第1話 訃報のパラドックス
# 第1話 訃報のパラドックス
六月の雨は、夜が明けても細く降り続いていた。東京郊外の高台に建つ富岡邸では、灰色の空を映した窓ガラスを雨粒が伝い、刈りそろえられた芝生から湿った土の匂いが立ち上っていた。住み込みの家政婦・丸山房江は、薄紫色のカーディガンの袖を肘までまくり、焼き上がった食パンを白い皿へ移した。富岡宗一郎は毎朝六時半に起き、四辺の耳を切り落としたトーストに蜂蜜を薄く塗り、砂糖を入れない紅茶と一緒に書斎へ運ばせる。蜂蜜が多すぎると血糖値に響くと言い、少なければ味がしないと文句を言うので、房江は小さじの縁で余分な蜜を落とし、毎朝同じ量に整える癖がついていた。
六時四十分になっても、書斎から呼び鈴は鳴らなかった。銀色の盆にトーストと紅茶を載せた房江は、廊下の絨毯へ足を取られないよう、黒いスリッパを引きずらずに歩いた。壁には富岡が外国の要人と握手する写真や、大学から贈られた名誉博士号の証書が並び、その下では清掃業者が昨日磨いた真鍮の飾りが鈍く光っていた。いつもなら、房江が階段を上がるころには書斎から短い呼び鈴が鳴り、紅茶が遅いと急かされる。今朝は雨音ばかりが屋敷を満たしていることに気づき、房江は書斎の前で盆を持ち直した。
「会長、お茶をお持ちしました。今朝は少し肌寒いので、紅茶を濃くしております」房江は扉へ耳を寄せたが、返事はなかった。二度ノックしてから、今度は少し大きな声で呼びかけた。「会長、失礼いたします。朝食が冷めてしまいます」
ドアノブを回しても、扉は動かなかった。内側から鍵がかかっているらしく、押すと古い木が低くきしむだけだった。富岡は書斎で眠ってしまうことがあったものの、朝まで補助錠をかけたままにすることはなかった。房江は盆を廊下の飾り台へ置き、傾いたカップから紅茶がこぼれないよう、受け皿を指先で押さえた。胸元まで上がってきた息を整えようとしたが、濃く淹れた紅茶の匂いが、かえって息苦しく感じられた。
「会長、聞こえますか。扉を開けてください」声を張っても、室内からは椅子を引く音すら返ってこなかった。房江は携帯電話を取り出したが、指が湿って画面をうまく操作できず、エプロンの裾で何度も拭いた。「瀬川さん、すぐ二階へ来てください。会長の書斎が開かないんです」
警備主任の瀬川は、紺色の制服の襟を片手で直しながら階段を駆け上がってきた。朝食を食べる途中だったらしく、口元には海苔の小さな欠片がつき、廊下には味噌汁の匂いがかすかに混じった。彼は扉を強く叩き、富岡の名を三度呼んでから、房江に予備の鍵を持ってくるよう頼んだ。房江は台所脇の管理棚まで走り、赤い札のついた鍵を持ち帰った。しかし予備の鍵を差し込んでも、内側の補助錠に阻まれて扉は開かなかった。
「壊します。飾り台の盆を持って、奥へ下がってください」瀬川は房江が盆を抱え上げ、壁際まで離れたことを確かめると、肩から扉へぶつかった。一度目では隙間ができただけだったが、二度目には補助錠の金具が木枠から外れた。「会長、入ります。瀬川です」
書斎には、昨夜から消されていない照明の熱と、冷えたコーヒーの匂いがこもっていた。厚いカーテンは左右とも閉じられ、窓の留め金も内側からかかっていた。焦げ茶色の革張り椅子に座った富岡は、机へ左頬をつけるように倒れ、右手を胸元へ置いていた。白いワイシャツの第一ボタンは外れ、緩んだ濃紺のネクタイが床へ垂れている。机の端には銀色の薬入れが置かれていたが、中には何も残っていなかった。
房江は盆を抱えたまま動けず、紅茶の表面が細かく揺れるのを見つめていた。昨日の夕食で、富岡は鯛の煮つけの骨を一本残し、料理長へ「仕事の粗さは皿に出る」と言った。食後には房江が切ったメロンを二切れ食べ、明日の朝食はいつもどおりでよいと命じていた。その声がまだ耳の奥に残っているため、机に伏した男が同じ人物だとは思えなかった。今朝も蜂蜜の量に文句を言われるつもりでいた自分の手が、盆の縁をつかんだまま震えていた。
