第12話 パン屋の小さな聖女様
それから、ひなたちゃんは毎朝、店にやって来るようになった。
夜明け前、エーリクさんに付き添われて、灰色の外套をかぶって。
はじめの二、三日は、焼きたてのパンを食べて、温かい牛乳を飲んで、私の隣でうとうとするだけだった。
厨房の暖炉のそばの椅子で、ひなたちゃんはよく眠った。
館の寝台では眠れないのに、ここではすぐに寝息を立てる。
(窯の火と、パンの匂いって、安心するもんね)
小さな寝顔に毛布をかけながら、私はそっと笑った。
四日目の朝、ひなたちゃんは、自分から言い出した。
「紬さん。私も、パン、こねてみたいです」
「いいよ。手、洗っておいで」
小さな手で、ぎこちなく生地をこねる。
べたべたして、手にくっついて、ひなたちゃんは悲鳴を上げた。
「わ、わ、くっつく! 紬さん、これ大丈夫なんですか!?」
「大丈夫大丈夫。こねてるうちに、ちゃんとまとまってくるから」
「ほんとに!?」
ひなたちゃんが顔を真っ赤にして奮闘する横で、戸口のエーリクさんが、ほんのわずかに口元をゆるめていた。
……ように見えた。
たぶん、見間違いじゃない。
ひなたちゃんの顔色は、目に見えてよくなっていった。
こけていた頬に、少しずつ赤みが戻ってきた。
目の下のくまも薄くなって、笑う回数が増えた。
そして不思議なことに、ひなたちゃんの浄化の力も、日に日に強くなっているらしかった。
ある日の午後、騎士団の注文のパンを受け取りに来たゴットフリート団長が、髭をなでながら言った。
「聖女様の浄化な、ここ数日でずいぶん様子が変わったぞ。前は一日に森の端っこを清めるのがやっとだったのが、昨日は北の谷の入口まで浄められた。魔物の数が目に見えて減っとる」
「本当ですか!」
「ああ。若い連中が言っとったよ。聖女様が、浄化のあとに笑ってくださったってな」
(よかった……)
私のパンに、魔法の力なんてない。
それはよくわかっている。
でも、ちゃんと食べて、ちゃんと眠って、誰かと笑い合えば、人は元気になる。
きっと、聖女様だって同じなのだ。
団長さんは、ふと声を落とした。
「ただな、お嬢さん。……神官長殿が、聖女様の朝の散歩を気にしておられる」
私の手が、ぴたりと止まった。
「毎朝どこへ行っておられるのかと、館の者に聞いて回っているそうだ。エーリクには伝えたが、あんたも気をつけてくれ」
「……はい」
団長さんが帰ったあと、私は窯の前に座りこんで、ぱちぱちと燃える薪を見つめていた。
神官長。
あの人に、私がここにいることを知られたら、どうなるのだろう。
またあの冷たい目で、「おまけ」と呼ばれるのだろうか。
それとも。
(……ううん。今さら、私一人がどう思われたって、どうってことない)
城を追い出された私には、もう失うものなんて、たいしてない。
それより心配なのは、ひなたちゃんのことだ。
ここに通っていることがばれたら、きっと叱られる。
もう来られなくなるかもしれない。
そして、ひなたちゃんを毎朝連れてきてくれているエーリクさんも、無事では済まないかもしれない。
翌朝。
いつもより早い時間に、扉が叩かれた。
いつものノックではなかった。
こん、こん、と、硬く、ゆっくりとした音。
嫌な予感がした。
扉を開けると、そこに立っていたのは、銀色の髪をきっちり撫でつけた、痩せた老人だった。
金糸の刺繍の長衣の上に、真っ白な毛皮の外套。
その後ろに、白い鎧の神殿騎士が二人。
そして、神殿騎士に両腕をつかまれた、ひなたちゃんの姿があった。
「紬さん、ごめんなさい……っ」
ひなたちゃんの顔は、真っ青だった。
ベネディクト神官長は、私を見下ろした。
穏やかな笑み。
あの日の広間と、まったく同じ笑み。
けれど、その目の奥が、ほんの一瞬だけ、ひどく揺れたのを、私は見逃さなかった。
「……おや」
神官長は、ゆっくりと首をかしげた。
「あなたは……国の外れにお送りしたはずの方、でしたな」
その声には、隠しきれない冷たさがにじんでいた。
彼は店の中を見回し、棚に並んだパンを見て、それから、通りの向こうへ視線を投げた。
そこには、こちらへ駆けてくる、黒い騎士服の姿があった。
「エーリク・ハルフォード」
神官長の唇が、薄く吊り上がった。
「あなたに、少々お聞きしたいことがあります」




