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第4話 死を待つ会長

第4話 死を待つ会長


最後の白い錠剤を飲んだ翌朝、富岡宗一郎は午前四時十二分に目を覚ました。薄い絹の寝間着は背中へ貼りつき、枕元の水差しには昨夜からの水が半分残っていた。窓の外では雨どいから水が落ち、一定の間隔で石を打っている。富岡は右手を胸へ置き、心臓が一度打つたびに、次の鼓動が来るまでの時間を数えた。


一、二、三と数える間に鼓動の間隔が少しずれたように感じた。富岡は上半身を起こし、銀色の薬入れを開けたが、中には白い粉がわずかに残っているだけだった。昨夜の錠剤が欠けていたのかもしれないと思い、人差し指の先についた粉を舐めた。苦みも甘みもなく、その何もない味が、薬を完全に失った事実を強く感じさせた。


「房江、起きているか。白湯を持ってこい」


呼び鈴を押してから数分後、房江が薄茶色の寝間着へ紺色のカーディガンを羽織って入ってきた。髪は後ろで急いで束ねられ、左の頬には枕の跡が残っている。房江は白湯の入ったカップを置き、富岡の濡れた寝間着へ目を向けた。


「汗をかいておられます。お熱を測りましょうか」


「熱ではない。指先が冷たい」


「雨の日は冷えますから、暖房を少し上げましょう」


「そんな単純な話ではない。薬が切れた反動だ」


房江は銀色の薬入れを見たが、何も言わなかった。ベッド脇には三宅が処方した桃色と黄色の錠剤が残されている。飲み忘れを指摘すれば富岡が声を荒らげることは分かっていたが、黙って下がることもできなかった。


「三宅先生からいただいたお薬なら、まだございます」


「それは今までの薬だ。反動を止められるものではない」


「先生へ伺わなければ、分からないのではありませんか」


「分からない人間に聞いてどうする。余計なことをするな」


房江は白湯の温度を確かめ、カップを富岡の手元へ寄せた。富岡は一口飲んだが、舌へ触れた水がいつもより金属臭く感じられ、すぐに顔をしかめた。房江が同じ水差しから自分のカップへ注いで飲むと、味に変わりはなかった。


「今朝の水はおかしい。浄水器を調べさせろ」


「私には、いつもと同じに感じます」


「お前の舌で私の身体を判断するな」


朝食には、耳を切り落としたトーストと蜂蜜、砂糖を入れない紅茶、柔らかく煮た林檎が用意された。富岡は白いシャツに臙脂色のガウンを羽織り、書斎の机でトーストを一口食べた。蜂蜜は毎朝と同じ量だったが、喉に薄い膜が張るように感じられ、二口目を飲み込めなかった。


「蜂蜜を変えたのか」


「いいえ。先週と同じ瓶でございます」


「舌がしびれる。薬が切れたせいだ」


「昨日は、夕食もあまり召し上がっておりません。空腹でお加減が悪くなっているのではないでしょうか」


「食欲の低下も反動の一つだ。帳面に書いておけ」


房江は返事をせず、冷め始めた紅茶を盆へ戻した。台所では料理長が卵焼きを切り、瀬川が朝食の味噌汁をご飯へかけていた。房江がトーストをほとんど残したと伝えると、料理長は蜂蜜の量を間違えたのかと眉を寄せた。


「昨日も鯵の開きを残したぞ。歯が痛いんじゃないのか」


「指が冷たい、舌がしびれるとおっしゃっています」


「そりゃ、医者を呼んだほうがいい」


「先生のお名前を出すと、お怒りになるのよ」


瀬川は味噌汁をすすり、富岡の部屋から呼び鈴が聞こえると箸を置いた。食べかけのご飯には海苔が貼りつき、湯気が少しずつ消えていく。房江は盆を流しへ置き、また二階へ向かった。


午前九時、久保田から電話が入った。富岡は受話器を両手で握り、海外の研究所から返事が届いたのかと尋ねた。久保田は自宅の台所で、妻が焼いた目玉焼きを食べる途中だった。黄身へかけた醤油が白い皿へ広がり、トースターの中では二枚目のパンが焦げ始めていた。


「連絡はありません。研究所の窓口も閉鎖されているようです」


「閉鎖とはどういう意味だ。契約した利用者を放置するのか」


「紹介元へも確認していますが、先方の担当者と連絡が取れません」


「金なら払う。十倍でも構わん」


「会長、いったん主治医へご相談ください。その薬の箱を見せれば、成分を調べてもらえるでしょう」


「成分を調べるために、残りを全部使った。箱も処分した」


富岡は嘘をついた。空になった白い箱は寝室の金庫へ入れ、警告書は寝間着の胸ポケットへしまっていた。三宅に見せれば、無害なものだったと笑われるかもしれない。あるいは会社の役員へ連絡され、会長が正体不明の薬を飲んで経営判断を誤っていると知られるかもしれなかった。


