第2話 行き先の違う馬車
城の裏門には、幌のついた小さな馬車が一台だけ待っていた。
御者台に座ったのは、あの騎士――エーリクさんだった。どうやら、護送役は彼一人らしい。
石畳の道をがたごとと揺られながら、私は幌の隙間から外を眺めた。
煉瓦の家並み、尖塔のある教会、見たことのない果物を並べた露店。どれもこれも、映画のセットみたいに現実感がない。
(本当に、来ちゃったんだな)
ポケットの中で、スマートフォンが冷たく沈黙している。画面をつけても、圏外の表示が出るだけだった。
「あの、エーリクさん」
御者台の背中に声をかけると、少し間があってから返事がきた。
「……なんだ」
「これから、どこへ向かうんですか?」
「遠くだ」
「どのくらい遠くですか?」
「……かなり」
会話が終わってしまった。
(この人、一日に話していい言葉の数が決まってるのかな)
ちょっとおかしくなって、私は小さく笑った。
笑ったら、ふいに目の奥が熱くなった。
店長は今ごろ、私が来ないことに気づいているだろうか。冷蔵庫の中の生地は、誰にも焼かれずに過発酵してしまうだろう。毎朝塩パンを三つ買っていく常連のおじいちゃんも、明日からは別の人が焼いたパンを食べることになる。
帰る方法は、ないと言われた。
(……泣いてる場合じゃない。泣いてもパンは膨らまない)
それは見習いのころ、店長によく言われた言葉だった。
私は袖で目元をごしごしこすって、深呼吸をした。
日が傾くころ、馬車は街道沿いの宿場町に入った。
エーリクさんは手際よく宿をとり、食堂の隅の席に私を座らせた。
運ばれてきたのは、豆と干し肉のスープ。それから、平たい黒っぽいパンが一切れ。
スープは素朴だけれど、おなかに染みる味だった。
私はわくわくしながら、パンを手に取った。
異世界のパン。職人としては、気にならないわけがない。
ちぎろうとして、まず驚いた。
硬い。
それに、表面がひび割れて、ぽろぽろと崩れる。口に入れると、ぱさぱさした生地が舌の水分を奪っていった。
(焼きたてじゃない……ううん、それにしたって、乾きすぎてる)
不思議に思って、料理を運んできた宿のおかみさんに尋ねてみた。
「このパン、今朝焼いたものですか?」
「ええ、そうよ。うちのは町のパン屋から毎朝仕入れてるの」
「今朝なのに、こんなに……」
「あら、パンなんてそんなものでしょう。発酵の魔法で一気に膨らませて、魔石窯で焼くんだもの。焼いたその日のうちに食べなきゃ、すぐ石みたいになるわよ」
おかみさんは不思議そうな顔をして、厨房へ戻っていった。
発酵の魔法。魔石窯。
私はぽかんとして、向かいのエーリクさんを見た。
「この世界では、パンって魔法で作るんですか?」
「……ああ。生地に魔力を流して膨らませる。窯も、魔石で熱を出す」
「じゃあ、魔力がない人は?」
「パンは焼けない」
あっさりと言われて、私は手の中の黒パンを見つめた。
魔力なし。加護もなし。
つまり私は、この世界ではパン職人ですらいられない、ということなのだろうか。
(……いやいや、待って。魔法で一気に膨らませるから、生地が育たないんじゃないの? 時間をかけて発酵させれば、もっと……)
頭の中で、職人の私がぶつぶつと考え始める。
落ち込むより先にそっちが動き出すあたり、我ながらどうしようもない。
ふと視線を感じて顔を上げると、エーリクさんがこちらを見ていた。
灰色の瞳が、私の手元のパンと、私の顔を、交互に見ている。
「……パンが、好きなのか」
「はい。向こうの世界では、パンを焼く仕事をしていたので」
「……そうか」
それきり彼は黙ってスープを口に運んだけれど、なぜか、さっきより少しだけ空気がやわらかくなった気がした。
翌朝。
宿場町を出てしばらく進むと、街道が二つに分かれていた。
分かれ道には古い道標が立っていて、私にも読める文字が刻まれていた。
不思議なことに、この世界の言葉は最初から聞き取れたし、文字も読めた。召喚の力のおまけ、なのかもしれない。
東の矢印には「国境の森」。
北の矢印には「ノルデン」。
馬車は、一瞬だけ止まった。
御者台のエーリクさんが、東の道のほうへ顔を向けていた。
手綱を握る手に、ぎゅっと力がこもっているのが見えた。
それから彼は、馬の首を北へ向けた。
「あの、北へ行くんですか?」
「……ああ」
「国境の森、のほうじゃなくて?」
少し長い沈黙のあと、低い声が返ってきた。
「森の先には、何もない。……北のほうが、まだ人が住める」
「そうなんですね。じゃあ、神官長さんが言ってた『国の外れ』っていうのが、北の町なんですね」
返事はなかった。
ただ、馬車は迷いなく北の道を進み始めた。
(ノルデン、か。どんな町なんだろう)
私は幌の隙間から、遠くに霞む白い山並みを眺めた。
このとき私は、まだ何も知らなかった。
私を乗せた馬車が、本当はどこへ向かうはずだったのかを。




