第5話 かたくないパン
開店してから、一週間が過ぎた。
最初の日、店の前に集まった人たちは、おそるおそるといった様子で丸パンを一つずつ買っていった。
魔法を使わないパン、というのが、どうにも信じられなかったらしい。
「本当に、魔石窯じゃないのかい?」
「はい。裏の薪窯で焼いてます」
「魔力なしで、どうやって膨らませるんだね」
「りんごの酵母に、ゆっくり時間をかけて膨らませてもらうんです」
みんな首をかしげながら帰っていった。
けれど次の日の朝、店の前の列は倍になっていた。
その次の日は、さらに倍に。
(口コミって、どこの世界でも強いんだなあ)
一番に駆けこんできたのは、薪運びを手伝ってくれた子どもたちだった。
「お姉ちゃん! ほんとにかたくなかった!」
「母ちゃんが、もっと買ってこいって!」
小さな手に銅貨を握りしめて、目をきらきらさせている。
私は一人ずつ丸パンを渡して、こっそり端っこの焼けすぎたのを一つずつおまけにつけた。
おまけ。
自分で口にして、少しだけ苦笑いした。
(でも、おまけって、もらうと嬉しいものだよね)
思いがけない人も来てくれた。
杖をついた、腰の曲がったおじいさんだった。
彼は店に入るなり、ふんと鼻を鳴らした。
「若い娘が妙なパンを焼いとると聞いてな。わしはもう歯が悪くて、パンなんぞ何年も食っとらん。どうせ食えやせん」
「じゃあ、試してみてください」
私は焼きたての丸パンの、一番やわらかい中身のところをちぎって差し出した。
おじいさんはしぶしぶ口に入れ、もごもごと噛んだ。
そして、ぴたりと動きを止めた。
しわだらけの目元に、じわりと涙がにじんだ。
「……ばあさんが生きとったころ、こういうパンを、食った気がする」
「え?」
「若いころ、まだ魔石窯がこの町に来る前だ。裏の窯で、パン屋の親父が焼いとった……」
おじいさんはそれきり黙りこんで、丸パンを五つ買っていった。
帰り際、ぶっきらぼうに一言だけ残して。
「……また、来る」
そんなふうにして、パン屋は少しずつ町に馴染んでいった。
午前四時に起きて生地をこね、窯に火を入れ、焼き上げて、店を開ける。
昼には売り切れて、午後は翌日の仕込みと、酵母の世話。
夜は二階の小さな部屋で、泥のように眠る。
向こうの世界とほとんど変わらない毎日だった。
違うのは、ここでは私のパンが、誰かにとっての「初めて」だということ。
(なんだか、修行を始めたばっかりのころみたい)
そして、もう一つ変わらないことがあった。
開店前の、まだ薄暗い時間。
毎朝必ず、控えめなノックの音がするのだ。
「おはようございます、エーリクさん」
「……ああ」
黒い騎士服。焦げ茶の髪に、うっすら霜をつけて。
彼は毎朝、誰よりも早くやってきて、丸パンを三つ買っていく。
会話はほとんどない。
天気の話をしても「……寒いな」、パンの話をしても「……うまい」。それで終わり。
でも、三日目あたりから、私は気づいてしまった。
棚のパンを見るとき、彼の灰色の瞳がほんの少しだけ、きらきらしていることに。
(やっぱり甘いもの、好きなんだ。絶対そう)
四日目から、私は焼き上がった丸パンのうち、一番形のいい三つを先に取り分けておくようになった。
紙で包んで、カウンターの端に置いておく。
エーリクさんが来たら、すぐ渡せるように。
その朝、いつものようにやってきた彼に包みを差し出すと、彼は不思議そうにそれを見つめた。
「……これは」
「エーリクさんの分です。取っておきました」
「……俺の、分」
彼はなぜか、包みを受け取ったまましばらく動かなかった。
それから小さく「……そうか」と言って、いつもよりほんの少しゆっくり帰っていった。
ある日の午後、店を手伝いに来てくれたハンナさんに、何気なく聞いてみた。
「ハンナさんは、エーリクさんのこと、昔からご存じなんですか?」
「そりゃあね。ちっちゃいころから、この町で見てきたよ。木登りしちゃ落っこちて、べそかいてた子がねえ。今じゃあんな仏頂面の大男になっちまって」
(べそかいてた……あのエーリクさんが?)
想像しようとして、まったく想像できなかった。
「だから坊ちゃん、って呼んでるんですね」
「まあ、そんなところさ」
ハンナさんはにんまりと笑って、それ以上は教えてくれなかった。
「それよりツムギちゃん。あの子が毎朝あんたの店に通ってるって、もう町中の噂だよ」
「え? パンが好きなだけですよ、きっと」
「……ふうん。パンが、ねえ」
ハンナさんの意味ありげな笑顔の理由が、そのときの私にはさっぱりわからなかった。