「久保田、お前がこの薬を持ってきた。最後まで責任を取れ」


「申し訳ありません。ただ、今は会長のお身体が先です」


「今日中に見つけろ。それまでは電話を切るな」


富岡は一方的に受話器を置いた。立ち上がった瞬間、視界がわずかに暗くなり、机へ手をついた。朝食をほとんど取っていないことや、急に立ったことは考えず、薬を失った反動が進んだのだと判断した。


その日の午後、三宅から電話がかかってきた。富岡が次回の診察を取り消したため、本人の状態を確認する連絡だった。富岡は濃紺の背広へ着替え、会社へ出る準備をしていたが、ネクタイを結ぶ途中で椅子へ座り込んでいた。


「富岡さん、胸の違和感は続いていますか」


「大したことはない。忙しいから予約を変えただけだ」


「薬局から、処方薬の受け取りが遅れていると連絡がありました。きちんと服用していますか」


「私の薬の管理にまで口を出すな」


「それが私の仕事です。息切れやめまいがあるなら、今日中に来てください。必要なら救急車を手配します」


富岡は救急車という言葉を聞き、窓の外へ目を向けた。救急隊が屋敷へ来れば、使用人だけでなく近所にも知られる。病院で秘密の薬について聞かれれば、正体の分からないものを数か月も信じていたと認めなければならない。


「入院させ、私を会社から遠ざけるつもりか」


「会社の話ではありません。心臓の話です」


「検査をすれば何でも分かると思うな。私は自分の身体を毎日記録している」


「だからこそ、その記録を持ってきてください」


「必要ない。診察は来月でいい」


富岡は電話を切り、ネクタイを外した。会社へ行けば、役員たちに顔色を見られる。黒瀬は会長の椅子が空く日を待っているかもしれないと考え、秘書へ体調不良ではなく自宅で重要な会議があると伝えさせた。


夕方、富岡邸へ差出人のない茶色い封筒が届いた。切手は貼られておらず、門の郵便受けへ直接入れられていた。瀬川は不審に思い、開封せずに富岡へ報告した。


「警察へ渡しましょうか」


「私宛てのものを、勝手に判断するな」


「差出人がありません。中身を確認してからのほうがよろしいかと」


「だから私が確認する。お前は門の記録を調べろ」


瀬川が出ていくと、富岡は書斎の扉へ補助錠をかけた。封筒の中には、富岡製薬の循環器系新薬で副作用を起こした患者の一覧が入っていた。氏名は一部が伏せられていたが、年齢、症状、発症日、会社が支払った見舞金の額まで記されている。


富岡は最初の五行へ目を通し、紙を机へ置いた。各項目は「次の患者は」「はじめの報告では」「あの日の検査で」「亡くなったあと」「担当部署は」という文章から始まっていた。最初の文字だけを上から読むと、「次はあなた」と読めた。


「馬鹿なまねをしおって」


富岡は声に出したが、紙を破ることはできなかった。一覧には、取締役会で報告を受けた覚えのある患者だけが選ばれていた。十六歳の少年、出産を控えた女性、定年後に妻と旅行する予定だった男性について、富岡は補償額を減らすよう指示したことまで思い出した。


書類の端から、古い紙と煙草が混じったような匂いがした。富岡は差出人を推理しようとしたが、患者の家族、左遷した研究者、口止め料を受け取った医師の顔が次々と浮かんだ。誰か一人を疑えば、その人物が別の誰かへ資料を渡している可能性まで考えなければならなかった。


「瀬川、すぐ来い」


「門の映像を確認しましたが、雨でよく見えません。帽子をかぶった人物が、午前十一時ごろ郵便受けへ近づいています」


「顔は」


「分かりません。背丈からすると男性とも女性とも言えます」


「役に立たん映像を何のためにつけている」


「警察へ届けましょう。封筒に指紋が残っているかもしれません」


「その必要はない。つまらない商品の売り込みだった」


富岡は一覧を机の引き出しへしまった。警察へ渡せば、隠蔽した副作用被害の存在まで調べられる。瀬川が部屋を出ると、富岡は引き出しを開け、五行の最初の文字をもう一度指でたどった。


その夜から、富岡は屋敷の音へ耳を澄ますようになった。雨が窓を打てば誰かが庭へ入ったと思い、廊下で床板が鳴れば、房江を呼んで書斎の前を確認させた。寝室のカーテンは朝になっても開けず、窓へ近づくときには照明を消した。


夕食には牛肉とごぼうのしぐれ煮、ほうれん草の胡麻和え、なめこの味噌汁が並んだ。富岡は箸で牛肉を二切れ食べただけで、味噌汁にも口をつけなかった。房江が白いご飯を小さなおにぎりにすれば食べられるかと尋ねると、富岡は首を振った。


