はりぼて伯爵家の狂騒(一)
ヴァロア伯爵家の家格は伯爵家の中では決して高い方ではなかった。
政治、芸術、武芸。そのどれにも高名な人物を輩出したことはなく、そんな大人物を輩出して権力を握ろうとするような野心もなく、現伯爵が爵位を継ぎその妻クレールを交流のある子爵家から迎えた際には、結婚式を開くために借金までするような状態だったのだ。
とはいえ、ヴァロア伯爵は堅実な人物であり、クレール夫人も過度の贅沢を好まなかった。領民から税を重く取り立てるような真似もしなかったため、ヴァロア家は地味ながらも平穏そのものだった。
その平穏に、劇的な変化が訪れる。
第一子であるジュリエットが成長し、何か習い事を、とヴァイオリンを与えてみたことがきっかけだった。
「お嬢様は間違いなく、歴史に名を残す天才です」
教師が教え始めてわずか一週間後には、そんな報告が伯爵の元に届けられた。
もっとも、そのときの伯爵は、娘の素晴らしい才能にただ頬を緩めていた。妻と顔を見合わせながら、「娘の将来は音楽家かもしれないな」と、のんびりとした未来地図を想像していただけだったのだ。
ところが、ヴァイオリンを初めて持って一年も経つ頃には、事態はそんな悠長なものではなくなっていた。
ジュリエットの持つ才能は単なる天才の枠に留まらず、この国始まって以来の大天才、「音楽の神に愛された申し子」などと呼称されるようになったからだ。
こうなってくると、凡たる伯爵の手には負えなくなる。
ヴァロア家には毎週のように演奏会への招待状が舞い込み、果ては顔も見たこともないような大貴族から「ジュリエットを養子に欲しい」といった恐ろしい相談までくるようになった。
愛娘を手放す気など、毛頭ない。
しかしヴァロア伯爵は、堅実なことだけが取り柄の自分の器では、この巨大すぎる才能を持った娘を健全に守りきれない、と正しく恐怖した。
妻とも必死に相談した結果、伯爵はある人物を頼ることにした。
音楽において国一番の存在感と権威を持ち、当代の当主もまた音楽の天才と呼ばれる、あのグランヴェル伯爵である。
グランヴェル伯爵はすでにジュリエットの噂を知っていた。ヴァロア家の現状にいかにもありそうなことだ、と深く頷くと、一つの助言をくれた。
今後、判断に迷ったり困ったりしたときは、こう相手に伝えるように、と。
『娘の音楽のことに関しましては、すべてグランヴェル伯爵閣下にお任せしております。そちらにご連絡ください』
この言葉の効果は絶大だった。
しばらくそのような対応を取ったところ、ジュリエットに関する面倒な連絡や圧力は全てグランヴェル伯爵の元へと流れるようになり、ヴァロア家には奇跡的な平穏が戻ってきた。
おかげでジュリエットが過剰な予定に潰されることもなく、練習の時間も、家族との時間もしっかりと確保できるようになったのだ。
同じ伯爵家と言えど、その権威は雲泥の差だ。
本来であれば、グランヴェル伯爵こそがヴァロア家やジュリエットを好きなように貪れるだけの権力を持っていた。
にもかかわらず、あの冷徹と噂される男は、一切の代価を求めなかった。
それどころか、ジュリエットの演奏によって生まれた莫大な利益を、全てヴァロア家に回してきたのである。
当然、ヴァロア伯爵は恐縮して固辞しようとした。だが、「いずれジュリエットのために必要になるかもしれない」と言われては断り切れず、震えながら受け取るしかなかった。
おかげで伯爵家の財政は一気に持ち直し、見たことも考えたこともないような蓄えができた。
娘の部屋をヴァイオリンの演奏に適するように大改装し、立派な音楽室を建て増ししたりと、必死に資金を投じてはみたものの、勝手に増えていく金額の方が多い。
「これではまるで、娘の七光りとグランヴェル伯爵の威を借る『はりぼて伯爵』だなあ……」
夜、豪華になった寝室で妻にそうポツリとぼやくヴァロア伯爵。
対する妻は、クスクスと鷹揚に笑った。
「それでも良いではありませんか、あなた。私たちがはりぼてでも、あの子の音楽と、私たちの平穏が本物なら、それで十分ですよ」
