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第5話 ノーシーボの感染

第5話 ノーシーボの感染


富岡宗一郎の死から二日後、富岡製薬本社の受付には白い百合と会長の遺影が飾られた。社員たちは黒や濃紺の服を着て、記帳台の前を通るたびに足を緩めたが、昼休みの食堂ではカレーうどんの汁をシャツへ飛ばした社員が笑われていた。会社はいつもどおり動いているように見えたものの、役員階だけは人の声が少なく、厚い絨毯へ吸い込まれる靴音まで遠慮がちに聞こえた。


副社長の黒瀬隆一は、役員室で追悼式の弔辞を書いていた。白いワイシャツに黒いネクタイを締め、富岡を「我が国の医療を前進させた偉大な経営者」とたたえる文章を何度も書き直している。机には秘書が買ってきたハムサンドと無糖の缶コーヒーが置かれていたが、パンの端は乾き、胡瓜の水分が包装紙へ染みていた。


「副社長、追悼式では、会長の研究者時代のお写真も使うそうです」


「白衣を着ている写真を選べ。ゴルフ場で撮ったものは外せ」


「ご家族から、笑顔の写真も入れてほしいと希望がありました」


「世間が必要としているのは、親しみやすい老人ではない。医療へ人生を捧げた創業者だ」


秘書が部屋を出ると、黒瀬は弔辞を机の端へ寄せた。会長の人生を都合よく整える作業は、臨床試験の報告書から不利な数字を外したときによく似ていた。黒瀬は乾いたサンドイッチを一口食べたが、辛子の匂いが鼻へ残り、缶コーヒーで流し込んだ。


パソコンの画面へ、新しいメールの通知が現れた。件名は「会長が服用していた薬について」とだけ書かれ、差出人には見覚えがなかった。黒瀬は迷惑メールとして削除しかけたが、富岡の名を見つけて本文を開いた。


「会長が服用していた薬は、複数の幹部にも配られていた。服用を中止した者には、会長と同じ反動が起こる。会社はこの事実を把握しているが、公表する予定はない」


薬の名前も、成分も、反動の症状も書かれていなかった。黒瀬は二度読み返し、鼻で短く息を吐いた。悪質ないたずらに決まっていると思ったが、机の引き出しを開ける手は止められなかった。


奥には銀色の携帯用薬入れがあった。蓋を開けると、白い錠剤が一粒だけ残っている。数年前、京都の料亭で富岡から渡されたものだった。


その夜、富岡は焦げ茶色の着物姿の女将に冷酒を注がせながら、銀色の薬入れを自慢していた。座敷には焼いた鮎と山椒の匂いが漂い、黒瀬の膳には手をつけていない筍ご飯が残っていた。富岡は白い錠剤を一粒取り出し、黒瀬の小皿へ載せた。


「海外から取り寄せた。普通の人間には手に入らない薬だ」


「私は心臓を悪くしておりませんが」


「悪くなってから飲んでも遅い。君には長く働いてもらわなければならん」


「安全性は確認されているのですか」


「私が飲んでいる。それ以上の証明が必要か」


黒瀬は富岡の機嫌を損ねないため、その場で一粒飲んだ。翌朝に飲むよう渡された一粒は、捨てる機会を失ったまま何年も持ち歩いていた。当時はただの健康食品だと思っていたのに、富岡が薬の欠乏を訴えて死んだと知った今では、白い表面に見えない成分が閉じ込められているように感じられた。


「馬鹿らしい。何年前の話だ」


黒瀬は錠剤を薬入れへ戻した。その直後、胸の左側が一度だけ強く打った。脈を数えようと手首へ指を当てると、意識するほど鼓動が速くなった。


秘書が追悼式の資料を持って戻ってきた。黒瀬は慌てて薬入れを引き出しへしまい、何事もなかったように椅子へ座り直した。しかし空調の風に薬品のような匂いを感じ、鼻を押さえた。


