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第2話 遺された者のマインドセット

第2話 遺された者のマインドセット


半年前の十二月、東京には朝から冷たい雨が降っていた。津田栄美は黒いウールのコートの襟を閉じ、父の遺品を詰めた紺色の布鞄を両腕で抱えながら、神崎涼の事務所が入る古い雑居ビルを見上げた。父が亡くなってから、栄美は黒や紺の服ばかり選ぶようになり、明るい色のセーターは洗濯したまま箪笥の奥へ押し込んでいた。昼食には駅前で卵サンドを買ったが、包装を開ける気になれず、鞄の中では潰れたパンから黄色い卵がはみ出していた。


建物の一階には、小さな蕎麦屋が入っていた。出汁と揚げ玉の匂いが階段まで漂い、作業服姿の男たちが天ぷら蕎麦をすすっている。栄美は父が昼食によく立ち食い蕎麦を食べていたことを思い出し、二段目の階段で足を止めた。浩介は蕎麦を食べるたびにネクタイへ汁を飛ばし、母から子どものように叱られていた。


「白衣を着て難しい研究をしているくせに、どうしてお蕎麦だけは上手に食べられないの」


母がそう言うと、父は染みのついたネクタイを指でつまみ、次はカレーにすると答えていた。栄美は、そのつまらない会話を思い出した自分に腹を立てるように階段を上った。父を奪った人間が何事もなく暮らしているのに、自分だけが味噌汁の匂いやネクタイの染みで足を止めていることが許せなかった。


神崎の事務所の扉には、会社名も肩書も書かれていなかった。銀色の小さなプレートに「神崎」と姓だけが刻まれ、その下には予約のない訪問には応じないという紙が貼られている。栄美が呼び鈴を押すと、しばらくして内側から鍵の外れる音がした。扉を開けた神崎は白いシャツに黒いベストを着ており、十二月だというのに上着を羽織っていなかった。


「津田栄美さんですね。三分早い」


「早く来てはいけませんでしたか」


「いいえ。遅れる人間より、待つ時間を自分で引き受ける人のほうが話は早い」


神崎は栄美を中へ通し、入口に置かれた傘立てを指した。傘立てには黒い傘が一本だけ入り、その持ち手には白い糸くずがついていた。室内は暖房が弱く、窓際の古い除湿機から生ぬるい風が出ている。机の上には新聞、行動心理学の専門書、使いかけの付箋、半分に切られた林檎が並び、林檎の切り口は乾いて薄い茶色に変わっていた。


「お茶でよろしいですか。砂糖とミルクはありません」


「結構です。長居をするつもりはありませんから」


「復讐の相談へ来た人は、たいてい同じことを言います」


栄美はコートを脱ぎかけた手を止めた。神崎は彼女の反応を確かめることなく、電気ケトルへ水を足した。流し台には洗っていない白いカップが一つあり、その横にはインスタント味噌汁の空き容器が置かれている。人の心を見抜くことで知られる男でも、昼食には湯を注いだだけの味噌汁を飲み、食器をすぐに洗わないのだと思うと、栄美はわずかに呼吸を戻すことができた。


「私は復讐なんて言っていません」


「電話では、お父さんを陥れた人間に責任を取らせたいと話した。責任という言葉は便利です。裁判、謝罪、失職、破産、死。望むものが違っても、同じ言葉で隠せます」


「言葉遊びを聞きに来たのではありません」


「では、鞄の中を見せてください」


栄美は椅子へ座り、膝の上に置いた布鞄の留め金を外した。中には、父が使っていた黒い革張りの手帳、臨床試験の報告書、社員証、何本ものUSBメモリーが入っていた。書類の一部にはコーヒーの染みがあり、端には小さく折れた跡が残っている。父は家で資料を読むとき、必ず濃いコーヒーを淹れ、母が切った林檎を楊枝で食べていたため、報告書の間から乾いた林檎の種が一粒落ちた。


栄美は種を拾おうとして指を伸ばしたが、神崎のほうが先に白い紙の上へ載せた。彼はそれを捨てず、透明な小袋へ入れて資料の脇へ置いた。研究と無関係なものまで保管するつもりなのかと栄美が尋ねると、神崎は手帳のページをめくりながら答えた。


