第10話 嘘の標的は笑わない
第10話 嘘の標的は笑わない
富岡宗一郎の死から一か月後、警察は死因を持病による致死性不整脈と発表した。遺体から毒物は検出されず、書斎へ第三者が侵入した痕跡も見つからなかった。追悼式で倒れた黒瀬隆一たちについても、薬物や心臓の異常ではなく、強い不安による過呼吸と集団的な心因反応だったと診断された。
神崎涼が富岡へ白い錠剤を送ったことも、匿名メールを書いたことも、物証では証明できなかった。錠剤は市販のビタミン剤であり、富岡には主治医から処方された薬も、病院へ行く手段も残されていた。草壁修司は何度も資料を読み直したが、人間へ考えを信じ込ませたことと、その人間が死んだことを、刑事事件として一本の線で結ぶことはできなかった。
一方、富岡製薬の捜査は急速に進んだ。警察は本社と関連会社へ強制捜査に入り、臨床試験の原資料、被害者家族との秘密保持契約、研究者を陥れるために作られた会計記録を押収した。黒瀬をはじめ複数の幹部が逮捕され、逮捕を免れた役員も辞任へ追い込まれた。
会社では被害者への補償手続きが始まり、過去の臨床試験を第三者機関が調べ直すことになった。津田浩介への懲戒処分も正式に撤回され、会社のウェブサイトには謝罪文が掲載された。栄美の母は、その文章を印刷して食器棚の上へ置いたが、父の写真の隣には飾らなかった。
「紙一枚で、お父さんが帰ってくるわけではないものね」
母はそう言い、朝食のトーストへ苺ジャムを塗った。以前は浩介の好みに合わせて蜂蜜ばかり買っていたが、今では自分が好きな苺ジャムを選んでいる。栄美は目玉焼きの黄身へ箸を入れ、母が一人でも朝食を作るようになったことを確かめた。
「それでも、捨てないんでしょう」
「捨てはしないわ。お父さんが泥棒ではなかった証拠だから」
「じゃあ、額へ入れる?」
「そこまではしなくていいの。埃を拭くものが増えるでしょう」
母は食べ終えた皿を流しへ運び、洗いかけの布巾を窓辺へ干した。栄美は母が笑ったわけではないと分かっていたが、苺ジャムの瓶を自分で開けた朝は、父が亡くなってから初めてだった。
その週の日曜日、栄美は父の墓を訪れた。朝から降り続く雨は墓地の砂利を黒く濡らし、石の間から伸びた雑草には細かな水滴がついていた。栄美は濃紺のレインコートに黒い靴を履き、片手に透明な傘、もう一方の手に白い花と小さな弁当箱を持っていた。
弁当箱には、母が作った昆布のおにぎりが二つ入っていた。墓地で食べるためではなく、昼を抜かないよう持たされたものだった。海苔は湿気を吸って柔らかくなり、蓋を開けると昆布と醤油の匂いがした。栄美は父が昆布より鮭を好んでいたことを思い出し、おにぎりを一つだけ食べてから墓前へ向かった。
津田家の墓石は、墓地の奥にある小さな区画へ建っていた。栄美は濡れた花立てから枯れた花を抜き、持ってきた白い菊へ入れ替えた。線香は雨で消えそうになったため、手で囲みながら火をつけた。
鞄の中には、神崎から渡された封筒が入っていた。栄美は一週間、食卓の引き出しへしまったままにしていた。手紙を読まなくても、父の横領が捏造だったという事実は変わらない。そう考える一方で、封筒を見ない日は一日もなかった。
栄美は墓石の前へしゃがみ、封筒を取り出した。糊の部分は古くなり、指を入れると小さな音を立てて剥がれた。中には便箋が四枚あり、父の細かな字が余白まで続いていた。
最初には、富岡製薬が新薬の副作用を隠していることが書かれていた。重い不整脈を起こした患者を解析から外し、別の病気が原因だったように扱っていること、その判断を富岡と黒瀬が命じたことが、日付とともに記されていた。そこまでは、栄美も遺品の資料から知っている内容だった。
三枚目を開くと、父の字が少し乱れていた。栄美は雨粒が便箋へ落ちないよう傘を傾け、文章をゆっくり読んだ。
「私にも責任があります。研究の初期段階で、一人の患者の数値を報告書から除外しました。富岡会長から、開発を止めれば研究室が閉鎖され、部下たちも職を失うと言われました。家族の生活を守りたいという気持ちを理由に、私は一度、従いました」
