第8話 握りつぶした命令(エーリク視点)
あの日、俺が王都にいたのは、ただの偶然だった。
辺境の魔物の増え方は、もはや騎士団だけで抑えられる数ではなくなっていた。
その報告書を王城へ届けに行き、ついでのように、聖女召喚の儀の警護に駆り出された。
儀式の広間の後ろで、俺は柱の陰に立っていた。
床の魔法陣が光り、二人の女が現れた。
一人は、まだ子どもと言っていい少女。
もう一人は、少女の腕を支えるように寄り添っている、粉で白く汚れた服の女だった。
聖女と判定されたのは少女のほうだった。
もう一人の女は、水晶に触れても、何も光らなかった。
『つまりあなたは、おまけ、ということになりますな』
ベネディクト神官長がそう言ったとき、広間の誰かがくすりと笑った。
俺は、その女の顔を見ていた。
傷ついた顔をするだろうと思った。泣くか、怒るか。
だが、彼女はそうしなかった。
泣きじゃくる少女の手を両手で包んで、笑ってみせたのだ。
『ご飯もしっかり食べて、よく眠ってね』
自分が見知らぬ世界に放り出されようとしているときに、言うことがそれか。
俺は、柱の陰で拳を握りしめていた。
広間を出たところで、俺は彼女を侍従に預け、裏門へ向かわせた。
馬車の支度をするつもりだった。
だがその前に、神官長の私室へ呼ばれた。
人払いをした部屋で、神官長は穏やかな笑みのまま言った。
「あの者を、国境の森へ連れて行きなさい」
「……国境の森、ですか」
「森の奥で、馬車から降ろせばよろしい。あとは森が片付けてくれましょう」
国境の森は、魔物の巣だ。
騎士でさえ、一人で足を踏み入れれば生きては戻れない。
魔力も持たない女を置き去りにすればどうなるか、神官長が知らないはずがなかった。
「……理由を、お聞きしても」
「召喚の儀に余分なものが紛れ込んだなど、外に漏れては神殿の威信に関わります。聖女様は、お一人で来られた。それでよいのです」
神官長は、机の上の書類に視線を落とした。
もう、話は終わったという顔だった。
「辺境の騎士殿。あなたの騎士団への支援の件は、私から陛下によしなにお伝えしておきましょう」
それは褒美であり、脅しだった。
断れば、辺境への支援は止まる。
従えば、ノルデンの冬を越すための物資が届く。
俺は黙って頭を下げ、部屋を出た。
馬車の中の彼女は、驚くほどよくしゃべった。
どこへ行くのか、どのくらい遠いのか。俺がろくに答えなくても、気にした様子もなかった。
一度だけ、幌の中から鼻をすする音が聞こえた。
振り向かなかった。
振り向けば、決めきれなくなる気がした。
宿場町の食堂で、彼女は黒パンをちぎって、ひどく真剣な顔で眺めていた。
発酵の魔法がなければパンは焼けない、と俺が言うと、一瞬だけ肩を落とした。
だが次の瞬間には、何かをぶつぶつとつぶやき始めていた。
時間をかければ、とか、生地が育てば、とか。
その目は、捨てられた者の目ではなかった。
まだ何かを作ろうとしている者の目だった。
(この女を、森に置いていくのか)
その夜、俺は宿の窓から、一晩中、東の空を見ていた。
分かれ道の道標の前で、俺は馬車を止めた。
東。国境の森。
命令に従えば、辺境騎士団は冬を越せる。
仲間たちが、今年は飢えずに済む。
俺は騎士だ。命令に従うのが務めだ。
手綱を握る手に、力がこもった。
……違う。
俺が剣を取ったのは、辺境に生きる者を守るためだ。
魔物の巣に、何も持たない者を放り込むためではない。
騎士団の冬は、俺がなんとかする。
支援が止まるなら、俺が山で獲物を狩ればいい。どんな手を使ってでも、仲間を飢えさせはしない。
だが、この女の命は、ここで俺が手を離せば終わる。
俺は馬の首を、北へ向けた。
「あの、北へ行くんですか?」
背後から、のんきな声がした。
短く答えながら、俺はもう、東の道を振り返らなかった。
ノルデンに着いた夜、俺は神官長宛ての報告書を書いた。
『ご命令の件、滞りなく』
嘘だった。
騎士になってから、一度も上官に嘘をついたことはなかった。
ペンを置いて、俺は自分の手を見つめた。
もしこれが露見すれば、俺は騎士の身分を失うだろう。
ハルフォードの家にも、迷惑がかかるかもしれない。
それでも、後悔はしていなかった。
書き終えた報告書を封筒に入れながら、俺は思った。
あの女が、この町で、少しでも笑って暮らせればいい。
それだけで、俺のついた嘘には意味がある。
……そのときは、本当に、それだけのつもりだった。




