はりぼて伯爵の耳
————耳を、引き裂くような雑音だった。薄氷を爪で引っ掻くような不愉快な歪み。
満員の観客がうっとりと目を閉じ、極上の調和に酔いしれる大劇場の特等席で、グランヴェル伯爵はただ一人、奥歯を噛み締めてその痛みに耐えていた。
総勢五十名からなるオーケストラ。今まさに、全員の合奏による美しい旋律が天井を揺らしている。
だが、伯爵の耳には、その完璧な調和の上に落とされた、どす黒い一滴のインクのように、その歪みが強烈に響いていた。
美しいものよりも、美しいものの中に混ざった醜さを拾い上げてしまう自分の耳。
(クラリネット————五人のうち、左から二番目。彼だ)
ほんの僅かに、一音に満たないミリ単位の遅れ。リードを震わせる呼吸が、ほんの一瞬だけ、肉体の痛みに引きずられて歪んでいる。
おそらく、本人すらまだ自覚していないほどの、人差し指の小さな切り傷。それが治りかける際の微小な引きつりが、至高であるはずの音楽を、耐えがたいガラクタへと変えていた。
「……伯爵閣下、本日はお運びいただき、ありがとうございます。演奏はいかがでしたでしょうか?」
終演後、挨拶を述べてくる指揮者に、伯爵は酷く冷めた、乾いた笑みを返すしかなかった。
その自信ありげな表情が癇に障る。
この男では、あの傷に気づくことはできぬ。
実際のところ、オーケストラ自体の出来は悪くなかった。指揮者が胸を張るのも、決して自信過剰とは言えない。
————メンバー全員の身体が、万全であったのならば、だが。
「ああ、見事だったよ。……だが、左から二番目のクラリネット奏者には、明日は休養を与えるといい。指の傷が音を曇らせている」
ぎょっとして息を呑む指揮者を置き去りにし、伯爵は馬車へと乗り込む。
神が与えたこの耳は、世界中のあらゆる美しい音楽から、ほんの僅かな「傷」だけを容赦なく拾い上げてしまう。
人はこれを、グランヴェル家の絶対的な権威と称えた。
だが伯爵にしてみれば、これは神が仕掛けた、酷く悪趣味な呪いとしか思えなかった。
深夜の書斎は、凍りついたような静寂に満ちていた。
デスクの隅で頼りなく揺れるランプの明かりが、壁に掛けられた一枚の肖像画を照らしている。若くして病でこの世を去った、最愛の妻の姿だ。
伯爵は背もたれに深く身体を沈め、自身の眉間を強く揉みほぐした。まだ耳の奥に、昼間、愛する娘が弾いていたヴァイオリンの音がこびりついて離れない。
リュミエール。
妻が遺してくれた、我が家の太陽。
あの子はいつも、父親に褒めてもらいたくて、小さな指を一生懸命に動かして楽器を奏でる。平均的な貴族の令嬢と比べれば、十分に上手いと言える領域だ。何より、父親を喜ばせようという健気な純粋さに満ちている。
本当なら、抱きしめてやりたかった。
『よく頑張ったな、リュミエール。お前は素晴らしい。もっと頑張れば、きっともっと上手くなるぞ』
そんな当たり前の、父親らしい温かい言葉で、あの子の努力を全肯定して応援してやりたかった。
だが————神が与えたこの呪われた耳が、それを許さない。
娘が弓を引くたびに、非情なまでの「限界の壁」を正確に聴き取ってしまうのだ。
(ここまでだ。この子の才能は、この演奏が頂点だ)
これ以上、どんなに血の滲むような努力を重ねようとも、あの子がそれ以上の領域へ達することは絶対にない。神から与えられた器の底が、あまりにも残酷に、はっきりと聞こえてしまう。
あの子にそれ以上を求めることは、届かぬ天を仰がせて、その心を壊すことと同義だった。
だからこそ、それ以上を求めることを止めた。あの子が父親に愛されていないと、傷つくことになるとしても。
これが呪いでなくて何だというのだ。
合奏に紛れた傷がわかる。楽器を奏でる人間の才能が理解できる。本物の天才と努力の限界を把握できる。
ただそれだけ。
指をくわえて神の採点を聞くだけの、無力な審査員。
悪い部分はすべて指摘できても、自分の指先から至高の一音を創造することはできず、懸命に努力している者を祝福された高みへ導くことも、出来はしない。
天才と称えられながら、その実、神の声を右から左へオウム返しに伝えるだけの、空っぽなはりぼて。
どうして神は、自分に聴き分ける才能だけを与えたのだ!