栄美の指が便箋の端で止まった。父は会社の不正を見つけただけではなかった。最初の一度は、自分の手で不都合な数値を除外していた。
父は手紙の中で、対象となった患者の名を伏せずに記していた。薬の投与後に症状が悪化したにもかかわらず、持病によるものとして集計から外したという。その報告書を提出した夜、浩介は家へ帰り、母が作った鯖の味噌煮を食べた。
栄美は、その日の食卓を覚えていた。父は味噌汁の味が薄いと言い、母は自分で醤油を足せばよいと返した。テレビでは野球中継が流れ、栄美は翌日の仕事について愚痴をこぼしていた。父が誰かの検査結果を消した夜にも、家族は普段どおり食事をしていた。
手紙の最後には、父が告発を決意した理由が書かれていた。除外された患者と同じ症状を訴える人が増え、自分の最初の妥協が次の隠蔽を許したと気づいたからだった。自分を潔白な告発者として扱わず、処分を受けることになっても、患者の記録を元へ戻してほしいと支援団体へ求めていた。
「私は正しい人間だから告発するのではありません。間違ったまま終わりたくないから、告発します」
栄美は最後の一文を二度読んだ。父を陥れた富岡たちへの怒りが消えたわけではない。しかし、何も間違えなかった父という姿は、便箋の文字によって崩れていた。
背後から砂利を踏む音が聞こえた。栄美が振り返ると、神崎が黒い傘を差して立っていた。黒いコートの襟元から白いシャツが見え、磨かれた革靴の先には泥がついている。
「最初から知っていたんですね。父も、不正に加担していたことを」
「知っていました」
「父の手紙を読んだからですか」
「告発支援団体へ届いた相談記録に、同じ内容がありました」
「それなら、どうして私にすぐ教えなかったんですか」
神崎は津田家の墓石ではなく、栄美が持つ便箋を見た。雨が傘を打ち、花立ての水面に小さな輪が重なっている。栄美は父を守るように便箋を胸元へ寄せた。
「当時のあなたは、真実を求めていなかった。復讐を続けるための理由を求めていたからです」
「父が不正をしたと知れば、私が依頼をやめると思ったんですか」
「富岡をかばっていると考え、私を信用しなかったでしょう。あるいは、お父さんの手紙そのものを会社が作った嘘だと決めたかもしれません」
「だから、富岡が死ぬまで隠したんですか」
「あなたが富岡の死を、答えにしなくなるまで待ちました」
栄美は便箋へ目を落とした。父は完全に潔白な英雄ではなかった。それでも、自分の過ちを認め、仕事も信用も失う覚悟で告発しようとした。弱さを知らなかったときよりも、父があの手紙を書くまでに何度眠れない夜を過ごしたのか、はっきり想像できた。
「父を尊敬してはいけないのでしょうか」
「それを私に決めさせるのですか」
「あなたなら、どう考えますか」
「過ちを犯さない人間より、過ちを認めた人間のほうが信用できる場合もあります。ただし、認めれば被害が消えるわけではありません」
「父は、被害を受けた人へ謝りたかったんですね」
「手紙には、そう書かれています」
「私には、何も話してくれませんでした」
「家族を守ることと、家族に隠すことを、同じだと思っていたのでしょう」
栄美は父の便箋を封筒へ戻した。完全な被害者という父の姿は失われたが、代わりに、間違えたあとで立ち止まろうとした一人の人間が見えた。富岡さえ倒せば父の人生も、自分が費やした年月も、すべて正しいものになるという考えは、現実を飲み込みやすくするために自分が必要とした薬だった。
「私も、あなたに騙されていたんですね」
「人は他人の嘘ではなく、自分が必要とした嘘に騙されます」
「それなら、あなたは何も悪くないと言うんですか」
「いいえ。嘘を用意した人間の責任は残ります」
神崎はそう言ったが、富岡の死について謝罪することも、自分の行為を正しいと主張することもしなかった。栄美は、その曖昧さこそが神崎の逃げ道なのだと気づいた。彼は人間へ選択肢を残したと言いながら、どの選択をしやすいか計算していた。
二人は津田家の墓を離れ、墓地の中央を通る道へ出た。雨の向こうには、富岡宗一郎の墓が建っていた。周囲の墓石より高く、正面には生前の功績が金色の文字で刻まれ、顕彰碑のような形をしている。
