第14話 いつもどおりの朝
午前四時。
まだ町が眠っている時間に、私は窯に火を入れた。
吐く息が白い。星が、空いっぱいに残っている。
ゆうべは、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、騎士たちに囲まれて去っていく黒い背中が浮かんだ。
それでも、生地はこねた。
元種に粉と塩と水を合わせて、台に叩きつけて、折りたたんで。
いつもどおりに。
(パンを、焼いていろ)
あの人が、そう言ったから。
焼き上がった丸パンのうち、一番形のいい三つを取り分けて、紙で包む。
カウンターの端に置いた包みを見て、胸がぎゅっと痛んだ。
今朝は、あのノックの音はしない。
……そう思っていたのに。
表の扉が、叩かれた。
飛びつくように開けると、そこに立っていたのは、杖をついたおじいさんだった。
歯が悪くて、何年もパンを食べていなかった、あのおじいさん。
その後ろに、子どもたちがいた。ハンナさんがいた。近所のおじさんたち、おばさんたち。
粉売りのルカさんまで、気まずそうに頭をかきながら立っていた。
「……みなさん、どうして」
おじいさんが、ふんと鼻を鳴らした。
「パンを買いに来ただけじゃ。いつもどおりにな」
「お姉ちゃん、今日もかたくないパン、ある?」
子どもたちが、カウンターに銅貨を並べる。
ハンナさんが、私の手をそっと握った。
「町の者はね、みんな見てたんだよ、ツムギちゃん。あんたが毎朝、暗いうちから窯の火を焚いてたのも。エーリク坊ちゃんが、毎朝この扉を叩いてたのも」
ルカさんが、粉の袋をどさりと置いた。
「これ、一番いいやつ。代金はいらない。……今日は、商売抜きってことで」
(商売抜き……?)
首をかしげる私に、ルカさんは苦笑いした。
「あの騎士様に睨まれたとき、正直むっとしたんだよね。でもさ、あの人が毎朝誰より早くこの店の扉を叩いてるの見てたら、ああ、これは敵わないなって思っちゃって」
「ルカさん……」
「それと、ついでに言っとくけど。隣町で違う女の子と歩いてるって聞いたろ? あれ、全部妹たちだから。うち、五人姉妹で」
「え」
「誤解されたままってのも、なんか悔しいしさ。……それに、ツムギさんの窯の火が消えたら、俺の一番のお得意さんがいなくなっちゃうからね」
ルカさんはひらひらと手を振って帰っていった。
私はカウンターの前で、くしゃくしゃの顔で笑った。
泣きそうで、でも、嬉しくて。
(一人じゃ、ないんだ)
昼過ぎ、私はパンの包みを抱えて、騎士団の詰所を訪ねた。
ゴットフリート団長は、私の顔を見るなり、髭の奥でにやりと笑った。
「来ると思っとった。差し入れなら、通してやる」
「いいんですか?」
「牢といっても、詰所の奥の空き部屋だ。鍵がかかっとるだけでな」
案内された奥の部屋には、鉄格子のはまった小窓があった。
その向こうに、簡素な寝台と、椅子が一つ。
椅子に座っていたエーリクさんが、顔を上げた。
灰色の瞳が、大きく見開かれる。
「……ツムギ」
「パン、持ってきました。いつもの三つです」
鉄格子の隙間から包みを差し入れると、エーリクさんはそれを、しばらく黙って見つめていた。
それから、両手で、そっと受け取った。
「……焼いたのか。今朝も」
「はい。エーリクさんが、焼いていろって言ったので」
「……そうか」
彼は丸パンを一つ取り出して、ゆっくりと口に運んだ。
いつもの朝と同じように、確かめるように噛みしめて。
私は格子の前に立ったまま、ずっと聞きたかったことを口にした。
「どうして、黙ってたんですか。国境の森のこと」
エーリクさんの手が、止まった。
「……言えば、あんたは気にする」
「気にしますよ! だって、エーリクさん、私のせいでこんな……」
「あんたのせいじゃない」
強い声だった。
格子の向こうで、彼はまっすぐに私を見ていた。
「俺が、決めたことだ。……あの分かれ道で、あんたを北へ連れてきたことを、一度も後悔していない」
「……どうして、そこまで」
エーリクさんは、少しだけ視線をさまよわせた。
不器用な人が、言葉を探しているときの顔だった。
「……あの広間で、あんたは、泣いている子の手を握って笑っていた。自分が捨てられるときに」
低い声が、ぽつりぽつりと続く。
「そういう人間が、魔物の巣で死んでいいはずがない。……そう思った。それだけだ」
私は、格子を握る手に力をこめた。
言葉が、うまく出てこなかった。
ただ、目の奥が、熱くて。
「……ありがとうございます」
やっと絞り出すと、エーリクさんは、いつものようにふいっと目をそらした。
「……礼を言われることじゃない」
耳の先が、赤くなっていた。
最初に会った日と、同じ言葉。同じ赤さ。
私は泣きながら、少しだけ笑った。
詰所を出ると、団長さんが外で腕を組んで待っていた。
「お嬢さん。ひとつ、伝えておくことがある」
その顔は、ひどく険しかった。
「聖女様のことだ。神官長殿が、館から一歩も外に出さなくなった。朝から晩まで浄化の祈りをさせておられるらしい。……今朝、とうとう倒れられたそうだ」
心臓が、冷たくなった。
「ひなたちゃんが……」
「明日、北の谷で、この冬最後の大浄化がある。神官長殿は、聖女様を無理にでも連れて行くおつもりだ」
団長さんは、北の空を見上げた。
重たい灰色の雲が、山の稜線にかかっていた。
「それと……早馬が戻った。辺境伯閣下が、明日の朝、ノルデンにお着きになる」




