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第3話 プラシーボの白い錠剤

第3話 プラシーボの白い錠剤


栄美が神崎の事務所を訪れてから三週間後、富岡宗一郎は都心の会員制レストランで資産管理人の久保田雅之と昼食を取っていた。富岡は濃い灰色の背広に銀色のネクタイを締め、白いナプキンを膝へ広げていたが、目の前の牛肉にはほとんど手をつけていなかった。赤ワインで煮込まれた肉から甘い香りが立ち、付け合わせの人参には艶のあるソースがかかっている。それでも富岡は胸元へ何度も指を当て、久保田の話より、自分の心臓が打つ間隔を気にしていた。


「また眠れていないのですか」久保田はナイフを置き、薄い青色のシャツの袖口を直した。富岡は水を一口飲んでから、昨夜も午前二時に目が覚めたと答えた。「三宅先生からいただいている薬では、足りないのでしょうか」


「三宅は教科書どおりのことしか言わん。塩分を減らせ、酒を控えろ、入院して検査を受けろ。それで私の時間を何日奪うつもりだ」富岡は牛肉を小さく切ったものの、口へ運ばずに皿の端へ寄せた。隣の席では若い夫婦が結婚記念日のケーキを分け合い、店員が小さな声で祝福している。「一般の患者と同じ治療を受けるために、私は七十二年も働いてきたのではない」


久保田は返事の代わりにパンをちぎった。数日前、海外の予防医療研究所に所属するというコンサルタントから、富裕層向けの治療情報が届いていた。紹介者を限定し、広告も出さず、既存の医療機関とは距離を置くという説明は怪しかったが、富岡が好みそうな条件ばかりそろっていた。久保田自身は妻から健康食品を買うことさえ止められており、毎朝飲むのは血圧の薬と安い乳酸菌飲料だけだった。


「実は、海外の研究所から興味深い話が来ています。心臓への負担を抑える予防薬を、限られた利用者へ提供しているそうです」


「どこの研究所だ」


「名称は契約前には明かせないとのことです。情報が広まれば、希望者が殺到するからだと説明されました」


「費用はいくらだ」


富岡が薬の安全性より先に値段を尋ねたため、久保田は眉を動かした。手に入りにくいものほど価値があると考える癖を、彼は二十年以上見てきた。富岡は以前にも、一般販売されていない腕時計を欲しがり、同じ型を持つ経営者がいると知っただけで買うのをやめたことがある。


「費用の問題ではなく、適格者かどうかを先方が判断するそうです。健康状態だけでなく、社会的な立場も審査されます」


「私が不適格になる理由はない。すぐに話を進めろ」


「主治医にも相談したほうがよろしいのではありませんか」


「相談すれば止めるに決まっている。三宅には知らせるな」


富岡はようやく牛肉を口へ入れ、赤ワインのソースが濃すぎると店員へ伝えた。久保田は味見をしたが、いつもと変わらないように感じた。食事を終えて席を立つころには、富岡の歩幅が来店時より広くなっていた。まだ薬を見てもいないのに、特別な治療を受けられると決まっただけで、胸の違和感が軽くなったらしい。


その夜、神崎の事務所にはコンビニで買った焼き鯖弁当の匂いが残っていた。神崎は白いシャツの袖を肘までまくり、久保田から転送された面談記録を読んでいた。机の端では味噌汁が冷め、表面に細かな脂が浮いている。栄美は父の手帳を返してもらうために立ち寄ったが、神崎から座るよう言われ、紺色のコートを脱がずに椅子へ腰を下ろした。


「富岡へ接触したんですか」


「していません」


「では、誰と話したんですか」


「富岡さんは、自分が信頼する人間から聞いた情報しか受け入れません。正確には、自分が選んだ人間から聞いた情報なら、正しいと思うのです」


神崎は久保田の名前を伏せたまま、海外の研究所に所属するコンサルタントを紹介したと説明した。電話も文書も外国語を交え、問い合わせにはすぐ返事をせず、利用資格の確認に時間をかけていた。栄美には、そのような回りくどいやり方が必要だとは思えなかった。効く薬だと言って渡すだけでよいのではないかと尋ねると、神崎は冷えた味噌汁の容器へ蓋をした。


