第3話 北の町ノルデン
城を出て六日目の昼過ぎ、馬車は小高い丘を越えた。
「……着いたぞ」
エーリクさんの声に、私は幌から身を乗り出した。
雪をかぶった山々のふもとに、石造りの町が寄り添うように広がっていた。
灰色の屋根、細い煙突から立ちのぼる煙。町の奥には、分厚い石壁に囲まれた砦のような建物が見える。
吹きつける風は王都よりずっと冷たくて、頬がぴりぴりした。
「ここが、ノルデンですか」
「ああ。北の辺境だ。冬が長い」
(なんだか、絵本の中の町みたい)
王都の華やかさはないけれど、どの家の窓にも小さな鉢植えが並んでいて、人の暮らしの温かさが感じられた。
馬車は町の石畳を抜け、広場に面した一軒の家の前で止まった。
エーリクさんが扉を叩くと、中から小柄なおばあさんが顔を出した。
白髪をきっちり三角巾で包み、腰には刺繍のエプロン。目尻のしわが深い、優しそうな人だった。
おばあさんは、エーリクさんを見るなり目を丸くした。
「おや、エーリク坊ちゃん! 王都へ行ったんじゃなかったのかい」
「……坊ちゃんはやめてくれ、ハンナ」
(坊ちゃん?)
思わずエーリクさんの顔を見上げたけれど、彼は表情一つ変えなかった。
ただ、耳の先がほんのり赤くなっているような気がした。
ハンナさんは、エーリクさんの後ろにいる私に気づくと、さらに目を丸くした。
「まあまあまあ。坊ちゃんが女の子を連れてくるなんて、雪でも降るんじゃないかね。いや、もう降ってるけど」
「……ハンナ。この人の住む場所を頼みたい」
「住む場所?」
「事情がある。……一人で、暮らしていけるところを」
ハンナさんは、私とエーリクさんを交互に見た。
それから何かを察したように、ふっと目元をやわらげた。
「わかったよ。お嬢さん、お名前は?」
「藤宮紬です。紬、と呼んでください」
「ツムギちゃんね。私はハンナ。この町の空き家の世話をしてるんだよ。寒かったろう、さあ、ついておいで」
ハンナさんが案内してくれたのは、広場から一本入った通りの角にある建物だった。
一階が店、二階が住まいになっている、こぢんまりとした石造りの家。
入口の上には、色あせた木の看板がかかっていた。
麦の穂と、丸いパンの絵。
「ここ……パン屋さん、ですか?」
「そうさ。去年の春に、店主のじいさんが亡くなってね。それから空き家なんだよ」
扉を開けると、ひんやりとした空気と、ほこりの匂いがした。
けれど、その奥にほんのかすかに、粉と炭の匂いが残っていた。
長いあいだパンを焼き続けてきた場所の匂いだ。
私の胸が、どくん、と鳴った。
店の奥の厨房には、大きな黒い窯が据えられていた。
表面に、青白い石がいくつもはめ込まれている。
「これが、魔石窯ですか?」
「ああ。だけどね、これを使うには魔力がたっぷり要るんだよ。じいさんの後を継げるほど魔力の強い者が、この町にはいなくてね。だから今、町の者はみんな、三日にいっぺん隣町から硬いパンを仕入れてるのさ」
(三日にいっぺん……あの、ぱさぱさのパンを)
宿で食べた黒パンを思い出して、私は思わず眉を寄せた。
魔力のない私には、この窯は使えない。
わかっていたことなのに、胸の奥がしゅんとしぼんでいく。
そのとき、厨房のさらに奥に、もう一つ扉があるのに気づいた。
「ハンナさん、あそこは?」
「ああ、裏庭だよ。古い窯があるけど、もう誰も使っちゃいないね」
扉を開けると、雪の積もった小さな裏庭に出た。
その隅に、それはあった。
煉瓦を積み上げた、丸いドーム型の窯。
苔むして、ところどころ煉瓦が欠けているけれど、焚き口も煙突もちゃんと残っている。
「魔石窯ができる前は、ここで薪を焚いてパンを焼いてたんだと。じいさんも、年に一度、冬至祭の朝にだけは火を入れてたけどね。腰を悪くしてからは、それっきりさ」
薪窯。
魔力なんて、いらない窯。
私はしゃがみこんで、冷たい煉瓦にそっと手を当てた。
指先に、ざらりとした手触り。
(……焼ける)
修行時代、山奥の工房で一度だけ薪窯を使わせてもらったことがある。火加減は難しいけれど、魔石窯なんかよりずっと、私の知っているパンの焼き方だ。
立ち上がって振り向くと、ハンナさんとエーリクさんが並んでこちらを見ていた。
「ハンナさん。私、ここでパン屋をやってもいいですか?」
ハンナさんはぱちぱちと瞬きをして、それから、にかっと笑った。
「もちろんさ! あのじいさんも、空っぽの店よりずっと喜ぶよ」
エーリクさんは何も言わなかった。
けれど、灰色の瞳がほんの少しだけ、やわらいだように見えた。
その日の夕方、エーリクさんは私の荷物を二階に運び終えると、戸口で振り返った。
「俺は、町の奥の騎士団の詰所にいる。……何かあれば、来い」
「はい。ここまで連れてきてくださって、本当にありがとうございました」
深く頭を下げると、彼は少し居心地悪そうに視線をそらした。
「……礼を言われることじゃない」
そう言って、雪の中を去っていった。
その背中を見送ってから、私は腕まくりをした。
まずは、パンの命になるもの――酵母だ。
この世界には、ドライイーストなんて便利なものはない。だったら、自分で起こすしかない。
ハンナさんに分けてもらった、小ぶりで酸味の強い赤いりんご。
煮沸した瓶に、皮ごと刻んだりんごと、井戸水を入れる。ほんの少しの蜂蜜も。
ふたを閉めて、暖炉のそばの棚にそっと置いた。
「よろしくね。五日くらいで、ぷくぷくしてくれると嬉しいな」
瓶に話しかけるなんて、我ながら変な人だ。
でも、この見知らぬ世界で最初にできた仲間は、たぶんこの小さな瓶なのだった。