そうして健やかに成長したジュリエットは、やがてグランヴェルの街にある高名な音楽学院に入学することになった。
学院側からは、「ジュリエット様に我が校で教えられるものがあるとは思えませんが、その素晴らしい才能を、音楽を志す他の学院生たちに見せてやってほしい」と熱心に請われての入学だった。
何より、あのグランヴェル伯爵のお膝元であれば、ヴァロア伯爵夫妻としてもこれ以上ないほど安心だ。
それに、幼いころから音楽一筋で他人に興味を示さなかった娘が、珍しく同年代の子供のことを知りたがったのだ。
グランヴェル伯爵家に引き取られた、ある孤児。
その情報を元にグランヴェル伯爵に尋ねたところ、名はコレットということ、いずれ伯爵家に養女として迎える予定であること、そして同じ音楽学院に入学予定であることなどが分かった。
ジュリエットが学院への入学を打診された際、最初は『ええ』『そうね』としか返さなかったのに、『グランヴェル伯爵家のコレットという子も入学するらしい』と伝えた瞬間に、ガタッと椅子を鳴らして『行きます』と即答したのを、伯爵は微笑ましく思い出していた。
(『行きます』と食いつくように即答したのは、もしかしたらそのコレットという子が関係しているのかもしれないな)
そんな風にヴァロア伯爵は察した。
そしてここが、今まで貯まりに貯まった娘の蓄えを、娘のために盛大に遣うべきときだ!
そう伯爵は意気込んだ。
だが、学院から提示された条件は、学費免除、滞在費も免除、その上、同行する使用人の費用まで全額学院持ちという、至れり尽くせりにも程がある内容だった。
伯爵は、自分のはりぼてがもう一段階巨大になってしまったような、なんとも言えない奇妙なため息をつくしかなかったのだった。
ジュリエットが音楽学院に入学して、一年。「学ぶものはない」とまで言われていた学院だったが、やはり何かしらの刺激はあったのだろう。世間では「ジュリエット様の演奏がより一層素晴らしくなった」と噂されることが増えていた。
もっとも、ヴァロア伯爵も妻のクレールも、音楽に関しては完全な素人である。
娘の演奏が凄まじいことくらいは素人目にも分かるのだが、「以前よりさらに素晴らしくなった」と言われると、(そう言われれば、ちょっと変わった……かなあ?) と思う程度であった。
ただ、何にせよ娘の学院生活が実りあるものになっているのなら、親としてこれほど嬉しいことはない。
夫婦でそんな風に娘の成長を喜んでいた、ある日のことだった。
「伯爵閣下! 大変でございます!」
ヴァロア家の忠実な執事、フランツが血相を変えて部屋に駆け込んできた。
普段は極めて有能で冷静沈着な彼が、声を荒らげて走るなど滅多にないことである。
「どうしたフランツ。何をそんなに慌てている」
「それが、今しがた早馬が到着いたしまして! ジュリエットお嬢様が、グランヴェル伯爵令嬢お二人を連れて、この屋敷にお戻りになられるそうです!」
「ほう……」
伯爵はふむ、と顎を撫でた。
「お嬢様方はこちらにご宿泊、ご滞在されるご予定で、期間は一週間から二週間程度とのことです」
「なるほど。グランヴェル伯爵家のご令嬢をお迎えするとなれば、我が家の威信にかけて失礼のないよう、しっかりとした準備をせねばな。それで、到着は何日後だ?」
ジュリエットのお陰で、ヴァロア伯爵邸は随分と立派なものになっていた。以前ならいざ知らず、現在であればグランヴェル伯爵令嬢たちを迎えるに当たって不足はないだろう。
どっしりと構えて尋ねる伯爵に対し、有能な執事は、なんとも痛ましいものを見るかのような、悲しげな表情を浮かべた。
続く言葉によって、伯爵はなぜフランツがここまで慌てて駆けてきたのか、その本当の恐怖を知ることになる。
「……早馬が放たれた時間を逆算いたしますと、おそらく、本日の夕刻にはご到着になるのではないかと……」
「なにいっ!?」
勢いよく立ち上がった伯爵は、その弾みで机にガツンと膝を強打した。
「ぐ、うぅっ……!?」
そのまま床にうずくまり、涙目で膝を強く押さえる伯爵。
(娘よ! そういう大事は、もっと早く言ってくれ……!!)