「室内で何か使ったか」


「午前中に清掃が入りました。机を拭いた程度だと思います」


「空調から妙な匂いがする」


「私には分かりませんが、止めましょうか」


「五分だけ止めろ。それから水を替えてくれ。この水も苦い」


秘書は黒瀬のグラスを持って退室した。同じ給湯室の水を朝から飲んでいるとは言わなかった。黒瀬は机の下で拳を握り、冷たくなった指先をもう一方の手で包んだ。


同じメールは、開発担当専務の大崎、法務担当役員の榊原を含む五人へ届いていた。午後三時の追悼式準備会議には、黒い背広を着た役員たちが長机を囲み、ホテル側が用意した席次表を確認していた。机には温かい緑茶と一口羊羹が置かれていたが、誰も菓子の包みを開けなかった。


大崎は何度も胸元をさすり、榊原は湯呑みの水面を見つめていた。普段なら見過ごす仕草だったが、黒瀬には二人が症状を隠しているように見えた。自分だけが富岡から薬をもらったのではなく、ほかの役員は継続的に飲んでいたのではないかと考えた。


「大崎君、胸が痛むのか」


「胃がもたれているだけです。昼の鮭弁当を残しましたから、空腹かもしれません」


「なぜ鮭を残した」


「匂いが妙に生臭く感じたんです。それが何か?」


「いや、確認しただけだ」


大崎は黒瀬の手首へ目を向けた。黒瀬が指で脈を測っていることに気づいていた。ホテルの担当者が献花台の大きさを説明している間も、三人は互いの顔色ばかり見ていた。


「お二人にも、会長の薬についてメールが届いたのですか」榊原が小声で尋ねた。黒瀬は羊羹の包みを裏返し、印刷された原材料を読むふりをした。「何の話だ」


「とぼけても仕方がありません。副社長は先ほどから脈を測っています」


「時計の位置を直していただけだ」


「私は会長から薬をもらっていません」大崎は早口で言い、すぐに唇を結んだ。黒瀬が何も聞いていないうちから否定したため、かえって三人の疑いが強くなった。「本当に一度もないのか」


「覚えていません。忘年会で栄養剤を渡されたことはありますが、白い錠剤だったかどうかまでは」


「私は薬を飲んだかどうかを聞いた」


「副社長こそ、会長から何か受け取ったのではありませんか」


ホテルの担当者は説明を止め、三人を見比べた。黒瀬は十分間の休憩を命じ、担当者を会議室の外へ出した。扉が閉まると、榊原が眼鏡を外し、曇っていないレンズをハンカチで拭いた。


「会社は把握していると、メールには書かれていました。誰が情報を持っているのでしょう」


「人事か会長秘書室を調べればいい」


「秘密の薬を配った記録など、残していると思いますか」


榊原の言葉に、黒瀬は答えられなかった。富岡製薬では、副作用被害者への支払いを別の名目へ変え、研究者へ圧力をかけた会議の記録も書き換えてきた。自分たちが記録を残さない会社にしたため、薬の正体を確かめる記録まで存在しなかった。


「会長の家に残っていた薬を調べましょう」大崎が言った。黒瀬は警察が調べている最中だと答え、余計な問い合わせをしないよう命じた。「薬のことを警察へ知られれば、会長の判断能力を疑われる。会社の信用にも関わる」


「その間に反動が出たら、どうするんですか」


「反動があると決まったわけではない」


「では、副社長はなぜ、そんなに汗をかいているのですか」


黒瀬はハンカチで首筋を拭いた。冷房が効いた部屋で汗をかいていると指摘された途端、背中まで湿っているように感じられた。榊原が水を一口飲むと、大崎も続けて湯呑みを空にした。


翌日から、幹部たちは互いの身体を観察し始めた。大崎が昨夜は三時間しか眠れなかったと話すと、その晩、榊原は午前二時まで寝返りを打った。榊原が会議中に喉を押さえると、向かいに座っていた役員まで息苦しさを感じた。


メールを受け取っていない幹部にも噂が届いた。自分だけ重要な情報から外されていると思った者は、迷惑メールの中を探し、過去の会食で富岡から錠剤を渡されなかったか秘書へ尋ねた。薬をもらっていないことは安全の証明になるはずなのに、彼らには富岡から信用されていなかった証拠のように感じられた。


