はりぼて伯爵家の狂騒(二)
「長旅でお疲れのところ、すぐにでも客室にご案内したいのですが……申し訳ございません。実はお部屋の準備が少し遅れておりまして、まだ整っていないのです。よろしければ、先にお食事をいかがでしょうか?」
ヴァロア伯爵夫人クレールが、恐縮しながら控えめに発言する。
するとコレットは、すっと視線をリュミエールに向けた。
(もうこの場はすべて優秀な妹に任せよう!)
という、元孤児の出来る人に丸投げするという生存戦略であった。
「ありがとうございます、ヴァロア伯爵夫人。それでは、お言葉に甘えさせていただきますわ」
リュミエールの完璧な返答を聞き、クレールは安堵して執事のフランツに視線で指示を出した。フランツが一礼して部屋から退出する。
ようやく一息ついたクレールは、愛娘へと視線を向けた。
「それにしてもジュリエット。お客様をお迎えするような大事な用事は、もう少し早く言ってほしかったわ」
その言葉に一瞬きょとんとしたジュリエットだったが、自分のミスに今気づいたのだろう。「あ」と小さな声をあげた。
「ごめんなさい、お母様。コレットさんと一緒に練習できるのが嬉しくて、つい知らせるのを忘れていたの」
「本当に、仲が良いのねえ」
そう言って小首を傾げる娘の頬は、微かに薔薇色に染まっていた。
これほど浮かれている娘の姿を、クレールは見たことがなかった。
仲の良い友人が出来ると、あの大人しかったジュリエットでもこうなってしまうのね、と微笑ましく思うクレール。
だが、視線を向けられた当のコレットは、胃痛を堪えるかのように微妙に顔を引き攣らせていた。
いや仲は良くないですけど!? 演奏する度に睨みつけられて恐怖しか感じませんでしたけど!? という内心の叫びは伯爵夫人にはまったく伝わらない。
「コレットさまも、本当に申し訳ございません。ジュリエットになにか無礼な振る舞いがございましたら、遠慮なく叱ってやってくださいね」
「…………はい、そうします」
クレールは、コレットが元孤児であることを事前に調べて知っていた。
だからこそ、このガチガチに硬くなっている態度を、上流階級の場に慣れていなくて緊張しているのね、と優しく解釈した。
先ほどのリュミエールの、娘より年下とは思えない威厳に満ちた態度とは対照的だったからだ。
しかし実際は、コレットはマナーではなく、天才からの重圧に怯えているだけだった。
「コレットさま、お部屋についてなのですが。リュミエールさまと同じお部屋にベッドを二つご用意させていただく形で進めておりますが、それでよろしいでしょうか?」
「あ、はい。私は別に床でもどこでも……」
貴族の奥様の前で、つい孤児時代の場所はどこでも生きていけます、という主張が口を突いて出てしまい、コレットは慌てて首を振った。
「し、失礼しました! 伯爵夫人の良いようになさってくださいませ。私は全く問題ございません」
どうにか取り繕った。
よし、今の失言は誰も気にも留めなかったはずだ。コレットがそう胸を撫でおろしたのだが。
――ジュリエットの耳は、その微かな失言を完璧に捉えていた。
「コレットさんは、床で寝たことがおありですの?」
ジュリエットらしい、無邪気で、相手の心情には一切配慮のない発言。
コレットは言いやがった、と内心で頭を抱えた。
一方、『暁の聖母』譲渡の衝撃からようやく立ち直りかけていたヴァロア伯爵は、娘のあまりの暴言に血の気が引いた。むしろこのまま気を失いたかった。
コレットは元孤児とはいえ、今はグランヴェル伯爵令嬢なのだ。過去の素性をあからさまに勘ぐるなど、無礼極まりない。
「……ええ、まあ」
コレットは、早くこの話題を終わらせたい一心で引き攣った笑みで小さく頷いたのだが、それは伯爵夫妻には「怒らせてしまった!」と映った。
しかし本当の混乱はその直後に訪れた。
ジュリエットは、ほんの少しだけ楽しそうに小首を傾げると、混乱中の父親に向かって突拍子もないことを言い出したのだ。
「お父様。わたくしも、床で寝てみたいですわ!」
「……は?」
とヴァロア伯爵。
「え?」
「え……?」
「えっ!?」
と伯爵夫人クレール、コレット、リュミエールの声が重なる。
見事なまでの不協和音。応接室の全員が、完全に白目を剥いてあっけにとられた。
「ジュリエット、何を言い出すの!?」
最初に正気を取り戻したクレールが悲鳴をあげるが、ジュリエットはお構いなしだ。
「だって、わたくし、コレットさんのことをもっと良く知りたいんですもの。コレットさんが床で寝たことがあるのでしたら、わたくしも床で寝てみたいですわ!」
「い、いや待つのだジュリエット! お前本当にどうしてしまったのだ!?」
自分の愛娘は、こんな滅茶苦茶な暴論を振りかざす人間だっただろうか?