「救急車を呼んでください。早くしてください」房江が言うと、瀬川はすでに携帯電話を耳へ当てていた。彼は住所を告げながら富岡の首元へ指を当て、すぐに手を離した。「呼びました。房江さんは玄関を開けて、救急隊を案内してください」
救急隊が到着したころには、雨脚が強くなっていた。赤い光が玄関前の濡れた石畳へ反射し、屋敷の使用人たちは寝間着に上着を羽織った姿で廊下へ集まっていた。若い庭師は、朝食に持ってきた鮭のおにぎりを作業着のポケットへ入れたまま、泥のついた長靴で立ち尽くしていた。料理長は火にかけた味噌汁のことを思い出し、いったん台所へ戻りかけたが、何をしに行くつもりだったのか分からなくなって足を止めた。救急隊員は富岡の状態を確認したものの、ほどなく警察へ連絡が入り、屋敷の空気は病人を助けるためのものから、死者の周囲を保存するためのものへ変わった。
午前八時十三分、警視庁捜査一課の草壁修司が富岡邸へ到着した。草壁はくたびれた灰色の背広に、雨で色の濃くなった黒い革靴を履いていた。朝から何も食べておらず、車内で開けたあんパンの袋がコートのポケットから半分のぞいていたが、本人は気づいていなかった。玄関でビニール製の靴カバーをつけると、床の水滴を踏まないように歩き、書斎へ入る前に房江と瀬川の顔を順番に見た。立派な屋敷ほど、そこで働く人間は主人の秘密を知っていても、知らないふりをするものだと草壁は考えていた。
「この部屋へ最初に入ったのは、お二人ですね」草壁は低い声で尋ね、濡れた前髪を手の甲で押さえた。房江が頷くと、彼は壊れた扉の金具をしゃがんで調べた。「扉を破るまで、内側の補助錠は確実にかかっていましたか。思い違いでは困ります」
「間違いありません。予備の鍵では開きませんでした」瀬川は制服の胸ポケットから手帳を出し、救急へ電話した時刻を読み上げた。房江も何度か頷いたが、エプロンの端をつかんだ指を離せずにいた。「窓も昨夜から閉まっていたと思います。雨の日に会長が窓を開けることはありません。書類が湿るのをひどく嫌っておりましたから」
草壁は書斎を一周し、窓の留め金、暖炉、換気口、厚い絨毯の端を確認した。机の上には会社の決算資料、読みかけの医学雑誌、半分ほど残った水差しがあり、床には富岡の老眼鏡が落ちていた。争った形跡はなく、金庫にも荒らされた様子はない。高価な腕時計は左手首に残り、机の引き出しには帯封のついた現金まで入っていた。草壁は空の薬入れだけが、整然とした書斎の中で不自然に口を開けているように感じた。
「昨夜、会長と最後に話したのは誰ですか」草壁が尋ねると、房江は夕食後に寝室まで水を届けたと答えた。富岡は白い錠剤を探して薬入れを何度も開け、届く予定の荷物が来ていないと苛立っていたという。「何の薬か聞きましたか。箱や瓶を見たことはありませんか」
「会長は、私どもに薬のことを話しません。見たことがあるのは、白くて小さな錠剤だけです」房江はそこで言葉を止め、廊下に置かれた朝食の盆へ目を向けた。トーストに塗った蜂蜜はすっかり固まり、紅茶には薄い膜が浮いていた。「昨夜は、あれがないと眠れないとおっしゃっていました。でも、睡眠薬ではないとも言っていました」
鑑識員が、富岡の右手近くにあった紙片を透明な袋へ収めた。紙は富岡製薬の社名が入ったメモ用紙で、文字は右下へ崩れ、最後の一画は紙から机へはみ出していた。草壁は袋越しに文章を読み、眉間へ人差し指を当てた。筆圧は途中から弱くなっているが、誰かに手を添えられて書いたようには見えない。死を予期した本人が、残された時間を使って書いた可能性が高かった。
「薬が切れた。私は呪われて死ぬ」若い鑑識員が声に出して読み、気味の悪そうな顔をした。草壁は空の薬入れを見たあと、富岡の青白い横顔へ視線を移した。「呪いを信じるような人だったんですか」
「いいえ。占い番組がついているだけで、テレビを消せと言う人でした」房江は首を振り、冷めた紅茶を片づけてよいか尋ねかけたが、現場の物には触れられないと思い直した。「お金で解決できないものを信じない方でした。神様も、呪いも、人の恨みもです」