このような半端な、はりぼてとしか思えない才能など、無い方がはるかにマシだった。
わからなければ、希望だって持てたに違いないのに。
グランヴェル伯爵家が代々治めてきた音楽の街において、天才になれぬ者が音楽の深淵へ挑むことが、どれほどの地獄か。
そこそこで満足できればまだ救いはある。どれほどの天才であっても、一本のヴァイオリンでオーケストラのすべてを奏でることはできない。それぞれに相応しい、収まるべき椅子があるはずなのだ。
しかし、才無き者が天才に挑めば、その先に待っているのはどれだけ命を削っても届かない本物への絶望と、冷酷な貴族社会からの容赦ない品評だけだ。
だから、伯爵は愛娘の演奏を遮る。
『もういい、リュミエール。そこまでで合格だ』
突き放すためではない。これ以上進めば傷つくと分かっている泥沼から、我が子を守るために、先へ進むための階段を自らの手で叩き壊すしかないと考えたのだ。
————お父様は、私に期待してくださらないのね。
口には出さずとも、リュミエールの悲しげな瞳がそう語っていた。
そんな瞳を見るたび、伯爵の心は血を流す。
期待していないのではない。愛しているからこそ、温室の中に閉じ込めておきたいのだ。
本物の音楽を見抜くだけの、空っぽのはりぼて。
そんな自分に、音楽に関わる資格が本当にあるのか。
あったとして、たったひとりの娘を傷つけてまでも、守るべき権威とは何なのだ。
伯爵は物言わぬ肖像画に問うた。
————返事はなかった。
音楽の世界には、たびたび「天才」と呼ばれる技量を持つ人物が現れる。
ゼロから名曲を生み出す作曲の天才。神の技を宿した演奏の天才。音の狂いを完璧に正す調律の天才。至高の響きを物理として形にする楽器作りの天才。
そして————それらすべての本物と偽物を見分けることができる、鑑識の天才。
グランヴェル伯爵がこれまで見てきた、あるいは聴いてきた数多の天才の中で、もっとも特異で、もっとも理解に苦しむ人物こそが、ジュリエット・ド・ヴァロアだった。
愛娘のリュミエールとわずか一歳しか違わない少女の身でありながら、その演奏は、あまりにも圧倒的だった。
彼女がひとたびヴァイオリンの弓を引けば、そこには命の脈動が溢れ出す。瑞々しい大輪の花が咲き誇るかのようなその響きに、聴衆は誰もが言葉を失い、音楽の神に愛された至高の美をそこに見た。
だが、伯爵の耳だけは、その眩い光の裏にある「異常」をはっきりと聴き取っていた。
(空っぽだ)
そう、ジュリエットの音楽には、決定的な何かが欠落していた。
どれほど瑞々しく生命力に満ちた音を響かせようとも、彼女の音の根底にあるのは「完璧な模倣」に過ぎない。それはある意味で、世界で最も贅沢なはりぼてだった。
悲しみの曲を弾けば世界で一番美しい涙の音がするが、そこにジュリエット自身の悲哀はひとかけらも存在しない。
喜びの曲を弾けば世界で一番華やかな笑顔が浮かぶが、彼女の心は凪いだ水面のように冷めきっている。
感情を込めて弾いているのではない。感情の『形』を、誰よりも精密に、誰よりも肥大化させて出力しているだけなのだ。
それは、寸分の狂いもなく楽譜の感情をなぞるだけの、美しくも恐ろしいオルゴールの響きだった。
人々が「大輪の花」と称えるその音楽は、彼女という空虚な器を通り抜けて響く、根無しの幻に過ぎない。
グランヴェル伯爵には、ジュリエットの器と才能がよく理解できた。間違いなく、ヴァイオリン奏者として不世出の天才であった。
だが同時に、その才を十全に発揮できていないこともわかった。わかってしまった。
ジュリエットの演奏には、まだ上があるはずなのだ。
音楽の技術、あるいは肉体的なアプローチの問題ではない。彼女の魂そのものが、自ら生み出す音楽に対してどこまでも空虚なのだ。
そこまではわかる。だが、その先————では、どうやってこの空っぽな天才を満たせばいいのか。その手段だけは、伯爵にはどうしても思いつかなかった。
これほど輝かしい才能を目の前にしながら、その歪みを正してやれない無力感に、伯爵の耳は再び静かに苛まれることになる。
————あの、路地裏の泥の底で、その「歌」を聴くまでは。
その歌声を聴いたのは、冷たい雨の降る、薄暗い路地裏の馬車の中だった。
華やかな音楽の街グランヴェルにおいてすら、貧民街は存在する。ここならば仕事があるかもしれない、人生をやり直せるかもしれない。そんな淡い希望を抱いて他領から人々が流れ込んでくるのだ。
グランヴェル伯爵が領主としてどれほど懸命に対策を立てようとも、その網から零れ落ちる民の存在を完全に無くすことはできなかった。
泥をこねくり回したようなその貧民街の片隅。あらゆる人間が絶望の泥水をすする場所で、ボロ切れをまとった幼い孤児が、飢えを凌ぐためか、行き交う人々に小銭を乞うように喉を震わせていた。
刹那————馬車の窓から流れ込んできたその旋律に、伯爵の耳が強烈に跳ね上がった。
ガラクタだらけの雑音の中で、その少女の声だけが、恐ろしいほどの純度を保って響いていた。
親も無く、衣食すらままならず、ろくな音楽教育などかすりもしていないはずの身。
それなのに、彼女が紡ぎ出す旋律の音程は、寸分の狂いもなく「完璧」だった。
楽譜のドの音はどこまでもドの音であり、レの音は正確にレの音として空間を支配している。
(この娘には、音楽の才能がある。————それも、底知れないほどの器だ)
伯爵の神の耳が、非情なまでの確信をもって告げていた。
だが、その驚愕の直後、彼の胸に泥のようなどす黒い葛藤が湧き上がった。
この娘を拾い上げて、自分は一体どうしようというのだ。
音楽の才能がある、だからその才を育てたい。
芸術を愛する者として、この眩いばかりの本物が、日の当たらない泥の底で枯れてゆくのをただ見ていることなど、彼の耳が、彼の誇りが許さなかった。
だが————その行動は、父親として本当に正しいのか?