「人間は、必要だと思ったものだけを残しません。捨て忘れたもののほうが、その人の暮らしを正確に伝えることがあります」


「父は林檎が好きでした。皮を厚くむくと、もったいないと言う人でした」


「あなたがむいたのですか」


「母です。私は包丁を持つと、父から危なっかしいと言われました」


父の声を口にした途端、栄美は鞄の中へ手を入れ、潰れた卵サンドを奥へ押し込んだ。神崎はその動きを見たが、何も指摘しなかった。沸いた湯をカップへ注ぐと、茶葉の匂いが冷えた事務所へ広がった。神崎は栄美の前へ紅茶を置き、自分の分には手をつけず、浩介の手帳を最初のページから読み始めた。


手帳には、新薬の治験に参加した患者の識別番号と検査結果が細かな字で記されていた。あるページから、赤い丸で囲まれた数字が増えている。投与後に重い不整脈を起こした患者、肝機能が急激に悪化した患者、入院が必要になった患者について、浩介は日時と担当医の名まで書き残していた。ところが会社が公表した報告書では、それらの患者が治験対象から外され、副作用の発生率が実際より低く見えるよう処理されていた。


「父は気づいたんです。都合の悪い患者だけが、別の病気を理由に集計から外されていることに」


「いつ気づきましたか」


「亡くなる四か月前です。父は上司へ報告しました。でも、解析方法に問題はないと言われました」


「上司の名前は」


「黒瀬隆一。当時は開発担当の専務でした。今は副社長です」


神崎は黒瀬の名へ細い付箋を貼った。栄美は紅茶の取っ手へ触れたが、熱さを感じてすぐに指を離した。父が会社から持ち帰った最後の夜、食卓には鯖の味噌煮と大根の浅漬けが並んでいた。浩介は鯖に箸を入れたまま食べようとせず、味噌汁の豆腐ばかり崩していた。


「何かあったの」と母が尋ねても、父は仕事の話を家庭へ持ち込むべきではないと繰り返した。翌朝、冷蔵庫には手をつけなかった鯖の味噌煮が皿ごと残されていた。栄美はそれを温め直して食べたが、煮詰まった味噌が舌に残り、それ以来、鯖の味噌煮を買えなくなった。


「父は、報道機関へ資料を渡そうとしました。厚生労働省にも告発するつもりだったと思います。でも、その直前に研究費の横領を疑われました」


「実際に金の流れはありましたか」


「ありません。父が管理していた研究費の一部を、勝手に関連会社へ移されたんです。承認書には父の電子署名が使われていました」


「電子署名を使える人間は、お父さんだけではなかった」


「会社は父だけだと言いました。同僚も、父が金に困っていたと証言しました」


栄美は声を強くし、布鞄から新聞記事の切り抜きを取り出した。そこには、富岡製薬の研究者が研究費を私的に流用した疑いで社内調査を受けていると書かれていた。浩介の顔写真はなかったが、年齢と所属部署が記載されていたため、近所や親戚にはすぐに知られた。自宅の郵便受けには「泥棒」と書かれた紙が入れられ、母は買い物へ出るときにも帽子を深くかぶるようになった。


「会社は父の名前を出していないと言いました。でも、誰のことか分かる情報を記者へ渡したんです。父が不正を隠すために、会社を攻撃しているように見せました」


「お父さんの同僚は、なぜ反論しなかったのでしょう」


「自分も追い出されるのが怖かったからです」


「あなたは、その人たちを責めていますか」


「責めてはいけませんか」


神崎は答えず、切り抜きの発行日と浩介の手帳の日付を照合した。栄美は椅子へ浅く座り直し、冷たくなり始めた指先を膝の間へ挟んだ。同僚の一人は父の葬儀へ来たが、焼香を終えると栄美たちへ顔を向けずに帰った。別の同僚は、香典袋へ三万円を入れながら、会社へは自分が来たことを言わないでほしいと母へ頼んだ。


「父は悪いことをしていません。患者さんが死ぬかもしれない薬を、そのまま売らせたくなかっただけです」


「それを証明する資料は、ここにそろっていますか」


「全部ではありません。父のパソコンは会社に回収されました。でも、これだけあれば、富岡が何をしたか分かるはずです」


「分かることと、証明できることは違います」


神崎はUSBメモリーを一本ずつ机へ並べ、裏側に貼られた小さな番号をメモした。栄美はその几帳面な手つきを見ているうちに、父の研究室を訪ねた日のことを思い出した。浩介の机には資料が山積みになっていたが、実験器具だけは寸分違わず並べられていた。父は仕事場へ家族を入れたことを落ち着かない様子で気にし、帰り際には栄美のコートへ消毒液の匂いがついていないか何度も確かめていた。