草壁は返事をせず、机の上の医学雑誌を開いた。心不全、不整脈、突然死という言葉に赤い線が引かれ、余白には富岡の筆跡で細かな数字が書かれていた。健康に無関心だったのではなく、むしろ自分の身体を四六時中監視していたらしい。医学雑誌の間には、血圧と脈拍を記録した小さな帳面も挟まっていた。草壁は、呪いを信じない人間が死の直前に呪いと書いた理由を考えながら、空になった薬入れの蓋を見つめた。
午前十一時を過ぎるころ、富岡の主治医である三宅が屋敷へ呼ばれた。三宅は白衣ではなく、細い縞模様のシャツに焦げ茶色のジャケットを着ており、急いできたのか左右で違う色の靴下を履いていた。病院で食べるつもりだったサンドイッチを鞄に入れたままにしていたため、診察室で使う消毒液の匂いに、ハムと辛子の匂いが混じっていた。三宅は待合室で妻から届いた「薬を忘れずに飲んで」というメッセージを読んだが、返事をせず携帯電話をしまった。自分の薬さえ妻に注意される男が、富岡には規則正しい服薬を求めていたことを思うと、口の中に苦いものが残った。
「致死性の不整脈が起きても、不思議ではない状態でした。ただ、処方薬をきちんと服用していれば、危険をかなり減らせたはずです」三宅は眼鏡を外し、曇ったレンズをハンカチで拭いた。草壁は机の上の空の薬入れを指した。「先生が処方した薬は、あれに入っていたんですか」
「形が違います。私が処方したのは薄い桃色と黄色の錠剤です」三宅は白い錠剤の話を聞くと、拭き終えた眼鏡をかける手を止めた。草壁が黙ったまま待つと、彼は鞄の持ち手を握り直した。「そんなものは知りません。海外の薬だとしても、成分の分からないものを飲まないよう、あれほど申し上げたのですが」
「海外の薬だと、本人から聞いたんですね」草壁が問い返すと、三宅は唇を結び、少し間を置いてから頷いた。富岡は数か月前から、選ばれた人間しか手に入れられない心臓の保護薬を服用していると話していたらしい。「その薬がなければ死ぬと、本人は思っていた。先生は、そう感じませんでしたか」
「薬が効いているというより、信じ込んでいるようには見えました」三宅は鞄の持ち手を握り直し、窓を打つ雨の音へ耳を向けた。病院へ戻れば、昼休みはもう終わっているころで、鞄の中のサンドイッチも湿っているだろう。「ただの思い込みで人が死ぬなどと、私は言っていません。富岡さんには、実際に重い心疾患がありました」
その日の午後、富岡製薬本社の役員会議室では、緊急役員会が開かれていた。ガラス張りの窓から雨に濡れた東京の街が見下ろせたが、ブラインドは半分閉じられ、長い会議机には手をつけられていない仕出し弁当が並んでいた。煮物の里芋は冷え、焼き鮭の脂は白く固まり、誰かが開けた即席味噌汁だけが湯気を残していた。副社長の黒瀬隆一は濃紺の背広から喪服への着替えを秘書に用意させたあと、机の端を指で何度も叩いた。会長の死より先に報道発表の文面を考えている自分へ、周囲がどんな視線を向けているのかが気になっていた。
「警察には、持病による自然死だと説明してください。会長には以前から心臓疾患があり、会社も健康上の理由で休養を勧めていた。それで統一します」黒瀬が言うと、広報部長は手帳へ同じ言葉を書き込んだ。法務担当役員は、臨床試験に関する過去の報道を蒸し返される可能性を口にした。「追悼式を急ぎましょう。世間が会長の死を疑問視する前に、功績を印象づける必要があります」
「ホテルは帝都グランドを押さえます。弔辞は黒瀬副社長にお願いしてよろしいでしょうか」秘書が確認すると、黒瀬は胸元のネクタイを緩めた。室内は冷房が効いているのに、首筋へ薄い汗が浮かんでいた。「構わない。会長を、我が国の医療を前進させた偉大な創業者として送り出す。余計な話をする社員がいないよう、各部署へ通達しておけ」
役員たちは次々と頷いたが、誰も富岡の冥福を祈る言葉を口にしなかった。黒瀬は冷えた仕出し弁当の蓋を閉じ、会議室から人が出ていくのを待った。やがて一人になると、内ポケットから銀色の携帯用薬入れを取り出した。中には、数年前に富岡からもらった白い錠剤が一粒だけ残っていた。黒瀬は捨てるつもりで何度も蓋を開けたが、そのたびに富岡から聞かされた言葉を思い出し、結局は持ち歩き続けていた。