音楽学院は一体娘に何を教えたのか。
絶対に床で寝ると言い張るジュリエットと、必死に止める両親。不毛な言い争いが続く中、そこに凛とした声が割り込んだ。
「ヴァロア伯爵閣下」
リュミエールの一声に、伯爵は救いを求めるように向き直る。
「私たちが滞在する予定の客間には、十分な広さはございますかしら? もしあるようでしたら、ベッドを一度運び出し、床に三人分の寝具を整えていただいてもよろしいですか? ……我がままを言って申し訳ございませんが、私もお姉様と床で寝てみたくなりましたの」
その言葉を聞いて、夫妻は本当に涙を流して頭を下げたくなった。
ジュリエットの奇行を「客人のわがまま」という体面にすり替えて、場を収めてくれようという、年下とは思えぬ大貴族としての対応。
音楽の才能という点においては、コレットやジュリエットという怪物の前では平均値に甘んじるリュミエール。
しかし、大貴族の令嬢としての完成度、窮地における政治力と立ち振る舞いにおいては、凡たるヴァロア夫妻はおろか、その場にいる天才たちよりも圧倒的に上なのだ。
(……いや待ってリュミエール!? 何を勝手に巻き込んでるの!? ベッドがないことはどうでも良いけど、ジュリエットさんと一緒に寝るのは嫌よ!!)
とコレットが内心で絶叫していることなど、誰も気づかない。
淑女の微笑みを貼り付けたまま、コレットはドレスの上からそっと己の胃の腑を強く押し潰した。血の滲むような二年間の特訓で得た役者根性がなければ、今頃その場に血を吐いて倒れていたところである。
ジュリエットなどはリュミエールに対する好感度が際限なしに上がり続けている。
親としては情けない限りだが、愛娘の謎の乱心を収めるにはこれしかなかった。
結局、伯爵はボロボロになりながら。
「……ジュリエット、それでよいか?」
と聞き、娘の満面のひまわりのような笑顔を見届けるしかなかったのだった。
まだ娘たちが到着して半日にも満たないというのに、一気に十年は老け込んだ気分のヴァロア伯爵夫妻であった。
◇
そして、翌朝。
ヴァロア伯爵家の白亜の音楽室には、微かだが明確な不協和音が満ちていた。
「――コレットさん! 準備はよろしくて?」
朝日を背に浴びて、朝露の薔薇のように輝く笑顔を見せるジュリエット。手には昨日贈られたばかりの名器『暁の聖母』が握られている。一晩中、床の上で大切に抱きしめていたのではないかと言いたくなるほどの愛着ぶりだ。
対するコレットは、うっすらと目の下に隈を浮かべ、自分の愛用のヴァイオリンを抱えて椅子の背もたれに深く寄りかかっていた。
……眠れなかった。
隣で眠るジュリエットが夜中に闇の中で『……コレットさん、あなたの音が聴きたいわ……』と寝言で呟きながら吸い寄せられるように手を握ってこようとしたのだ。暗殺者の襲撃を警戒する兵士のように一晩中ビクッと引き攣り、まともな睡眠など取れるはずもなかった。精神的な疲労も限界に近い。
「ええ、ええ。いつでもいいわよ、ジュリエットさん」
引き攣った笑みで立ち上がるコレット。その手にあるのは、ニスがどこか野性味を帯びた、燃えるような深い琥珀色の頑強なヴァイオリンだ。
義父であるグランヴェル伯爵が、どこからか調達してくれた、無骨で肉厚な一挺。
コレットはこのヴァイオリンをひどく気に入っていた。
具体的になにが、どう素晴らしいのか、音楽の素養が浅いコレットには言葉で表現することは難しかった。
けれど、このヴァイオリンが手元に来るまでに持たされたどの高級な楽器よりも、しっくりと自分に馴染むのだ。
音楽学院の授業で、たまに違うヴァイオリンを手に取ることもあったが、やはりどれもしっくりこなかった。
今では、この無銘のヴァイオリンこそが、コレットにとって唯一無二の相棒となっていた。
二人が楽器を構え、弓を当てた瞬間――それまで部屋を支配していたお泊まり会のドタバタした空気は消え去り、張り詰めた演奏家の空気が爆ぜた。
いくつかの基礎的な楽曲を合わせただけで、ジュリエットの胸は歓喜で満たされていた。
コレットの出す音は、相変わらず寸分違わぬ完璧ななぞり。しかし、時折その冷たい造花の隙間から、あの夜にジュリエットの心を捕らえた「地を這うような泥臭い執念の音」が、ほんの微かに、けれど確かに漏れ聞こえてくるからだ。
(素晴らしいわ、コレットさん。やっぱり、貴女との合奏は世界で一番楽しい!)