「簡単に手に入るものを、富岡さんは信用しません。自分だけが選ばれたという手続きが、薬より先に必要なのです」


「本物の薬を渡すんですか」


「薬を作る資格はありません」


「それなら、何を渡すつもりですか」


神崎は引き出しから透明な瓶を出した。中には丸い白色の錠剤が並び、瓶を傾けると乾いた音を立てた。栄美は一粒へ顔を近づけたが、表面には文字も印もなく、甘い匂いもしなかった。


「市販のビタミン剤です。表示された量を守って飲む限り、特別なものではありません」


「そんなもので、富岡が騙されるんですか」


「錠剤だけを渡せば、騙されません。彼が信じるのは成分ではなく、自分が選ばれたという説明です」


翌月、白い錠剤を入れた最初の箱が富岡邸へ届けられた。黒い布を張った小箱には外国語のラベルが貼られ、服用前に体調を記録するよう日本語の案内が添えられていた。富岡は紺色のガウンを羽織り、寝室の机へ箱を置くと、房江に熱すぎない白湯を用意させた。その日の夕食には鰆の西京焼きと筍の煮物が出たが、富岡は魚を半分残し、八時になるのを待って白い錠剤を一粒飲んだ。


「今夜は誰も寝室へ近づけるな。呼び鈴を鳴らしたときだけ来い」


「お加減が悪いのでしたら、三宅先生へご連絡いたしましょうか」


「必要ない。これは予防のための薬だ」


「いつものお薬は、どうなさいますか」


「あとで飲む。余計な心配をするな」


房江が盆を持って部屋を出ると、富岡はベッドへ横になった。胸へ掌を当て、時計の秒針を見ながら鼓動を数える。最初の十分間は何も変わらなかったが、三十分後には肩の力が抜け、呼吸が深くなったように感じた。窓の外では冬の風が庭木を揺らし、遠くで犬が何度か鳴いていた。


翌朝、富岡は六時二十分に目を覚ました。夜中に一度しか起きなかったのは数週間ぶりで、枕元の時計を見たとき、白い錠剤の力だと考えた。房江が蜂蜜を塗ったトーストを運ぶと、富岡は四辺の耳がきれいに切られていることを確かめ、珍しく文句を言わずに一枚食べた。


「今朝の紅茶は悪くない」


「昨日と同じ茶葉でございます」


「淹れ方が違うのだろう。今日は身体が軽い」


房江は返事をしながら、富岡が空にした皿を見た。前夜には鰆を残していたため、料理長が味つけを気にしていた。房江は食器を下げたあと、台所で朝食を取る瀬川へ、会長が今日は機嫌よくパンを一枚食べたと話した。


「新しい薬が効いたそうですよ」


「また海外から何か買ったのか。前は一瓶十万円の水を飲んでいたぞ」


「今回は本物だとおっしゃっています」


「会長にとっては、高いものは全部本物なんだろう」


瀬川は焼き海苔を白いご飯へ巻き、房江は残った紅茶を流しへ捨てた。二人の会話を富岡が聞くことはなかったが、屋敷の中では新しい薬の噂が少しずつ広がった。富岡は使用人が自分の体調を気にしていることさえ、薬の効果が外から見ても分かる証拠だと受け取った。


白い錠剤の箱には、毎日の状態を記入する帳面も同封されていた。富岡は朝晩の脈拍、睡眠時間、食欲、胸の違和感、不安の強さを、黒い万年筆で細かく書き込んだ。記録を始めたころは数字だけだったが、やがて「会議中に動悸なし」「昼食を完食」「階段を休まず上れた」と、よかった出来事を赤い線で囲むようになった。


一週間後、神崎は久保田を通して帳面の写しを受け取った。神崎からの回答には、状態がよかった日の記録だけが抜き出され、服用後に安定する傾向が確認されたと書かれていた。眠れなかった夜や胸が重かった日は、身体が薬へ順応する過程として扱われた。富岡は自分が書いた数字と神崎が選んだ言葉を見比べ、薬の効果が証明されたと思い込んだ。