「君には特別に分けてやる。普通の人間には手に入らない薬だ」黒瀬は富岡の声を思い出し、白い錠剤へ指を伸ばした。しかし錠剤をつまむ直前で手を止め、薬入れの蓋を強く閉じた。「馬鹿らしい。ただの気休めだ」
夕方になっても雨はやまず、神崎涼の事務所では古い除湿機が低い音を立てていた。神崎は白いシャツに黒いベストを着て、窓際の机で夕刊を読んでいた。机の隅には飲みかけのコーヒーと、コンビニで買った塩むすびが置かれていたが、海苔は湿気を吸い、端がご飯から剥がれていた。壁の時計が五時を告げると、神崎は富岡の死亡記事を切り抜き、黒い表紙のファイルへ挟んだ。切り抜きの角が一ミリほどずれていることに気づき、定規を当てて切り直してから、ようやくファイルを閉じた。
向かいの椅子に座る津田栄美は、紺色のワンピースの膝へ両手を置いていた。雨で濡れた髪を急いで乾かしたため、毛先が肩の外側へ跳ねている。彼女の前には温かい紅茶が置かれていたが、一度も口をつけていなかった。朝から食事もしておらず、空腹のはずなのに、神崎の塩むすびを見るだけで胃の奥が固くなった。机には白い錠剤の入った瓶があり、栄美は新聞と瓶を交互に見た。
「本当に、死んだんですね」栄美は声を低くし、紅茶の取っ手へ指をかけたが、持ち上げずに離した。神崎は記事の折り目を指先でなぞり、新聞をきっちり四つに畳んだ。「富岡宗一郎は、今朝六時半ごろ、自宅書斎で発見されました。警察は持病による死亡と見ています」
「あなたが殺したんですか」栄美の爪がワンピースの布地へ食い込み、膝の上に小さなしわを作った。神崎は瓶から白い錠剤を一粒取り出し、机の上へ置いた。「これは市販のビタミン剤です。薬局へ行けば、誰でも買えます」
「そんなものを見せられても、分かりません。父を追い込んだ男が死んだのに、私は何を感じればいいのかも分からないんです」栄美はようやく紅茶を口へ運んだが、冷めかけた液体を飲み込むと眉を寄せた。神崎は彼女の顔ではなく、カップの縁に残った薄い口紅を見ていた。「今は何も決める必要はありません。人は出来事が起きたあと、その意味を自分に都合よく作り直します」
「復讐は終わったんですか」栄美が尋ねると、神崎は窓の外へ目を向けた。向かいのビルの屋上では、雨に濡れた作業服の男が、取り込み忘れた雑巾を物干し竿から外していた。神崎は塩むすびの袋を閉じ、白い錠剤を瓶へ戻した。「父の名誉は戻るんですか。それとも、富岡が死んだだけで終わるんですか」
「第一段階は終わりました」神崎の声には喜びも興奮もなく、除湿機の音だけが二人の間を埋めた。栄美はその言葉の意味を尋ねようとしたが、神崎は黒いファイルを引き出しへしまった。「富岡宗一郎は死にました。しかし、彼が作った嘘はまだ生きています」
栄美は紅茶をもう一口飲み、今度は苦さを確かめるように舌先で味わった。富岡の死を知れば、胸の奥に何か温かいものが戻ってくると思っていたが、そこには濡れた布を詰め込まれたような重さしかなかった。神崎の横顔には、勝利を喜ぶ様子も、人の死を悔いる様子も見えない。その顔を見ているうちに、栄美は自分もまた、この男が用意した何かの中へ座らされているのではないかと考え始めた。
「次は、何をするんですか」栄美が尋ねても、神崎はすぐには答えなかった。雨に濡れた窓へ白い錠剤の瓶が映り、実物よりも大きく揺れて見えた。「何もしません。次に動くのは、私ではありませんから」
そのころ、富岡製薬の誰もいない役員会議室では、片づけ忘れられた味噌汁が完全に冷えていた。窓に当たる雨粒の音が規則正しく続き、長机の端には、黒瀬が置き忘れた銀色の薬入れが残されていた。蓋の隙間から見える白い錠剤は、照明の下で何の変哲もなく光っていた。誰も触れていないのに、その小さな錠剤は、次に誰が倒れるのかを知っているように、会議室の白い光を反射していた。