しかし――まだ足りない、とジュリエットは思った。
あの夜、泥の底から響いてきた音はこんなものではなかったはずだ。
あの、抜け殻で、美しい部分をすべて削ぎ落とした残骸のようだった頃のコレットの音に比べれば、遥かに良い音を奏でているとは思う。
それでも、ジュリエットは不満だった。
コレットの「本物の音」は、確かにそこに存在する。
しかし、それが美しく出力されていない。何かに堰き止められているように思えるのだ。
だとすると、その原因はなんなのか。
技術ではない、とジュリエットは確信していた。
中身のない完璧な演奏など「はりぼて」そのものだが、だからと言って技術が上達したことで中身が失われるはずがない。コレットの技術は、この一年間のグランヴェル伯爵家での猛特訓と、学院での生活で爆発的に向上している。
その上達した完璧な技術で、あの夜の音を奏でることが出来たら、一体どれほど素晴らしい領域に達するのか。
ジュリエットはどうしてもそれを確かめたかった。
技術が問題でないとすれば、理由は一つしか残されていない。
ジュリエットが目を付けたのは、コレットの持つヴァイオリンだった。
(もしかしたら……あの楽器が、コレットさんの音を閉じ込めているのではないかしら?)
一度そう考えると、もう確かめずにはいられなかった。天才の探究心は、誰にも止められない。
「コレットさん、コレットさんのヴァイオリンを弾いてみたいのだけど……少し貸してくださらない?」
唐突に問われたコレットは、やはり顔を引き攣らせた。
本音を言えば、嫌だった。めちゃくちゃ嫌だった。
もうこのヴァイオリンは自分の大切な相棒なのだ。それをジュリエットに貸して、また自分以上の演奏をこれ見よがしに聴かされるのは耐え難い。
天才ジュリエットはいかなるヴァイオリンをも美しく弾きこなす。
かつて、学院のサロンで、手入れもろくにされていない備え付けの安物ヴァイオリンを用いて、簡単に自分以上の至高の音を紡ぎ出してみせた、あの時のように。
躊躇するコレットだったが、ジュリエットにきらきらとした目で重ねておねだりされてしまい、嫌々ながらもヴァイオリンをジュリエットの手へと渡した。
ジュリエットは意気揚々と、コレットのヴァイオリンを受け取り――。
そして、愕然とした。
(……え?)
何も、わからなかった。
ジュリエットはこれまで、どんなヴァイオリンを手に取ろうとも、その楽器をどのように弾けば最上の音を奏でることが出来るのか、触れた瞬間に正解が頭に思い浮かんだ。
それが分からなかったことなど、これまでの人生でただの一度もない。
昨日手にした、世界最高峰の気難しい名器『暁の聖母』でさえ、一瞬で手懐けてみせたのだ。
特定の楽器に執着したことなどない。いつだって、どんなガラクタであっても問題なく支配してきた。
それなのに。
この、コレットが持っていた、燃えるような琥珀色のヴァイオリンのことが――何も、掴めない。
弾き方の正解が、これっぽっちも脳裏に浮かんでこないのだ。
ただ一つだけ、肌が粟立つような恐怖と共に理解できたことがある。
それは、自分では――ジュリエット・ド・ヴァロアの持つ完璧な技術では、この楽器の最高の音を絶対に奏でることが出来ない、ということ。
それでも一応ヴァイオリンを構え、弓を引こうとしてみる。
しかし、身体が恐怖で動かなかった。
美しい音を奏でるどころではない。そもそも、この歪で頑強な鈍器のような楽器から、まともな音が出るのかすら分からなかった。
それはジュリエットにとって、生まれて初めて味わう音楽的挫折であり、完膚なきまでの敗北だった。
一方、コレットは、自分から貸して欲しいと言ったくせに、冷徹に値踏みするような厳しい表情のままヴァイオリンをただ持って突っ立っているだけのジュリエットに、猛烈に腹を立てていた。
(何よそれ。……私のヴァイオリンには、弾く価値すらないってこと?)