浩介が亡くなった朝、自宅の台所には炊飯器の保温ランプがついたままになっていた。母が前夜に炊いたご飯は黄色く乾き、食卓には浩介のために用意した納豆と生卵が手つかずで置かれていた。父は家族へ短い謝罪文を残していたが、そこに富岡の名前も、研究の不正も書かなかった。ただ、自分のせいで家族へ迷惑をかけたことと、母の薬を忘れずにもらってくるよう記されていた。


「最後まで、家族に余計な心配をかけないつもりだったんだと思います。でも、何も説明しないでいなくなるほうが、ずっと困るんです」


「お母さんは、今どうしていますか」


「妹の家にいます。父が亡くなってから火を使わなくなりました。朝は食パン、昼はバナナ、夜は妹が作ったものを食べています」


「あなたは」


「普通に暮らしています。仕事にも行っています」


神崎は栄美の布鞄からのぞいている卵サンドへ目を向けた。栄美は隠すことを諦め、潰れた包装を取り出した。パンの端は鞄の中で押されて薄くなり、卵が片側へ寄っている。神崎は机の引き出しから白い紙皿を出し、栄美の前へ置いた。


「朝から何も食べていない人間は、自分が普通に暮らしているとは言いません」


「食欲がないだけです」


「食欲は、体調だけでなく考え方にも従います。お父さんのために自分も苦しみ続けなければならないと決めているなら、その卵サンドを食べることは裏切りになる」


「勝手なことを言わないでください」


「では、食べてください」


栄美は神崎を睨んだが、包装を開けて卵サンドを一口かじった。冷えたパンは乾き、辛子の味だけが強く残った。うまく飲み込めず紅茶を口へ運ぶと、神崎はようやく自分のカップにも湯を注いだ。栄美は、父の死について相談している最中に卵サンドを食べている自分を情けなく思ったが、二口目は先ほどよりも簡単に飲み込めた。


「それで、神崎さんは何をしてくれるんですか」


「あなたは何をしてほしいのですか」


「父の汚名を晴らしてください。富岡製薬が不正をしたと世間へ知らせて、父を嘘つきではなかったことにしてください」


「それだけですか」


栄美は残った卵サンドを紙皿へ置いた。窓の外では、向かいのビルの事務員が濡れた段ボールを軒下へ運び、崩れた箱からペットボトルが一本転がり出していた。栄美はそれを拾いに行く人の姿を目で追いながら、口の中に残った辛子を紅茶で流した。父の名誉だけが戻ればよいと答えるつもりだったが、その言葉は喉で止まった。


「富岡を破滅させてください。会社を奪われて、味方を失って、自分がしたことを思い知ればいい」


「まだ足りません」


「何がですか」


「あなたが望んでいるものです」


栄美は椅子から立ち上がり、机へ両手をついた。カップの中の紅茶が揺れ、皿に置いた卵サンドから具がこぼれた。神崎は顔を上げたが、身を引こうとはしなかった。


「あの男が、立派な経営者として人生を終えるなんて許せません。父は泥棒だと言われたまま死んだのに、富岡は勲章をもらい、病院へ寄付をして、命を救った人間のように扱われています。父の葬儀には会社から花一つ届かなかった。それなのに、富岡が死んだら、何百人も頭を下げるのでしょう」


「富岡が苦しめば、お父さんは戻りますか」


「そんなことは分かっています」


「いいえ。あなたは分かっていません」


神崎は立ち上がり、机の上に散らばった資料を一枚ずつそろえた。折れた角を伸ばし、新聞の切り抜きと報告書を分け、林檎の種を入れた小袋を浩介の手帳へ挟む。その落ち着いた動作が、栄美には自分の言葉を軽く扱っているように見えた。


「あなたは富岡を殺したいのではありません。富岡が苦しむ姿を見れば、お父さんが戻ってくると思い込んでいるだけです」


「父が戻るなんて、一度も言っていません」


「時間を戻したいのです。告発前に戻り、会社が不正を認め、お父さんが家族と朝食を食べる生活を取り戻したい。その代わりになる光景を、富岡の破滅に求めている」


「それの何が悪いんですか。あの男は人を死なせたんです」


「悪いとは言っていません。ただし、復讐を事実確認の代わりに使う人間は、途中で都合の悪いものを見ないようになります」


栄美は父の手帳を奪い返そうとしたが、神崎は机の中央へ置いたまま動かさなかった。怒鳴れば父の品を返してもらえなくなる気がして、栄美は手を引いた。暖房の風が足元へ届かず、濡れた靴下が爪先に貼りついている。帰宅すれば、朝に干した洗濯物が室内で生乾きの匂いを出しているだろうと思った。