「やはり効いている。三宅の薬では、ここまで眠れなかった」


「ただし、先生の処方薬も指示どおりお飲みください」久保田は電話口で念を押した。富岡は書斎の机へ座り、朝に届いた新聞を脇へ押しやった。「もちろんだ。私は素人ではない。勝手なことはしない」


そう答えながら、富岡は昼に飲むはずだった桃色の錠剤を夜まで机の引き出しへ入れていた。白い錠剤と一緒に飲めば効果が弱まるかもしれないと考えたからだった。医学的な根拠はなかったが、秘密の治療について三宅へ尋ねることもできない。質問して否定されるより、自分の判断を信じるほうが富岡には簡単だった。


三月の診察日、富岡は黒いカシミヤのコートを着て三宅の病院を訪れた。待合室には消毒液と加湿器の湿った匂いが漂い、向かいの椅子では高齢の女性が蜜柑を一房ずつ夫へ渡していた。富岡はその夫婦を見ないよう経済誌を開いたが、同じページを十分近く眺めていた。診察室へ呼ばれると、三宅は検査結果を机へ置き、眼鏡を押し上げた。


「血圧が安定していません。薬を決められた時刻に飲んでいますか」


「会食があれば、多少ずれることはある」


「多少ではありませんね。前回より数値が悪くなっています。短期間でも入院して、詳しく調べましょう」


「必要ない。睡眠も食欲も改善している」


「ご自分で判断しないでください。胸の違和感はありますか」


富岡は答える前に、鞄へ入れた白い錠剤の箱を思い浮かべた。三宅へ見せれば、成分を調べられ、海外の研究所との契約まで否定されるかもしれない。一般の医師には理解できない治療だから秘密にするよう、案内書にも書かれていた。


「以前より減った。先生の検査は、私の実感と合っていない」


「病気は、実感だけでは判断できません」


「数字ばかり見て患者を見ない医師に、言われたくない」


富岡は立ち上がり、診察を途中で切り上げた。三宅が次回の予約を取るよう呼び止めても、振り返らなかった。帰宅すると、房江が昼食に用意した海老と卵の雑炊を食べ、帳面の食欲欄へ「良好」と記した。診察室で上がった血圧については、三宅への不快感が原因だと考え、薬の記録から外した。


四月になると、箱に入る錠剤の数が減った。それまで一か月分届いていたものが三週間分になり、次は二週間分になった。久保田が問い合わせても、研究所からは供給体制を見直しているという返事しか来なかった。富岡は銀色の薬入れへ残量を移し、朝と夜に蓋を開けて数えるようになった。


「追加分を確保しろ。費用なら倍でも三倍でも払う」


「金額の問題ではないそうです。利用希望者が増え、製造が追いつかないと」


「私を誰だと思っている。ほかの利用者を断ればいい」


「先方は、特別扱いはできないと言っています」


「特別な人間へ売る薬だと言ったのは、お前だろう」


久保田は受話器から耳を離し、机に置いた妻の弁当へ目を向けた。蓋の隙間から、醤油の染みた鶏の照り焼きが見えている。富岡の資産を管理して二十年になるが、これほど露骨に何かを欲しがる声を聞いたことはなかった。


その夜、富岡は食卓に出された天ぷらを一口しか食べなかった。海老の衣が油を吸い、皿の上で冷えていく。房江が温め直すか尋ねても、富岡は銀色の薬入れを開けたまま、残りの日数を指で数えていた。


「会長、今夜はお薬をお飲みになったのですか」


「まだだ。いつ飲むかは私が決める」


「三宅先生のお薬も、朝からテーブルに残っております」


「捨ててはいない。あとで飲むと言っている」


房江が食器を下げたあと、富岡は白い錠剤を掌へ載せた。今飲めば胸の違和感は消えるが、残りは一日分減る。半分に割ることも考えたが、決められた量を変えれば効果がなくなる気がした。富岡は二十分ほど錠剤を見つめた末、白湯と一緒に飲み込み、帳面へ「服用後、胸部安定」と書いた。


五月の終わり、最後の小箱が届いた。黒い布張りではなく、飾りのない白い箱だった。中には七粒の錠剤と、一枚の警告書が入っている。富岡は薄い紙を両手で持ち、眼鏡の位置を何度も直しながら、印刷された文章を読み返した。


