第4話 最初のお客様
それからの数日は、目が回るほど忙しかった。
まずは掃除。一年分のほこりを払い、床を磨き、窓を拭いた。
次に、裏庭の薪窯の手入れ。欠けた煉瓦の隙間に粘土を詰め、焚き口の灰をかき出す。
近所の子どもたちが、珍しそうに柵の向こうからのぞいていた。
「お姉ちゃん、なにしてるの?」
「パンを焼く窯を直してるの。焼けたら、一番に食べにきてね」
「えー、パン? あのかたいやつ?」
「ふふ。かたくないやつ、だよ」
子どもたちは顔を見合わせて、首をかしげていた。
それから、彼らはときどき薪を運ぶのを手伝ってくれるようになった。
粉は、町の雑貨屋で手に入れた。
この地方で育つ小麦は粒が粗く、ライ麦も混じっている。私は目の細かいふるいを借りて、何度も何度もふるいにかけた。
(ふすまが残るぶん、香りは強い。カンパーニュに向いてるかも)
職人の頭が、勝手にレシピを組み立てていく。
そして一番大事な、りんごの瓶。
毎朝ふたを開けて空気を入れ替え、軽く揺すってやる。
三日目、りんごのかけらが少しずつ浮き上がってきた。
四日目、瓶の内側に細かな泡がつき始めた。
そして五日目の朝。
ふたを開けた瞬間、しゅわっ、と小さな音がした。
甘酸っぱい、お酒みたいな香りがふわりと立ちのぼる。
「……起きた」
思わず声が震えた。
瓶の中では、無数の泡がぷくぷくと元気に踊っていた。
(ありがとう。一緒に頑張ろうね)
その液で粉を練って元種を作り、さらに一晩。
ようやく、パンを焼く準備が整った。
その日、私は真夜中に起きた。
向こうの世界と同じ、午前四時より少し前。
元種に粉と塩と水を合わせ、こねる。台に叩きつけ、折りたたみ、また叩く。
最初はべたついていた生地が、だんだんなめらかに、つやを帯びていく。
指で薄く伸ばすと、向こうが透けて見えるほどの膜ができた。
(いい子。よく育ってる)
生地を休ませているあいだに、裏庭へ出て窯に火を入れた。
吐く息が白い。星がまだ空いっぱいに残っている。
薪がぱちぱちとはぜ、煉瓦の内側がゆっくりと赤く染まっていく。
窯の温度計なんてないから、頼りは自分の手の感覚だけだ。
焚き口に手をかざし、ひと握りの粉を窯の床に撒く。粉が数秒できつね色に変わるのを確かめて、熾火をかき出した。
大きな丸いカンパーニュを四つ。
小さな丸パンを、二十個。
木のへらで一つずつ窯の奥へすべりこませ、蓋をする。
あとは、待つだけ。
窯の前にしゃがみこんで、私はじっと耳をすませた。
しばらくすると、煉瓦の向こうから、香ばしい匂いが漂い始めた。
小麦が焼ける匂い。りんごの酵母が生んだ、ほのかな甘酸っぱさ。
それが冷たい夜明けの空気に溶けて、通りのほうへ流れていく。
蓋を開けると、熱気と一緒に、ふっくらと膨らんだパンたちが顔を出した。
カンパーニュの表面には、私が刻んだ切れ目がぱっくりと開き、香ばしい焼き色がついている。
一つ取り出して、耳を近づけた。
ぱち、ぱちぱち。
焼きたてのパンが、冷えていく空気の中で皮をきしませる音。
私が世界で一番好きな音だった。
(……おかえり、私)
なぜだか、少しだけ泣きそうになった。
棚にパンを並べ終えたころ、空がうっすらと白み始めた。
店を開けるのは、もう少し明るくなってからにしよう。そう思ってエプロンの粉を払っていると、表の扉が控えめに叩かれた。
こんな早くに、誰だろう。
扉を開けると、そこに立っていたのは、黒い騎士服の背の高い人だった。
「エーリクさん?」
「……匂いが、した」
彼はそれだけ言って、私の肩越しに店の中を見た。
灰色の瞳が、棚に並んだパンの上で止まる。
じっと。
本当に、じっと。
(……もしかして、気になってる?)
「よかったら、どうぞ。焼きたてです」
私は丸パンを一つ半分に割って、差し出した。
湯気と一緒に、ふわりと甘い香りが広がる。
エーリクさんは少しためらってから、それを受け取った。
ひと口、かじる。
そして、固まった。
もぐ、と一度だけ口が動いて、それきり止まってしまった。
「あの……お口に合いませんでしたか?」
不安になって尋ねると、彼は無言のまま、残りの半分も口に入れた。
今度はゆっくり、確かめるように噛みしめている。
それから、低い声でぽつりと言った。
「……やわらかい」
「はい。時間をかけて発酵させたので」
「……甘い。砂糖の甘さじゃない」
「小麦の甘さです。りんごの酵母で、じっくり育てたんですよ」
エーリクさんは、手のひらに残ったパンくずを見つめていた。
その横顔が、なんだか子どもみたいに見えて、私は思わず笑ってしまった。
「……三つ」
「え?」
「三つ、くれ」
私は丸パンを三つ、紙に包んで渡した。
彼は銀貨を一枚カウンターに置いた。どう見ても、多すぎる。
「エーリクさん、これじゃお釣りが――」
「いい」
「よくないです! お店なんですから、ちゃんとしないと」
慌てて銅貨を数えて押しつけると、彼は少し困ったように眉を寄せた。
それから、包みを大事そうに抱えたまま、ぼそりと言った。
「……明日も、焼くのか」
「はい。毎朝焼きます」
「……そうか」
それだけ言って、エーリクさんは店を出ていった。
扉が閉まる直前、ちらりと見えた彼の耳が、また赤くなっていた。
寒さのせい、だろうか。
(……甘いもの、好きなのかな。あの顔で)
くすりと笑って窓の外を見ると、通りにはいつのまにか人が集まり始めていた。
柵の向こうからのぞいていた子どもたち。ショールを巻いたハンナさん。眠そうな顔の、近所のおじさんたち。
みんな、鼻をひくひくさせながら、こちらを見ている。
私はエプロンのひもを結び直して、扉にかけた札をひっくり返した。
「おはようございます! 辺境のパン屋、本日開店です!」
焼きたての匂いが、ノルデンの冷たい朝に広がっていった。