「私を試しているんですか」


「最初から試しています」


「復讐に向いているかどうかを?」


「自分に都合の悪い事実が出たとき、それでも真実を求められるかどうかをです」


栄美は神崎の言葉へ反論しようとしたが、父に都合の悪い事実など存在しないと思っている自分に気づいた。浩介は会社の命令へ従わず、患者を守ろうとし、そのために陥れられた。何度考えても同じ結論へ戻るので、ほかの可能性を考える必要などないはずだった。


神崎は机の脇に積まれたファイルから一冊を抜き、富岡宗一郎の顔写真を栄美へ見せた。慈善事業の式典で撮影された写真らしく、富岡は白い花を胸につけ、病院の子どもたちへ笑顔を向けていた。栄美は写真を伏せようとしたが、神崎が指先で端を押さえた。


「富岡宗一郎は、重い心疾患を患っています。主治医から入院検査を勧められていますが、従っていない」


「それが何ですか。悪人でも病気にはなるでしょう」


「彼は医師を信用していません。自分ほどの人間なら、一般の患者とは違う特別な治療を受けられると考えている」


「そんな薬があるんですか」


「ありません。だからこそ、彼は探し続けています」


神崎は写真をファイルへ戻し、別の資料を開いた。そこには富岡が海外の健康研究所や会員制診療所へ問い合わせた記録がまとめられていた。若返り治療、幹細胞療法、遺伝子検査、富裕層向けの予防医療など、富岡は公表されていない治療法を求め、何度も担当者を替えて連絡していた。


「お金を払えば、死なずに済むと思っているんですか」


「正確には、自分だけは死を先延ばしにできると思っています。人間は、自分が最も信じたい嘘になら、いくらでも金を払います」


「その弱みを使うつもりですか」


「私は、まだ何をするとも言っていません」


「では、どうして私に見せたんですか」


「あなたが富岡へ直接会いに行くのを止めるためです」


栄美は視線を落とした。コートのポケットには、富岡邸の住所を書いた紙が入っていた。事務所へ来る前、栄美は富岡へ父の手帳を突きつけることも考えていた。玄関先で追い返されても、近所の人間が見る前で名前を叫べばよいと思っていた。


「そんなつもりはありません」


「住所を書いた紙を、左のポケットへ入れています」


「どうして分かるんですか」


「あなたは事務所へ入ってから、三度そこへ触れました。鞄に入れないのは、帰りに使うつもりだからです」


栄美はコートのポケットを押さえた。神崎は手を出し、紙を渡すよう求めた。栄美が動かずにいると、彼は浩介の手帳へ手を置いた。


「富岡へ接触すれば、彼は警備を強化します。あなたのお父さんの資料も、復讐目的で作られたものだと主張するでしょう。あなたは父親と同じように、会社へ恨みを持つ危険人物として扱われる」


「黙って待っていろと言うんですか」


「富岡宗一郎には決して接触しないでください。手紙も電話も、匿名の書き込みも禁止します」


「あなたが何をするのか、教えてください」


「教えません」


栄美はポケットから折り畳んだ紙を取り出した。富岡邸の住所の下には、最寄り駅からの道順と、富岡が出勤する時刻まで書いてある。神崎はそれを受け取ると、机の上で細かく破ることもせず、透明な封筒へ入れて日付を書いた。


「なぜ捨てないんですか」


「あなたが今日、何をしようとしていたかを忘れないためです」


「脅すつもりですか」


「いいえ。人は結果が出ると、最初から冷静に判断していたと思い込むからです」


神崎は浩介の遺品を布鞄へ戻したが、手帳とUSBメモリー二本だけを机へ残した。預かり証を書き、栄美へ内容を確認させる。栄美が署名を終えるころには、窓の外が薄暗くなり、蕎麦屋から夕食用の油を温める匂いが上がってきた。