「効果は継続服用によってのみ維持されます。中断後、重大な反動が生じる可能性があります」


富岡の指先が紙の端を強くつかんだ。窓の外では庭師が芝刈り機を動かし、刈られた草の青い匂いが網戸から入ってきた。書斎には昼食に残した鯵の開きと大根おろしが置かれ、味噌汁の表面には薄い膜が張っていた。いつもなら匂いが残ると房江を叱るところだったが、富岡は警告書から目を離せなかった。


「久保田へ電話しろ。今すぐだ」


「久保田様は会議中とうかがっております」房江は盆を持ち上げながら答えた。富岡は卓上電話の受話器を取り、自分で番号を押した。「会議など中止させろ。薬が七日分しか入っていない」


「体調がお悪いのでしたら、三宅先生をお呼びいたします」


「三宅では役に立たん。この薬を手に入れなければ意味がない」


房江は何も言わず、冷えた昼食を台所へ運んだ。料理長は手つかずの鯵を見て焼き方が悪かったのかと尋ねたが、房江は首を振った。富岡は最近、食べ物の味より薬の残りばかり気にしていると話し、味噌汁を流しへ捨てた。


同じころ、神崎の事務所では、除湿機がたまった水を知らせる赤いランプを点滅させていた。神崎は白いシャツに黒いベストを着て、富岡から届いた最後の服薬記録を読んでいた。机には鮭のおにぎりと麦茶が置かれていたが、どちらにも手をつけていない。帳面の後半には赤い線が増え、「供給減少を考えると動悸」「残数確認後に胸部圧迫感」「服用すると軽快」と書かれていた。


栄美は向かいの椅子へ座り、警告書の控えを読んでいた。薄い水色のブラウスに灰色のカーディガンを羽織り、仕事帰りに買った豆大福の袋を膝へ置いている。母にも一つ持ち帰るつもりだったが、袋の中で柔らかな餅が少し潰れていた。


「重大な反動とは、何が起きるんですか」


「何も決めていません」


「薬をやめても、身体には何も起きないということですか」


「錠剤そのものには、富岡さんが考えているような作用はありません」


「それなら、どうしてこんな文章を送ったんですか」


神崎は富岡の記録を机へ置いた。最初のページでは、不安の強さが十段階の三と書かれていた。最後のページでは、薬を飲む前が九、飲んだあとは二になっている。富岡は白い錠剤を飲む前から悪化を予想し、飲んだあとは改善した証拠を探すようになっていた。


「私は、富岡さんへ新しい恐怖を与えていません。彼が以前から持っていたものへ、名前をつけただけです」


「それでも、怖がらせていることに変わりはありません」


「あなたは、彼に苦しんでほしいと言いました」


「言いました。でも、どこまでやるのか知りませんでした」


「だから尋ねないよう伝えたのです」


栄美は豆大福の袋を握り、薄い紙へ丸い染みを作った。富岡が眠れず、食事を残し、錠剤の数を何度も数えていると想像しても、父が戻ってきたようには感じなかった。神崎は栄美の顔を見ず、最後の記録を黒いファイルへしまった。


「もう薬を送らないんですか」


「送りません」


「富岡は、どうすると思いますか」


「自分が信じているとおりに行動します」


「もし、病院へ行けば」


「助かる可能性は上がるでしょう」


「行かなかったら」


神崎は答えず、窓辺の除湿機から水受けを外した。溜まった水を流しへ捨て、容器を布巾で拭いて元へ戻す。その間にも、机の上の電話は一度も鳴らなかった。


富岡邸では、七粒あった白い錠剤が六粒になっていた。富岡は一粒減った薬入れを枕元へ置き、警告書を寝間着の胸ポケットへ入れた。三宅から届いた次回診察の案内は、封を切らないまま机の引き出しへ押し込んでいる。


翌朝、久保田は研究所へ追加の手配を求めるメールを送った。しかし返事は届かなかった。二日目にも、三日目にも、海外のコンサルタントから連絡はなかった。


神崎は、供給を断った。



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