「食欲がないのは、いつからですか」


「お前に説明しても分からん」


「少しでも召し上がらなければ、お薬も飲めません」


「薬は飲んでいる」


「朝の分が、まだ寝室に残っております」


富岡は箸を置き、房江を睨んだ。桃色と黄色の処方薬を見るたびに、白い錠剤との違いが目についた。これを飲めば安全なのか、それとも白い錠剤の効果を弱めるのか、考えるほど服用する時刻を決められなくなっていた。


「私の許可なく、寝室の薬を見るな」


「毎朝、お水を替えておりますから見えます。三宅先生へだけでも――」


「先生の名前を出すな。下がれ」


房江は食卓から膳を下げた。台所へ戻ると、冷えた味噌汁を鍋へ移し、料理長と二人で残ったしぐれ煮を食べた。会長の食事を捨てるのはもったいないと料理長は言ったが、房江は箸を持ったまま、明日の朝も起きてこなかったらどうしようと考えていた。


白い錠剤がなくなって四日目、富岡の睡眠は二時間を切った。五日目には、廊下を歩くだけで息が上がった。六日目の夜、胸の奥に細い針を差し込まれたような感覚があり、富岡は警告書を取り出した。


「中断後、重大な反動が生じる可能性があります」


何度読んでも同じ文章だった。可能性と書かれているだけなのに、富岡にはすでに始まった症状の説明に見えた。主治医へ電話すればよいと分かっていたが、受話器を取るたびに三宅の言葉が浮かんだ。


病気は、実感だけでは判断できません。


富岡は、その言葉を自分への侮辱として覚えていた。今さら助けを求めれば、三宅が正しかったことを認めることになる。入院を勧められても拒み、処方薬の時間も変え、正体の分からない錠剤を信じた経緯が会社へ知られれば、黒瀬たちは会長の判断能力に問題があると騒ぐだろう。


七日目の夜、富岡は書斎へ補助錠をかけた。白いシャツの第一ボタンを外し、濃紺のネクタイを緩めても、胸の重さは消えなかった。机には冷えたコーヒー、読みかけの医学雑誌、空の銀色の薬入れが置かれている。


富岡は引き出しを一段ずつ開け、書類を床へ放り出した。以前の薬箱に錠剤が残っていないか、鞄の底やコートのポケットまで探した。金庫から最後の白い箱を取り出し、内側の紙を剥がして振ったが、何も落ちなかった。


「あるはずだ。一粒ぐらい残っているはずだ」


机の下へ膝をつき、絨毯へ顔を近づけた。白い紙くずを見つけるたびにつまみ上げたが、どれも薬ではなかった。立ち上がろうとした瞬間、胸の中で鼓動が大きく跳ね、そのあと何度も不規則に続いた。


富岡は机へ手をつき、受話器を見た。救急へ電話するなら三つの数字を押すだけだった。しかし先に警告書を読み、症状が反動と一致しているか確かめようとした。紙を取り出す手が震え、胸ポケットから床へ落ちた。


次はあなた。


封筒の文章が頭に浮かんだ。富岡は誰かが薬の供給を止め、自分が死ぬ日を待っているのだと確信した。救急車を呼んでも間に合わず、病院にも相手の仲間がいるかもしれないと思い、受話器へ伸ばした手を引いた。


机の上には、富岡製薬の社名が入ったメモ用紙と万年筆があった。富岡は椅子へ座り、呼吸を整えようとしたが、胸の奥で鼓動が激しく乱れていた。誰が読んでも、自分が薬を奪われたために死んだと分かる言葉を残さなければならないと思った。


「薬が切れた。私は呪われて死ぬ」


最後の文字を書いたとき、万年筆の先が紙から外れ、机へ黒い線を引いた。富岡は受話器をもう一度見たが、椅子から立ち上がれなかった。右手を胸元へ置き、左頬を机につけるように倒れた。


雨は夜明けまで細く降り続いた。寝室には三宅が処方した薬が残り、廊下の電話も正常につながっていた。玄関には瀬川が勤務し、房江は一階の部屋で眠っていた。呼び鈴を一度押せば、誰かが書斎へ来たはずだった。


富岡を死なせた直接の原因は、もともと患っていた心臓の病気だった。白い錠剤には、心臓を守る力も、止める力もなかった。しかし富岡は、錠剤だけが自分を救うと信じ、主治医の診察を断り、処方薬の服用を乱し、救急車を呼ぶ時間まで手放した。


神崎が富岡の身体へ触れたことは、一度もなかった。毒も渡さず、薬も奪っていない。神崎が用意したのは、富岡自身が本物にした一つの嘘だった。



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