第1話 おまけと呼ばれた日
午前四時。
まだ街が眠っている時間に、私の一日は始まる。
吐く息が白い。十一月の終わりの空気は、頬を刺すように冷たかった。
私、藤宮紬は二十八歳。駅前の小さなパン屋で働くパン職人だ。
朝一番に焼き上げる食パンの仕込み、クロワッサンの折り込み、塩パンの成形。店長と二人で回す厨房は毎朝が戦争みたいなものだけれど、焼き上がったパンの匂いを嗅ぐ瞬間だけは、何年経っても飽きることがない。
(昨日仕込んだ生地、ちゃんと冷蔵庫で寝てるかな)
そんなことを考えながら、いつもの横断歩道で信号を待っていた。
隣に、制服姿の女の子が立っていた。
紺色のブレザーに、大きなスポーツバッグ。朝練だろうか。眠そうに目をこすっていて、ずいぶん幼く見える。
信号が青に変わり、女の子が一歩踏み出した、そのときだった。
足元のアスファルトに、光の線が走った。
円を描き、文字のような模様を描き、あっという間に女の子の足元を囲んでいく。
「え、なに、これ……」
女の子の声が震えていた。
考えるより先に、体が動いていた。
(危ない!)
私は女の子の腕をつかんで、光の外へ引っ張り出そうとした。
けれど、光のほうが早かった。
視界が真っ白に塗りつぶされ、足元から地面の感触が消えた。
次に目を開けたとき、私は冷たい石の床に座り込んでいた。
見上げるほど高い天井。白い柱が何本も並び、色ガラスの窓から朝日のような光が差し込んでいる。
そして周りには、白い長衣をまとった人たちがずらりと並んでいた。
「おお……成功だ」
「聖女様がお越しになった!」
ざわめきが波のように広がっていく。
隣を見ると、さっきの女の子がへたり込んだまま、私の腕にしがみついていた。
「あの、ここ、どこですか……?」
「……わからない。でも、大丈夫。一緒にいるから」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
本当は心臓が壊れそうなくらい跳ねていたけれど、私より年下の子が隣で震えているのだ。大人が先に取り乱すわけにはいかない。
(夢……じゃないよね。床、冷たいし)
人垣が割れて、一人の男性が進み出てきた。
銀色の髪をきっちりと撫でつけた、痩せた老人だった。金糸の刺繍が入った長衣は、周りの誰よりも豪華だ。
彼は穏やかな笑みを浮かべて、私たちを見下ろした。
「ようこそおいでくださいました。私はこの国の神官長、ベネディクトと申します。あなた方は、この国を救う聖女としてお招きしたのです」
聖女。
物語の中でしか聞いたことのない言葉に、頭がついていかない。
女の子は早瀬ひなたと名乗った。高校二年生、十七歳。部活の朝練に向かう途中だったという。
神官長の説明によれば、この国では魔物が年々増えていて、それを鎮めるには異世界から聖女を招くしかないのだそうだ。
「では、お二人のお力を確かめさせていただきましょう」
運ばれてきたのは、両手で抱えるほどの透明な水晶だった。
促されて、ひなたちゃんがおそるおそる手を触れる。
その瞬間、水晶の中に金色の光があふれた。
広間がどよめきに包まれる。神官たちが次々と膝をつき、祈りの言葉を口にした。
「間違いない。聖女様だ……!」
神官長は満足げにうなずき、それから私のほうを向いた。
「では、そちらの方も」
言われるまま、水晶に手を当てる。
ひんやりとした感触。
……それだけだった。
光は、ひとかけらも灯らなかった。
しんと静まり返った広間に、誰かの小さな咳払いが響いた。
(あ、これは……そういうことか)
神官長は困ったように眉を下げてみせた。
けれどその目は、ちっとも困っていなかった。
「魔力なし。加護もなし。……なるほど。聖女様の召喚に、巻き込まれてしまわれたのでしょう」
彼は少しだけ考えるそぶりをしてから、こう言った。
「つまりあなたは、おまけ、ということになりますな」
おまけ。
その言葉は、思っていたよりずっと軽く、ずっと深く胸に刺さった。
「召喚の儀は、聖女様のためだけのもの。残念ながら、元の世界へお帰しする方法はありません。かといって、余分な方を城に置いておくわけにもまいりませんので」
神官長が合図をすると、小さな革袋が差し出された。
受け取ると、ずしりと硬貨の重みがした。
「当面の生活には困らぬ額です。国の外れで、静かにお暮らしになれるよう手配いたしましょう」
(静かに、ね)
言葉は丁寧なのに、出ていけ、と言われているのがはっきりわかった。
ひなたちゃんが、私の袖をぎゅっとつかんだ。
「やだ……行かないでください。紬さんがいなくなったら、私……」
大きな目に、涙がいっぱいにたまっている。
私はその手を両手で包んだ。冷え切った指先だった。
「大丈夫。ひなたちゃんは聖女様なんだから、ここの人たちがちゃんと大事にしてくれる。ご飯もしっかり食べて、よく眠ってね」
「でも……」
「私もね、どこかでちゃんと生きてるから。約束」
笑ってみせると、ひなたちゃんは唇をかんで、小さくうなずいた。
神官長が、広間の後ろへ向かって声をかけた。
「エーリク・ハルフォード。こちらの方をお送りしなさい」
進み出てきたのは、黒い騎士服を着た背の高い男性だった。
焦げ茶色の髪に、冬の空みたいな灰色の瞳。年は私と同じくらいだろうか。表情というものがほとんど見当たらない顔をしている。
彼は神官長に一礼すると、私の前に立った。
見下ろされて、思わず背筋が伸びる。
「……行くぞ」
それだけ言って、彼は背を向けた。
(愛想、ゼロだなあ)
最後にもう一度ひなたちゃんに手を振って、私は広間をあとにした。
こうして、異世界に来てたった一時間で、私の「おまけ」としての人生が始まったのだった。