「会長は誰に薬を渡したんだ」


「存じません」


「銀色の薬入れを見たことは」


「会長は、いつも何種類かのお薬をお持ちでした」


「何種類だ。色も覚えていないのか」


秘書は弔電を会社名順に並べていた手を止めた。紺色の制服の袖口には、黒いインクの染みがついている。答えを知らないと言っても役員は納得せず、自分だけ隠されているのではないかと何度も同じ質問を繰り返した。


社内診療室には、動悸、めまい、頭痛、息苦しさを訴える幹部が集まり始めた。看護師は血圧を測り、緊急性のある異常は見られないと説明した。診療室の机には医師が昼食に買った梅のおにぎりが置かれ、湿った海苔の匂いが消毒液へ混じっていた。


「薬の名前も分からないのですか」医師は黒瀬へ尋ねた。黒瀬は黒いネクタイを緩め、内ポケットの薬入れへ手を当てた。「会長が特別な薬を飲んでいたと聞いただけだ」


「錠剤をお持ちなら、調べられます」


「持っていない」


「では、何を中止した反動なのかも分かりません。強い不安で動悸が起きている可能性があります」


「気のせいだと言いたいのか」


黒瀬は椅子から立ち上がった。検査へ出せば、一粒しかない錠剤を失う。無害だと分かる可能性より、最後の一粒を手放したあとで身体が悪化する可能性を考え、差し出すことができなかった。


富岡の死から五日後、草壁修司は役員秘書から匿名メールの写しを受け取った。草壁は雨で肩の濡れた灰色の背広を着て、応接室の窓際に立っていた。コートのポケットには昼に買ったあんパンが入っていたが、聞き取りが長引き、袋の中で潰れていた。


「なぜ、すぐ警察へ知らせなかったんですか」


「副社長から、社外へ漏らすなと言われました」


「会長の死に関係する可能性があります」


「この会社では、何が会社に関係するかを役員が決めます」


秘書はそう答えたあと、口を閉じた。草壁はメールを読み、薬の名前、服用した幹部、症状、反動が起きる時期のどれも書かれていないことを確認した。それなのに黒瀬たちは、自分の身体に起きた小さな変化をすべて反動へ結びつけている。


警視庁へ戻った草壁は、若い刑事の三田村とメールを調べた。送信元は海外の通信経路をいくつも通った形跡があり、差出人を直接示す情報は残っていなかった。三田村はコンビニの焼きそばパンを食べながら、要求のない文章は脅迫状と呼べるのかと尋ねた。


「金を払えとも、何かを公表しろとも書いていませんね」


「死ぬとも書いていない」


「同じ反動が起こるとはあります」


「その反動が何なのかは、一言も書いていないんだ」


草壁は赤いペンで「同じ反動」という部分を囲んだ。誰かが胸を押さえれば胸痛が反動になり、眠れなければ不眠が反動になる。送り主は症状を指定せず、幹部たちの記憶と恐怖に空白を埋めさせていた。


「これは脅迫状じゃない。読む人間に、自分で続きを作らせる文章だ」


草壁はメールを証拠袋へ入れ、富岡製薬の役員名簿を机へ広げた。送り主は、幹部たちが富岡から薬をもらった可能性だけでなく、彼らが互いを信用していないことまで知っている。不正を隠すために秘密を重ねてきた会社だからこそ、「自分だけが知らされていない」という疑いが社内へ広がった。


その夜、黒瀬は自宅の洗面所で白い肌着のまま血圧を測っていた。台所では妻が鯵の開きを焼き、味噌汁を温め直している。最初の数値が高かったため、黒瀬は深呼吸してもう一度測ったが、結果を待つ間に鼓動が速くなった。


「ご飯が冷めますよ」妻が廊下から声をかけた。黒瀬は返事をせず、銀色の薬入れを開いた。白い錠剤を飲めば助かるのか、飲んだことで反動が始まるのか、どちらも分からなかった。


黒瀬は錠剤を掌へ載せたまま、明け方まで眠れなかった。



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