「あなたへ約束できることは一つだけです。お父さんの残した資料を調べます」


「富岡を罰してくれるのではないんですか」


「罰を決めるのは、あなたでも私でもありません」


「それでは、ここへ来た意味がありません」


「半年後にも同じことを言えるなら、資料を返します」


栄美はコートを着て、食べ残した卵サンドを包み直した。捨てて帰ろうと思ったが、神崎が見ている前で捨てれば、また父への罪悪感を指摘される気がした。布鞄へ入れようとすると、神崎は新しい紙袋を渡した。


「帰ったら、それを食べてください。お母さんへ電話をして、明日の朝に何を食べるか聞くことも忘れないように」


「私の生活まで指図しないでください」


「生活を捨てて復讐だけを残せば、判断できることは減ります。富岡を追うためにも、食事と睡眠は必要です」


「あなたは、いつもそんなふうに人を観察するんですか」


「観察されていないと思うとき、人は最も分かりやすくなります」


神崎は扉を開けたが、栄美が出る前に呼び止めた。彼の顔には親切そうな笑みも、依頼を引き受けた者の決意もなかった。栄美は、この男を信用してよいのか分からないまま、濡れた傘を手に取った。


「すべてが終わるまで、私が何をするのか尋ねないでください。途中で知れば、あなたは止めるか、手伝おうとする。そのどちらも計画を壊します」


「もし、人が死んだらどうするんですか」


「人は、何もしなくても死にます」


「答えになっていません」


「答えを先に与えられた人間は、起きたことをその答えに合わせて見ます。あなたには、まだ自分の目で確かめてもらう必要があります」


栄美は廊下へ出たが、すぐには階段へ向かわなかった。扉が閉まる直前、机の上に残された父の黒い手帳が見えた。自宅へ持ち帰れば、また夜中まで同じページを読み、父が正しかった証拠だけを探すだろう。それでも手帳を他人へ預けたことが、父まで渡してしまったように思えた。


一階へ下りると、蕎麦屋の店主が暖簾を外していた。店内では残った天ぷらを若い店員が賄いの丼へ載せ、湯気の立つ蕎麦を二人で分けている。栄美は外へ出る前に紙袋から卵サンドを取り出し、最後の一切れを食べた。パンは冷えたままだったが、昼よりも辛子の味が弱くなっていた。


歩道では雨が細く降り、仕事帰りの人々が傘をぶつけながら駅へ急いでいた。栄美は母へ電話をかけ、明日の朝に何を食べるつもりか尋ねた。母はしばらく黙ったあと、食パンが一枚残っていると答えた。


「卵もあるでしょう。目玉焼きを作って食べて」


「お父さんは、半熟だとお腹を壊すと言っていたわね」


「お父さんの話ではなく、お母さんの朝ご飯の話をしているの」


栄美が言うと、電話の向こうで冷蔵庫を開ける音がした。母は卵が二個あると答え、明日は一個だけ焼くと約束した。通話を切った栄美は、駅へ向かう人の流れへ加わった。


そのころ神崎は、浩介の手帳を机の中央へ置き、赤い丸で囲まれた副作用の数値を一つずつ別の帳面へ写していた。冷めた林檎を一切れ口へ入れたが、味が落ちていることに気づくと、残りを皿ごと流し台へ運んだ。窓の外では栄美の紺色の傘が人混みへ消え、やがて見分けられなくなった。


神崎は富岡宗一郎の資料を開き、心疾患の診断歴、通院日、海外の研究所へ送った問い合わせを机へ並べた。富岡が求めているのは薬ではなく、自分だけが選ばれた人間だと証明してくれる物語だった。その物語へ何を加えれば、彼が医師よりも自分の恐怖を信じるようになるのか、必要な条件はすでにそろい始めていた。


神崎は新しいファイルの背表紙へ、黒いペンで「富岡宗一郎」と書いた。文字がわずかに右へ傾いたため、ラベルを剥がして新しいものへ書き直す。二枚目を貼り終えると、神崎は机の引き出しから市販のビタミン剤を取り出し、白い錠剤を一粒だけ掌へ載せた。


「人は薬を信じるのではない。薬を必要としている自分の物語を信じる」


誰もいない事務所でそう言うと、神崎は錠剤を瓶へ戻した。流し台には昼に飲んだ味噌汁の空き容器が残り、除湿機の水受けには半分ほど水がたまっている。神崎は容器を捨て、水受けを空にしてから、富岡のファイルを机の中央へ置いた。



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