第13話 嘘の報告書
店の前には、いつのまにか人だかりができていた。
朝のパンを買いに来た町の人たち。騒ぎを聞きつけた近所の人たち。ハンナさんの姿もある。
駆けつけたエーリクさんは、神官長の前で足を止めた。
息を整えると、背筋を伸ばし、静かに一礼する。
「……神官長殿」
「ご苦労さまです、ハルフォード殿」
神官長は、にこやかに言った。
その声は、通りの隅々にまでよく響いた。
「ひとつ、確認させていただきたい。あなたは、私の命令を受けて、この方を国境の森へお送りした。そうでしたな?」
国境の森。
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
国の外れ、と言われていた。
北の町ノルデンのことだと、ずっと思っていた。
「そして、あなたは私に報告書を寄越した。『ご命令の件、滞りなく』と」
神官長は、懐から一枚の紙を取り出して、ひらりと広げてみせた。
几帳面な文字で書かれた、たった一行。
「にもかかわらず、この方は、こうして生きてここにいる。……どういうことでしょうな?」
エーリクさんは、黙っていた。
灰色の瞳は、まっすぐに神官長を見据えている。
否定もしなければ、言い訳もしなかった。
人垣の中から、誰かがぽつりとつぶやいた。
「国境の森って……魔物の巣じゃないか」
「あんなところに、女の人一人で……?」
ざわめきが、さざ波のように広がっていく。
私は、ゆっくりとエーリクさんを見た。
(国境の森に、送るはずだった……?)
あの分かれ道。
東の矢印に刻まれていた「国境の森」の文字。
手綱を握る手に、ぎゅっと力がこもっていたこと。
一瞬だけ止まった馬車。
『森の先には、何もない。……北のほうが、まだ人が住める』
――あのとき、エーリクさんは。
足元が、ぐらりと揺れた気がした。
(私、本当は……あの森で、死ぬはずだったんだ)
神官長は、私が「おまけ」だから、いらないから、そこに捨てさせようとしたのだ。
そしてエーリクさんは、その命令を、たった一人で握りつぶした。
嘘の報告書まで書いて。
何も知らない私に、何も言わずに。
毎朝パンを買いに来て、薪を割って、吹雪の夜に窯を塞いでくれて。
「エーリクさん……」
声が、震えた。
エーリクさんは、私のほうを見なかった。
ただ、少しだけ、苦しそうに目を伏せた。
「命令違反に、虚偽の報告。騎士として、許されることではありませんな」
神官長は、大げさにため息をついてみせた。
「ハルフォード殿の身柄は、神殿が預かります。王都へ送り、しかるべき裁きを受けていただく」
「待ってください!」
気づけば、私は二人のあいだに飛び出していた。
「エーリクさんは、私を助けてくれたんです! 悪いのは、そんな命令を出した――」
「おや」
神官長の視線が、私に向いた。
冷たい、底の見えない目。
「何か、誤解があるようですな。私は、あなたを国の外れへ送るよう命じただけ。国境の森がたまたまその方角にあった、それだけのことです」
「そんな……」
「それより、ご自分の心配をなさったほうがよろしい。召喚に紛れ込んだ素性の知れぬ方が、聖女様をたぶらかし、毎朝連れ出していた。これは見過ごせぬ問題です」
神官長は、背後の神殿騎士に目配せをした。
「この方も、神殿でお預かりいたしましょう」
神殿騎士が、私のほうへ一歩踏み出した。
その瞬間。
エーリクさんが、私の前に立った。
大きな背中が、視界いっぱいに広がる。
彼は剣の柄に、手をかけていた。
「……この人に、指一本でも触れてみろ」
低い、低い声だった。
吹雪よりも冷たく、窯の火よりも熱い声。
神殿騎士の足が、ぴたりと止まった。
通りの空気が、凍りついたように張りつめる。
「ハルフォード殿。神殿騎士に剣を向ければ、反逆とみなされますぞ」
「……構わない」
「エーリクさん、だめ!」
私は思わず、彼の腕にしがみついた。
硬い騎士服の袖の下で、腕の筋肉が震えていた。
「お願いです、剣を抜かないで……! そんなことしたら、エーリクさんが……」
エーリクさんが、ゆっくりと振り向いた。
灰色の瞳が、初めて、まっすぐに私を見た。
その目の奥に、言葉にならない何かが、たくさん詰まっていた。
長い沈黙のあと、彼は剣の柄から、静かに手を離した。
「エーリクの身柄は、辺境騎士団が預かる」
人垣をかき分けて現れたのは、ゴットフリート団長だった。
いつもの豪快な笑い声はなく、髭の奥の目が鋭く光っている。
「こいつは辺境騎士団の騎士だ。王都へ送るかどうかは、辺境伯閣下のご判断を仰いでからにしていただこう。それまでは、詰所の牢でおとなしくさせておく。……異存はありますまいな、神官長殿」
神官長は、しばらく団長と睨み合っていた。
やがて、薄い笑みを浮かべて、小さく肩をすくめた。
「よろしいでしょう。ですが、浄化の巡回が終わり次第、王都へ連行いたします。……その娘についても、改めて」
神殿騎士に腕を引かれて、ひなたちゃんが連れていかれる。
振り返ったひなたちゃんが、泣きそうな顔で、声を出さずに唇を動かした。
ごめんなさい、と。
団長さんの部下たちが、エーリクさんの両脇に立った。
彼は抵抗しなかった。
連れていかれる直前、エーリクさんは一度だけ足を止めて、私を振り返った。
「……ツムギ」
初めて、名前を呼ばれた。
「……パンを、焼いていろ」
「え……?」
「明日の朝も。……いつもどおりに」
それだけ言って、彼は騎士たちに囲まれて、雪の通りを去っていった。
私は、店の前に立ち尽くしていた。
人垣が、ひとり、またひとりと散っていく。
ハンナさんが、そっと私の肩に毛布をかけてくれた。
「ツムギちゃん。……中に入ろう。冷えるよ」
その声も、遠くに聞こえた。
私は、自分の両手を見下ろした。
粉にまみれた、パン職人の手。
魔力もない。聖女の力もない。神官長に言い返す地位も、エーリクさんを牢から出す力もない。
ただ、パンを焼くことしかできない手。
(……パンを、焼いていろ)
あの人は、そう言った。
いつもどおりに、と。
私はぎゅっと拳を握りしめた。
(焼くよ。毎朝、焼く。エーリクさんが帰ってくるまで、ずっと)
そして、カウンターの端に、紙の包みを三つ、置くのだ。
あの人の分を。
私は涙をぬぐって、厨房へ向かった。
窯の火を、絶やさないために。




