第15話 聖女の宣言
翌朝、私は真夜中から厨房に立っていた。
いつもの丸パン。カンパーニュ。それから、メロンパン。
ひなたちゃんに届くかはわからない。
でも、焼かずにはいられなかった。
夜明けとともに、団長さんの部下が店にやって来た。
「聖女様の大浄化の前に、広場で出立の祈りがあります。町の者も立ち会うようにとのことで……団長が、お嬢さんもぜひ、と」
カゴにパンを詰めて、私は広場へ向かった。
広場には、すでに町中の人が集まっていた。
中央に、白い天幕が張られている。その前に、ベネディクト神官長と神殿騎士たち。
少し離れて、騎士団が列をつくっていた。
その列の端に、両脇を騎士に挟まれた、黒い騎士服の姿があった。
(エーリクさん……)
目が合った。
彼はほんのわずかに、うなずいた。
やがて天幕の幕が上がり、ひなたちゃんが姿を現した。
私は、息をのんだ。
白い聖衣が、ぶかぶかに見えるほど、やせていた。
神殿騎士に両脇を支えられて、ようやく立っている。
顔は紙のように白く、唇には色がなかった。
神官長が、穏やかな声を広場に響かせた。
「ノルデンの民よ。本日、聖女様はこの冬最後の大浄化に向かわれる。聖女様の尊いお務めに、祈りを捧げられよ」
町の人たちが、戸惑いながらも頭を垂れる。
神官長は、ひなたちゃんの背中に手を添えた。
「さあ、聖女様。皆に祝福を」
ひなたちゃんは、うつむいたまま、動かなかった。
「……聖女様?」
神官長の声に、わずかに苛立ちが混じる。
ひなたちゃんの肩が、小さく震えていた。
私は、思わず人垣の前に出ていた。
カゴを抱えたまま。
「ひなたちゃん!」
その声に、ひなたちゃんが顔を上げた。
私を見つけた瞬間、色のなかった頬に、ほんの少しだけ、血の気が戻った。
ひなたちゃんは、支えていた神殿騎士の手を、振りほどいた。
ふらつきながら、それでも自分の足で、一歩前に出た。
「……行きません」
小さな声だった。
けれど、広場は水を打ったように静まり返っていた。
「私、浄化には、行きません」
神官長の顔から、笑みが消えた。
「聖女様。何をおっしゃって――」
「紬さんと、エーリクさんを、自由にしてくれるまで。……私、浄化しません」
広場が、どよめいた。
ひなたちゃんは、ぎゅっと両手を握りしめていた。
震える膝で、それでも、まっすぐに立っていた。
「私、知ってます。神官長様が、王都でほかの神官さんに話してたの、聞きました。『おまけの始末は済んだ。国境の森なら、骨も残るまい』って」
息をのむ音が、あちこちから聞こえた。
「私、そのとき、意味がわからなくて……ううん、わかりたくなくて、聞かなかったふりをしたんです。怖くて」
ひなたちゃんの大きな目から、涙がこぼれた。
「でも、紬さんは生きてた。エーリクさんが助けてくれたから。それなのに、助けたエーリクさんが牢に入れられて、紬さんまで連れて行かれるなんて……そんなの、絶対おかしいです!」
「聖女様」
神官長の声は、もう穏やかではなかった。
「お疲れなのでしょう。妄言をおっしゃいますな。……館へお連れしろ」
神殿騎士が、ひなたちゃんの腕に手を伸ばした。
そのとき。
「――そこまでにしていただこう、神官長殿」
広場の入口から、よく通る声が響いた。
騎馬の一団が、雪を蹴立てて広場に入ってきた。
先頭の馬に乗っていたのは、焦げ茶色の髪をした、背の高い男性だった。
年は三十代の半ばくらいだろうか。
深い青の外套に、銀の紋章。
その灰色の瞳を見た瞬間、私は思わず、騎士団の列の端に目をやった。
(……似てる)
ゴットフリート団長が、片膝をついた。
騎士団の全員が、それに続く。
町の人たちも、次々と頭を下げていく。
「辺境伯、ジークムント・ハルフォード閣下……!」
誰かのつぶやきが、耳に届いた。
ハルフォード。
エーリク・ハルフォード。
(え……?)