心の中で血を吐くような叫びをあげる伯爵だったが、口から出たのは、ただの情けない苦悶のうめき声だけだった。
◇
「初めまして、ヴァロア伯爵閣下。リュミエール・ド・グランヴェルにございます」
「コレット・ド・グランヴェルにございます」
見事なカーテシーを披露する二人のご令嬢。
大慌てで突貫工事のように整えた応接室で、どうにか彼女たちを迎えることに成功したヴァロア伯爵夫妻は、内心で思いきり胸をなでおろしていた。
「お父様! わたくし、コレットさんと一緒に演奏会をやりたい、と思いましたの! そこで、演奏を合わせるのならば我が家の音楽室が一番落ち着くと考えまして、コレットさんとリュミエールさんにお願いして来ていただきましたの!」
そんな夫妻の安堵を、娘の簡潔かつ乱暴な説明が木っ端微塵に打ち砕く。
ヴァロア伯爵は思わず目を白黒させた。
ジュリエットという天才の恩恵によって財政はかなり持ち直したとはいえ、ヴァロア伯爵家は決して権力を持った大貴族などではないのだ。
それなのに、国の最高権威であるグランヴェル伯爵家のご令嬢に対して、あまりにも気安すぎる我が娘の態度。
(もし、あのお二人が不快感を覚えたら我が家はどうなるのだ……!?)
小心な伯爵は、生きた心地がしなかった。
しかし、そんな伯爵の内心を察したのだろうか。
こちらが何も言葉に出していないというのに、妹のリュミエールが完璧な笑みを浮かべて口を開いた。
「ヴァロア伯爵閣下、どうぞお気になさらないでくださいませ。ジュリエットさまにそのように気やすく接していただけて、むしろ距離が縮まったようで嬉しく思いますわ。……ジュリエットさま、もしよろしければ、私たちも『ジュリエットさん』とお呼びしてもよろしいですか?」
その言葉にジュリエットは待ってましたとばかりに目を輝かせ、逆にコレットは、驚いたように勢いよく隣のリュミエールを振り向いた。その顔は、まるで得体の知れないものを目の前にしたかのように微かに引きつっている。
「まあ!? リュミエールさん、もちろんです! わたくし、とっても嬉しいですわ! コレットさんも、そのように呼んでくださるのですね?」
「…………はい、そうですね」
娘のあまりの勢いに、伯爵は心の中でたじろぐ。 ジュリエットはどちらかと言えば感情の起伏が乏しく、大人しい少女ではなかったか。
(学院に行き、同年代の子たちと交流すると、子供というのはここまで大きく変わるんだなあ……)
伯爵はそんな風に、どこか呑気に考えていた。
「ところで、伯爵閣下。本日は父より、ヴァロア伯爵家に贈り物を預かってきております。どうぞお受け取りくださいませ」
「グランヴェル伯爵令嬢……そのように改まって、一体何事でございましょうか?」
リュミエールは「ええ」と優雅に頷くと、傍らに控えていた従者から大きな楽器のケースを受け取り、机の上に置いた。
その大きさからすると、ヴァイオリンのようだ。
リュミエールに視線で促され、ヴァロア伯爵が緊張で震える手でケースの留め金を外す。
開いたケースの中から姿を現したのは――朝焼けの美しい空の色をその身に宿した、細身のヴァイオリンであった。
「……これは?」
「我が家で保持しておりました『暁の聖母』でございます」
――瞬間。
息が止まるほどの衝撃が、ヴァロア伯爵を襲った。
思わず隣の妻の顔を見るが、クレール夫人も自分と全く同じように、目を丸くして呼吸を忘れている。
音楽に関しては全くの素人である自分たちですら、その名を知っている伝説のヴァイオリン。
数年前に没したグランヴェルの街の『神の手』と謳われた名工の、文字通りの最高傑作。
この名工のヴァイオリンともなれば、求める者は世界中に溢れかえっている。