もし、この圧倒的な『本物』の才能を持つ少女を連れて帰れば、我が家の太陽であるリュミエールはどう思うだろう。
あの子はただでさえ、父親の顔色を窺い、褒められたくて必死にヴァイオリンを弾いているのだ。
そこへ、教育すら受けていないのに自分を遥かに凌駕する才能の怪物が現れたら。
あの子はきっと「自分に音楽の才能がないから、お父様は別の娘を拾ってきたのだ」と、その小さな心を修復不可能なほどに傷つけてしまうのではないか。
愛娘を守るために、この才能を見捨てるべきか。
それとも、音楽の街の守護者として、この才能を救い上げるべきか。
胸を切り裂くような二者択一の果てに、伯爵は御者に馬車を止めさせた。
見捨てることはできなかった。この完璧な音をドブに捨てることだけは、どうしてもできなかったのだ。
馬車の扉を開け、泥まみれの少女を見下ろす伯爵の表情は、己の選択への迷いと恐怖のゆえに、酷く険しく、冷徹なものになっていた。
あえて厳しい線引きをし、ふるい落とすような態度をとることでしか、その子を拾う自分を正当化できなかった。
「……お前をグランヴェル家で引き取ってやる。だが、勘違いするな」
伯爵は、凍りつくような冷たい声を孤児に浴びせる。
「お前に楽器を与え、音楽学院へ通わせるだけの猶予をやる。だが、もしそこで期待に応えられず、少しでもガラクタの音を響かせてみろ。その時は即座にこの家から叩き出す。それが嫌なら、価値を示せ」
それは、コレットに向けられた脅しであると同時に、自分自身への言い訳でもあった。
(もし、この娘に楽器の才能がなければ、その時は即座に捨てればいい。いや————その時は、この完璧な音程を活かして、リュミエールのヴァイオリンを邪魔しない声楽の道で大成させればいい。そうすれば、リュミエールを直接傷つけることだけは避けられるはずだ)
そんな姑息な計算を脳裏で巡らせながら、伯爵はコレットの小さな手を掴んだ。
この選択が、数年後、あの空っぽの天才ジュリエットの魂に火をつけ、彼女を真の至高へと導く運命の引き金になるとは、この時の伯爵は知るよしもなかった。
ただ、自らの『耳』が導いた歪な縁に、静かに身を委ねるしかなかったのだ。
泥の底から拾い上げてしまった孤児を連れ帰った翌日。
グランヴェル伯爵は、応接室のソファの上で、柄にもなく生きた心地のしない時間を過ごしていた。
対面に座るのは、我が家の太陽である愛娘のリュミエール。
コレットと名乗った路地裏の少女を、将来的に養女として迎え入れる、その前提での引き取りを伝えた瞬間。
伯爵の神の耳は、自身の心臓がみっともなく跳ね上がる音を克明に捉えていた。
嫌われるのではないか。お父様は私を差し置いて、どこの馬の骨とも知れぬ娘を贔屓するのかと、泣き叫ばれるのではないか。
そんな、品評会でも味わったことのない恐怖に身を震わせる父親に対し、リュミエールは拍子抜けするほど、まっすぐな瞳で微笑んだ。
「お父様。音楽の街の領主として、優れた才能を保護されるのは当然の義務でございますわ。……それに、私、お姉様ができるのですね! とても嬉しいです」
一点の曇りもない、聖母のような全肯定。
リュミエールは純粋だった。父親の「神の耳」が選んだ才能なら、それは絶対の本物なのだと信じて疑っていなかった。
娘の健気な言葉に救われながらも、伯爵の心にはちくりとした罪悪感が突き刺さる。
(違うのだ、リュミエール。私は、お前という光を、あの怪物の影から守るために、あえて厳しい枷をあの子に嵌めたのだ……)
そんな不器用な言い訳は、喉の奥に飲み込むしかなかった。
やがて、屋敷の古びた練習室で、コレットの「最初の演奏」が行われた。
————それは、音楽教育を受けた者が聴けば、誰もが耳を覆うような惨状だった。
