黒瀬は原稿の行を見失った。会場の視線が胸元へ集まり、内ポケットの銀色の薬入れまで見透かされているように感じられた。カードには、弔辞が終わるまでに最初の症状が現れると書いてあった。
終わらせなければ症状は来ないのか、それとも、最後まで読んだ瞬間に倒れるのか。そう考えた途端、息を吸っても胸へ空気が入らなくなった。原稿を持つ指が震え、紙がマイクの前で乾いた音を立てた。
「副社長、大丈夫ですか」前列から広報部長が声をかけた。黒瀬は答えようとしたが、喉から短い息しか出なかった。「水を……替えろ。この水は、おかしい」
会場がざわめいた。黒瀬は胸ポケットへ手を入れ、銀色の薬入れを取り出した。蓋を開けようとしたが、汗で指が滑り、薬入れは壇上へ落ちた。白い錠剤が一粒、照明の下を転がった。
大崎が椅子から立ち上がった。白い錠剤を見た瞬間、匿名メールの文章が頭へ浮かび、胸の奥が締めつけられた。榊原も喉へ手を当て、息を何度も吸い込んだ。
「やはり持っていたんですね」大崎の声が役員席から響いた。黒瀬は錠剤を拾おうと屈んだが、足元が揺れ、壇上へ膝をついた。「違う。これは、会長から……」
黒瀬は最後まで言えず、胸を押さえて横へ倒れた。マイクが床へ落ち、大きな音が会場へ響いた。前列の参列者が立ち上がり、後方では何が起きたのか見ようとする人々が通路へ出た。
「会長と同じだ。あの薬の呪いだ」
誰かが叫んだ。声の主が誰だったのか、後から確かめることはできなかった。その一言を聞いた途端、大崎は椅子へ座り込み、息ができないと訴えた。榊原も視界が暗いと言い、隣の役員の腕へしがみついた。
「皆様、席を立たないでください。医療関係者の方はいらっしゃいますか」司会者が呼びかけたが、会場のざわめきに声が消された。ホテルの従業員が壇上へ走り、別の者が救急へ電話をかけた。「正面入口を空けてください。倒れている方は何名ですか」
「三人です。いや、後ろにも一人います」
「水を飲ませるな。何が入っているか分からない」
「空調を止めろ。薬が撒かれたんだ」
参列者の声が重なり、誰かが水の入ったグラスを床へ落とした。割れたガラスの音が響くと、別の場所でも短い叫び声が上がった。空調から白い粉が出ているという噂まで広がり、出口へ向かう人々が通路へ押し寄せた。
栄美は佐伯に腕をつかまれ、席から立たされた。目の前では、富岡をたたえる冊子が床へ落ち、踏まれて表紙が曲がっている。白い花に囲まれた遺影だけが、騒ぐ参列者たちへ変わらない笑顔を向けていた。
「外へ出よう。巻き込まれるぞ」佐伯が言った。栄美は壇上で横たわる黒瀬を見つめ、神崎を探して振り返った。「あの人は、こうなると知っていたんでしょうか」
会場後方の神崎は動いていなかった。けれど、その右手は黒いベストのポケットから出され、指先がわずかに曲がっていた。草壁はその変化を見逃さず、神崎の隣へ近づいた。
「お前が置いたカードか」草壁が尋ねた。神崎は壇上へ運ばれる救急用の担架を見ながら答えた。「カード?」
「とぼけるな。黒瀬の席にあった」
「私は、薬を飲んだ人間には反動が起きるという話しか流していません。弔辞については何も知りません」
「では、誰がやった」
「私の言葉を信じた人間でしょう」
「自分の仕掛けではないと言えば、責任が消えると思うな」
「消えるとは思っていません」
神崎は黒瀬の近くで立ち尽くす稲葉へ視線を向けた。稲葉の礼服の内側から、白い紙の角がのぞいている。自分が作ったカードによって黒瀬が倒れたことを理解した稲葉は、顔を青くし、逃げることも助けに行くこともできずにいた。
草壁は三田村へ稲葉を確認するよう合図した。三田村が近づくと、稲葉は隠していた紙を床へ落とした。その用紙には、黒瀬の席に置かれたカードと同じ書体で、失敗した印刷が残っていた。
救急隊が到着し、黒瀬たちを担架へ載せた。医師が呼吸を整えるよう声をかけても、黒瀬は自分も会長と同じように死ぬと繰り返した。内ポケットから落ちた銀色の薬入れは草壁が拾い、白い錠剤と一緒に証拠袋へ入れた。
「返せ。それがなければ私は死ぬ」黒瀬は担架の上から手を伸ばした。草壁は薬入れを胸元で持ち、黒瀬の顔を見た。「これは何ですか」
「会長からもらった薬だ。早く飲ませろ」
「名前も成分も分からない薬をですか」
「特別な薬なんだ。あれだけが反動を止められる」
黒瀬の声は、担架が会場を出ても廊下へ響いていた。役員たちは互いの顔を見たが、もう自分が薬を飲んでいないとは言い切れなくなっていた。救急車の赤い光がホテルの濡れた玄関へ反射し、ロビーには使われなかったコーヒーと百合の匂いが残った。
栄美は雨の当たらない玄関脇に立ち、黒瀬を乗せた救急車を見送った。富岡の功績をたたえるために用意された紙袋には、高級な焼き菓子と記念冊子が入っていた。栄美は紙袋を開けず、濡れないよう鞄の下へ置いた。
「これが、あなたの言った第二段階ですか」栄美が尋ねると、神崎は救急車ではなく、ホテルから出てくる幹部たちを見ていた。「いいえ。カードは私の計画にはありませんでした」
「では、失敗したんですか」
「恐怖は、信じた人間の数だけ作り直されます。もう私が止められるものではありません」
神崎の声には満足も驚きもなかった。栄美は、富岡の死を知った日と同じように、胸の内側へ濡れた布を押し込まれたような重さを感じた。黒瀬が倒れる姿を見ても、父が食卓へ戻るわけではなく、焼かなかった朝の食パンが温かくなることもなかった。
ホテルの会場では、富岡の弔辞が途中で止まったままになっていた。椅子は乱れ、割れたグラスの水が絨毯へ染み込み、白い羊羹が靴に踏まれて潰れている。司会台には「多くの命を救った革新的な経営者」という紹介文が残されていたが、それを最後まで読む者はいなかった。
富岡宗一郎を偉大な人物として送り出すはずだった追悼式は、彼らが隠してきたものによって崩れた。毒物は発見されず、空調にも異常はなかった。それでも白い錠剤を見た者たちは、自分の身体の中に同じ反動が始まったと信じていた。