墓前には誰もいなかった。新しく供えられた花もなく、香炉には濡れた線香が数本残っているだけだった。富岡製薬の関係者は逮捕や事情聴取に追われ、創業者を悼むために訪れる者はいなかった。
栄美は富岡の墓へ近づかず、通路の端で足を止めた。以前なら、墓石へ父の手紙を突きつけ、富岡の名が汚されたことを確かめたかったはずだった。今は、父の手紙を雨から守ることのほうが大切だった。
「富岡が死んでも、父の過ちは消えませんでした」
「はい」
「父の名誉が戻っても、被害を受けた人の身体は元へ戻らない」
「はい」
「それでも、ここまでしなければ会社は変わらなかったのでしょうか」
「別の方法がなかったとは言えません」
「あなたが選ばなかっただけですね」
神崎は答えなかった。栄美は、神崎が沈黙によって相手へ続きを考えさせる癖を知っていた。今度はその空白を埋めず、父の封筒を鞄へしまった。
神崎は富岡の墓へ一度だけ視線を向け、出口へ歩き始めた。栄美は黒いコートの背中を見送りかけたが、どうしても確かめたいことが残っていた。
「あなたは勝ったのに、どうして笑わないんですか」
神崎は足を止めたが、振り返らなかった。雨粒が黒い傘の縁から落ち、足元の砂利を濡らしている。
「勝ったと思った瞬間から、次の思い込みが始まるからです」
神崎はコートの襟を立て、墓地の出口へ向かった。栄美はその背中を追わなかった。鞄から残った昆布のおにぎりを取り出し、雨の当たらない休憩所で食べることにした。母には、帰りに苺ジャムを買うと約束していた。
栄美は津田家の墓ではなく、出口へ顔を向けた。父の過ちを知ったことで、父への敬意がなくなったわけではなかった。何も間違えなかった父ではなく、間違いを認めて告発しようとした浩介を、これから知り直せばよいと思った。
少し離れた木の下には、草壁が黒い傘を差して立っていた。灰色の背広の肩には雨の染みが広がり、片手にはコンビニの紙袋が下がっている。中には朝から食べていないあんパンと、ぬるくなった缶コーヒーが入っていた。
草壁は神崎を追わなかった。今ここで声をかけても、逮捕できる証拠が増えるわけではない。神崎が富岡へ何をしたのか、草壁にはほぼ分かっていたが、法が裁けるのは推理ではなく、証明された行為だった。
それでも、神崎が自分の仕掛けを完全に理解しているとは思わなかった。稲葉がカードを作り、黒瀬が会社の資料を流し、幹部たちが互いを売ったことは、すべて神崎の計画から外れていた。人間の心を読めると信じる神崎自身もまた、一つの思い込みへ近づいているのではないかと草壁は考えた。
ポケットの携帯電話が鳴った。雨音の中で着信音が聞き取りにくく、草壁は傘を肩へ挟んで画面を確認した。三田村からだった。
「どうした」
「新しい不審死です。都内のマンションで、会社経営者が死亡しました」
「毒物か」
「まだ分かりません。ただ、現場に白い錠剤が残されています」
草壁は墓地の出口へ目を向けた。神崎の黒い傘は、並んだ墓石の向こうへ遠ざかっている。三田村は電話の向こうで息を整え、もう一つあると続けた。
「遺体のそばに、一行だけ文章が残されていました」
「読め」
「神崎涼の方法に、完全犯罪の完成を感謝する」
草壁は紙袋を握り直した。中で缶コーヒーがあんパンへ当たり、小さな音を立てた。神崎が模倣犯を用意したとは考えにくい。自分の方法を勝手に使う人間が現れたと知れば、神崎も計画を外れた側へ置かれる。
「現場を封鎖しろ。錠剤には誰も触るな」
「草壁さんは今、どちらにいますか」
「すぐ向かう」
電話を切った草壁は、出口へ向かって歩き始めた。栄美は休憩所の椅子へ座り、昆布のおにぎりを食べながら、その背中を見送った。墓地には雨音が残り、富岡の大きな墓石には誰もいなかった。
神崎涼は、一度も笑わなかった。富岡を死へ追い込み、富岡製薬を崩壊させ、栄美が信じていた父の姿まで作り直しても、勝利を口にしなかった。
自分が作った嘘の中に、最初から別の標的が潜んでいたことを、そのときの神崎はまだ知らなかった。