辺境伯は馬を降りると、神官長の前に進み出た。
その後ろに、王家の紋章をつけた男性が一人、控えていた。
「団長からの早馬で事の次第を聞いたところへ、ちょうど陛下の監察官殿が我が城に立ち寄られてな。共に参った」
辺境伯が手を挙げると、王家の紋章の男性が、一枚の書状を広げた。
「国王陛下の監察官、ハインツである。陛下のご命令により、ベネディクト神官長、あなたの後を追ってきた。召喚の儀にて現れた異世界の民を、陛下に無断で城外に放逐し、その殺害を騎士に命じた疑いにより、神殿の職を停止し、王都へ召喚する」
神官長の顔が、みるみる青ざめた。
「ば、馬鹿な。証拠もなしに……!」
「証拠ならある」
監察官が、さらにもう一枚の紙を取り出した。
「あなたの補佐をしていた若い神官が、王都で自ら申し出た。召喚の日、あなたが私室で騎士に何を命じたか、扉の外ですべて聞いていたと。……良心が咎めて、眠れなかったそうだ」
「あの若造が……!」
神官長の声が裏返った。
撫でつけていた銀色の髪が、ひと房、額に落ちる。
「出まかせです! あれは日頃から私を妬んでいた者。私を陥れようと、ありもしない話をこしらえたに決まっている!」
「ならば、王都で申し開きをなされよ」
「申し開き? この私が?」
神官長は、ひきつった笑い声を上げた。
「聖女召喚の儀を執り行ったのは、この私ですぞ! 私がいなければ、聖女様はこの国においでにならなかった! その私を、たかがおまけ一人のために裁くと言うのですか!」
広場の空気が、すうっと冷えた。
町の人たちの目が、一斉に神官長へ向けられる。
それに気づいたのか、神官長はぎくりと口を閉ざした。
そして、くるりと向きを変えると、ひなたちゃんに手を伸ばした。
「聖女様! 聖女様からも、何かおっしゃってください。私がどれほど、あなたを大切にお導きしてきたか……!」
ひなたちゃんは、一歩、あとずさった。
伸ばされた手を見つめて、小さく首を横に振る。
それから、黙って顔をそむけた。
神官長の手が、宙で止まった。
「……神殿騎士! 何をしている、聖女様を館へお連れしろ! 私は聖女様と共に王都へ戻る!」
けれど、神殿騎士たちは動かなかった。
戸惑ったように顔を見合わせ、やがて、剣の柄から手を離した。
「おのれ……っ」
神官長は外套の裾をひるがえし、広場の端に止められた白い馬車へと駆け出した。
その足が、踏み固められた雪の上で、つるりと滑った。
派手な音を立てて、神官長は顔から雪の中に倒れこんだ。
真っ白な毛皮の外套が、泥まじりの雪にまみれる。
それでも、彼は這うようにして馬車のほうへ進もうとした。
「放せ! 私を誰だと思っている! おまけごときのために、なぜ私が……!」
騎士団の騎士たちに両腕をつかまれ、引き起こされても、神官長はわめき続けていた。
髪はぐしゃぐしゃに乱れ、鼻の頭には泥がついている。
あの日、広間で穏やかに微笑んでいた人と、同じ人だとは思えなかった。
町の人たちは、誰も、何も言わなかった。
ただ、冷たい目で、その姿を見つめていた。
辺境伯は、神官長を一顧だにせず、騎士団の列のほうへ向き直った。
「エーリク」
列の端で、エーリクさんが顔を上げた。
「命令違反と虚偽の報告については、辺境伯家として、別に話をする。……だが」
辺境伯は、ほんのわずかに口元をゆるめた。
その表情は、驚くほどエーリクさんに似ていた。
「よく、守った。我が弟として、誇りに思う」
騎士たちが、エーリクさんの腕を放した。
私は、カゴを抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
(弟……? 辺境伯様の……?)
坊ちゃん。
ハンナさんが、ずっとそう呼んでいた理由が、ようやくわかった。