昨日、『暁の聖母』を嬉しそうに完璧に弾きこなしていたジュリエットの姿が脳裏をよぎり、コレットの苛立ちは頂点に達する。
しばらく待ってみても、ジュリエットがヴァイオリンを弾く気配は微塵もない。ただ構えたポーズのまま硬直している。
許せない、と思った。
貸す前は「自分より上手く弾かれたらどうしよう」と怯えていたが、弾くことすら拒絶されるなど、それ以上の最大の侮辱だ。相棒を、ガラクタだと笑われた気がした。
「――もう、いいでしょ」
コレットは思わず令嬢としての仮面をかなぐり捨て、荒々しくヴァイオリンをひったくるように取り戻した。
本当に腹立たしかった。許せなかった。
この無銘のヴァイオリンは、泥の底から這い上がってきた不格好な自分を、いつだって裏切らずに支えてくれた最高の相棒なのだ。こんなにも素晴らしい音を奏でることができるのだと、目の前の天才に証明してやりたかった。
寝不足のピリピリとした怒りと、相棒を侮辱された激昂。
そんな荒れ狂う感情のすべてを乗せて、コレットはヴァイオリンを肩に当て、弓を叩きつけた。
――ガチリ、と。
コレットが「令嬢の優雅さ」を捨て、泥を抉るような凄まじい指の圧力と、弦を全重量で圧し切るような苛烈な弓使いを見せた瞬間、琥珀色の楽器の最高の音が流れ出した。
ジュリエットは、目の前でコレットが演奏するのを、ぶるぶると震えながら見つめていた。
身体の震えが、どうしても止まらない。
その演奏は、あの夜。グランヴェル伯爵邸で聴いた音と同じ――いや、違う。
伯爵家に引き取られてからの二年間の猛特訓によって磨き上げられた完璧な技術を足がかりにして、さらに攻撃的に、泥臭く濁っていて、だからこそ、あまりにも美しかった。
ジュリエットがずっと追い求めていた「本物のコレットの音」が、そこにはあった。
しかし、今のジュリエットを支配していたものは、歓喜よりも圧倒的な恐怖だった。
何より信じられないのは。
今、コレットの手によって世界で一番美しい血と泥に塗れた音楽を奏でているそのヴァイオリンが、先ほど自分が手に取り、弾き方の一歩目すら導けなかった、あの「何も分からない楽器」であるということだ。
(なぜ……なぜあんな音が鳴るの? どういう指の圧力で、どういう弓の角度で、あの深みが生み出されているというのかしら……!?)
完璧な美を誇る『暁の聖母』も、神の申し子たる己の才能も、そのすべてを踏みにじり、嘲笑うかのような圧倒的な生命の輝き。
それは、ジュリエットが逆立ちしても届かない、地獄の底を生き抜いてきた者だけが持つ『執念の旋律』だったのかもしれない。
「――ふぅ」
一曲を激しく弾ききり、コレットは荒い息を吐きながらヴァイオリンを下ろした。
怒りに任せて令嬢のマナーを忘れた演奏をしてしまい、我に返って急に冷や汗が流れてくる。
やってしまった。
天才相手になにをムキになっているのだ、私は。
これではジュリエットに、やっぱり野蛮で汚い音だ、と呆れられてしまう。
戦々恐々としながらジュリエットを見るコレット。
しかし、目の前の大天才は――両目から大粒の涙をポロポロと流し、顔を極限まで上気させてガタガタと震えていた。
「あ、あ、ああ……! 素晴らしいわ、コレットさん……ッ!!」
「え?」
「やっぱり貴女は最高よ! その泥臭く猛々しい音、もっと、もっとわたくしに聴かせてちょうだい!!」
「ひっ……!?」
もの凄い勢いで距離を詰めてくるジュリエットに、コレットは悲鳴をあげて後ずさる。
「ちょっとジュリエットさん、待って、近い、来ないで――!」
「それ以上はダメですよ、ジュリエットさん。お姉様から離れてくださいな」
そこへ、リュミエールが悠然とドアを開け放ち割り込んできた。
コレットは神と妹に感謝した。もしかしたら妹は天使なのかもしれない。
やはり、私の妹は頼りになるのだ。怪物を退治するのは凡人には無理なのだ。有能な味方に託すに限る。
じゃあそういうことで、と逃げ出そうとしたコレットの手を、リュミエールの温かな手がつかみ取った。
「え?」
「お姉様の素敵な演奏、ドア越しではしっかり聴けませんでした。もう一度、お願いします」
笑顔のリュミエールが、そう言った。
ジュリエットがその言葉を聞いて表情を輝かせる。
「まあ! リュミエールさん、貴女は本当に素晴らしい方だわ。わたくしも先ほどの演奏中考え事をして勿体ないことを致しましたわ。今度はコレットさんの演奏を余さず味わいますから、もう一度演奏をお願いします」
白亜の音楽室は、一瞬にしてコレットにとっての生き地獄へと早変わりする。
一瞬でも期待した私が馬鹿だった!
やっぱり義妹は嫌いだ!!
結局コレットは二人の要求に応え、そんな内心の怒りを演奏にぶつけるのだった。
アンコール! アンコール! アンコール! アンコール!
コレット(ヤケクソ演奏)
ジュリエット&リュミエール「コレットちゃん(お姉様)の音は世界イチぃぃぃぃぃぃ!」




