第9話 最初のパンの朝(エーリク視点)
その朝、俺は詰所で夜番を終えたところだった。
冷え切った手を暖炉にかざしていると、窓の隙間から、嗅いだことのない匂いが流れこんできた。
いや、違う。
嗅いだことは、ある。
ずっと昔、ほんの子どものころに。
香ばしくて、どこか甘くて、腹の底がきゅうと鳴るような匂い。
気づけば、俺は詰所を飛び出していた。
雪の残る石畳を歩き、匂いをたどる。
たどり着いたのは、広場から一本入った通りの角。
去年の春から空き家になっていた、古いパン屋だった。
扉を開けた彼女は、粉だらけのエプロンをつけていた。
頬にまで粉がついていることに、本人は気づいていないらしかった。
棚には、丸く膨らんだパンが並んでいた。
魔法で焼くパンのような、いびつな膨らみではない。
一つ一つがふっくらと丸く、焼き色はつややかで、切れ目からのぞく中身は雪のように白い。
目が、離せなかった。
差し出されたパンを、ひと口かじった。
やわらかかった。
歯が沈むと、ほのかな甘みと、かすかな酸味が口の中に広がった。
その瞬間、思い出した。
まだ母が生きていたころ。
冬至祭の朝にだけ、パン屋のじいさんが裏の古い窯に火を入れて、薪で焼いたパン。
母と二人で分けて食べた、あの朝の味。
じいさんが腰を悪くしてからは、二度と口にできなくなった味だった。
「あの……お口に合いませんでしたか?」
不安そうな声に、我に返った。
口に合わないどころではなかった。
けれど、何と言えばいいのかわからなかった。
俺は昔から、言葉を選ぶのが下手だ。
だから、残りを全部、口に入れた。
「……やわらかい」
ようやく出てきたのは、そんな間の抜けた言葉だった。
それでも彼女は、嬉しそうに笑った。
粉のついた頬で、まるで花が開くみたいに。
その笑顔を見たとき、胸の奥で、何かがかちりとはまる音がした。
それから、毎朝あの店に通うようになった。
パンが目当てだ、と自分に言い聞かせていた。
四日目の朝、彼女は焼きたての丸パンを三つ、紙に包んで差し出した。
「エーリクさんの分です。取っておきました」
俺の分。
誰かに、自分の分を取っておいてもらったことなど、母が死んでから一度もなかった。
包みを受け取った手が、うまく動かなかった。
その日の巡回で、俺はパンを一つも食べられなかった。
もったいなくて。
結局、野営地で若い連中に見つかり、半分を奪われたが。
行商人のルカが、彼女を食事に誘っていた。
カウンター越しに身を乗り出して、彼女との距離を縮めようとしていた。
気づけば、俺はその男を見ていた。
あれほど自分の中の何かが冷えたのは、魔物の群れに囲まれたとき以来だった。
トビアスが「ツムギさんのためなら死んでもいい」と笑っていたと聞いたときは、気づけば訓練場で木剣を握っていた。
少し、やりすぎたかもしれない。
……いや、やりすぎてはいない。
あいつは夜番のほうが向いている。
吹雪の夜は、店が気になって眠れなかった。
案の定、彼女は外套一枚で雪の中へ出てこようとしていた。
支えた背中は、驚くほど細かった。
この細い体で、毎朝暗いうちから生地をこね、薪を運び、窯の火の前に立っているのだ。
『……そう言われましたから。でも、今はそんなに気にしてません』
『おまけ』という言葉を、彼女はまだ、胸のどこかに抱えている。
気にしていない、と笑いながら。
俺は、あの日の広間で拳を握ったまま、何も言えなかった自分を思い出していた。
彼女はおまけなどではない。
この町の誰にとっても。
……俺にとっても。
いつのまにか、ただ生きていてくれればいい、という気持ちでは済まなくなっていた。
毎朝あの扉を叩くのは、パンのためだけではない。
そのことに、俺はもう気づいていた。
吹雪が明けた朝、詰所に王都からの早馬が着いた。
団長が、厳しい顔で書状を広げていた。
「エーリク。王都から通達だ」
「……魔物の件ですか」
「ああ。この冬、聖女様が浄化のために辺境を巡られるそうだ。ノルデンにも来られる」
聖女。あの日の少女だ。
ここまでは、悪い話ではない。
だが、団長の次の言葉に、俺は息を止めた。
「聖女様には、神殿から付き添いが来る。……ベネディクト神官長、直々にな」
窓の外では、彼女の店の煙突から、白い煙が細く立ちのぼっていた。
今日も、パンを焼いているのだろう。
俺は、腰の剣の柄を、強く握りしめた。