通常の一挺ですら、このヴァロア伯爵邸を丸ごと買い取れるほどの値段が付くという。
ましてや、その最高傑作である。もはや値段の想像すらつかない。国宝級のヴァイオリンだ。
混乱で破裂しそうな頭を必死に押さえつけ、伯爵は何とか掠れた声を絞り出した。
「い、いくらなんでも、このような国家の至宝とも呼ぶべき品を頂戴する訳にはまいりません! これほどのものは、グランヴェル伯爵家にこそ相応しいのではございませんか!?」
しかし、リュミエールは聖母のような微笑みを崩さない。
「伯爵閣下。この『暁の聖母』は、楽器にございます。飾って、眺めて、それで満足してよいというものではございません。相応しい者が持ち、弓を引かれて初めて、本当の価値が宿るものでございます」
リュミエールは、その涼やかな瞳で真っ直ぐにジュリエットを見つめた。
「今この世界に、ジュリエットさん以上に、このヴァイオリンを持つに相応しい方はいらっしゃいませんわ。父も、そう望んでおります。輝かしい未来への祝いに、と私に託したのです。どうぞ、お納めくださいませ」
リュミエールの堂々たる言葉を聞いても、受け取る決心など簡単につくはずがない。さりとて、大貴族の好意をこれ以上拒絶する言葉も出てこない。
応接室に重苦しい沈黙が流れかけた、そのときだった。
「リュミエールさん、弾いてみてもよろしいかしら?」
我慢しきれないといった様子で、ジュリエットが口を開いた。
「ええ、もちろん。ぜひ『暁の聖母』の声を、私たちに聴かせてくださいませ」
愕然とする両親を完全に置き去りにして、ジュリエットは無造作に、しかし吸い寄せられるようにヴァイオリンを持ち上げた。
――それだけで、ジュリエットには『正解』がわかる。
どうすればこの楽器が最も美しく鳴るのか。どのような圧力で弦を押さえ、どのような角度で弓を引けば、この楽器の持つ至上の音を引き出すことができるのかが、触れただけで脳内に流れ込んでくる。
同時に、ジュリエットは理解した。
この『暁の聖母』は、とびきり我が儘で、恐ろしく繊細な、気難しい楽器だ。
ほんの僅かなタッチのズレも許さない。寸分違わぬ完璧な弓の角度が合わさって初めて、天上の音が流れ出る。
まさに、型に囚われた完璧な美を求める、至高の楽器。
ジュリエットはヴァイオリンを構え、弓を当てた。
放たれたのは、喜びの旋律だった。
かつての世界の美しさをただ出力するだけのオルゴールは、そこにはいなかった。コレットへの親愛と、期待に胸を躍らせる本物の歓喜。少女の瑞々しい感情をたっぷりと吸い込んだ『暁の聖母』は、天上の音を紡ぎ出す。
圧倒的な美しさを伴った歓喜の歌が、ヴァロア家が誇る立派に大改装したはずの応接室を、あまりの音圧でちっぽけな箱へと変えて完全に支配する。
その神聖な音色の前では、最後の一音が美しい余韻を残して消え去るまで、誰も吐息一つ漏らすことすら出来なかった。
「素晴らしいですわ、ジュリエットさん。楽器が、あなたに弾かれて喜んでいるのが分かります」
ジュリエットへと惜しみない賛辞を送りながら――しかしリュミエールは、その真っ直ぐな視線をヴァロア伯爵の目へと突き刺した。
ヴァロア伯爵は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……ありがたく、頂戴いたします。グランヴェル伯爵閣下には、くれぐれもよろしくお伝えくださいますよう、お願い申し上げます」
もはや、その言葉以外の選択肢など、この部屋のどこにも存在していなかった。
ジュリエット(コレットちゃん見て見て! 貴女を想って弾いたわ!)
コレット(あんな怪物の隣で演奏会しろとか、公開処刑としか思えない……!)