弓の持ち方は狂っており、弦を押さえる力加減も無茶苦茶。楽器への配慮など微塵もない、剥き出しの執念だけが暴れるような荒削りな響き。
だが、その雑音の奔流を聴いた瞬間、伯爵は総毛立つような戦慄を覚えた。
(やはり、私の耳は間違っていなかった)
技術は皆無。だが、その音の芯にある音程の純度は完璧であり、何より、聴く者の魂の髄を引きずり出すような本物しか持ち得ない引力がそこには宿っていた。
ジュリエットの音が『世界を映す空っぽなオルゴール』なら、コレットの音は『命を削って響かせる血の叫び』だ。
しかし、その歓喜と同時に、伯爵の耳は冷酷な事実を聴き取ってしまう。
(……ダメだ。この屋敷にあるどの楽器も、この娘の音を受け止め切れていない)
現在、グランヴェル家が所有するいかなるヴァイオリンも、コレットが弓を引くたびに、その熱量に負けて悲鳴をあげ、音が割れてしまっていた。
数年前に没した伝説の名工の最高傑作、通称『暁の聖母』。
それを取り出してあてがってみたところで、結果は同じだろうと耳が告げていた。
天上の美を体現する『暁の聖母』の繊細な響きは、コレットの飢えた獣のような演奏とは決して調和しない。
互いの良さを殺し合い、最悪の場合、楽器の方が内側から粉々に砕け散ってしまう。
この娘に必要なのは、既存の優雅な芸術品ではない。
彼女の凄絶な熱量を受け止め、ともに戦場で血を流せるような、まったく別種の武器なのだ。
そんな馬鹿げた奇跡のような楽器が、この世に存在するはずもない。
だが、伯爵は諦めきれず、半ば以上の諦めを抱きながらも、古くから付き合いのある老獪な楽器商オディロンを呼び出した。
コレットを拾ったこと、コレットに言い渡した課題、コレットの演奏の凄絶さ。
それらをオディロンに余すことなく教え、必要としているヴァイオリンのイメージを伝える。
「オディロン。……今までにない、常識外れのヴァイオリンを探してこい。どれほど荒々しく、どれほど強すぎる圧力をかけようとも、決して壊れず、その熱量をすべて悲鳴のような美しさに変えて響かせる……そんな、頑強で歪な楽器をだ」
眉をひそめたオディロンに、グランヴェル伯爵は一瞬の諦観を覚える。
やはり、そんなヴァイオリンなど存在するはずがない。
しかし、オディロンは心当たりがある、と言うのだ。
「ただ、すでに存在するものではございません。伯爵閣下のご要望にお応えしうる可能性を持つ職人を知っております。いちから作らせますので、少々お時間を頂戴することになりますがよろしいでしょうか?」
老獪な楽器商の脳裏に、かつて『神の手』と謳われた亡き名工の姿か、あるいはその背を追う数多の楽器職人の顔でも浮かんだのだろうか。
そうしてオディロンはやり手の商人らしく、しっかり値段の交渉を済ませて去っていった。
約束の一ヶ月後。オディロンが大事そうに抱えて持参した楽器を見た瞬間、グランヴェル伯爵は言葉を失った。
およそ大貴族のコレクションには相応しくない、異様なまでの存在感を放つヴァイオリンだった。
全体的に肉厚で、アーチは力強く盛り上がり、ニスはどこか野性味を帯びた、燃えるような深い琥珀色をしている。
それは繊細な芸術品というよりも、泥の底から這い上がろうとする飢えた獣の牙そのものだった。
伯爵がその楽器を手に取り、軽く弦を弾く。
刹那、彼の「神の耳」に飛び込んできたのは、かつて聴いたこともない強靭で、獰猛な、魂の叫びだった。
(……これだ。これしかない)
驚嘆する伯爵の顔を見て、オディロンはここぞとばかりに、老獪な商人の笑みを深めた。
「いかがでしょうか、伯爵閣下。急な発注ゆえ、職人にも無理をさせました。それゆえ……当初お約束した金額の、三倍の価値は十分にあると自負しておりますが?」
吹っかけてきたな、と伯爵は冷めた目を向けた。通常の貴族であれば、足元を見られたと不快感をあらわにする場面だろう。
だが、伯爵の神の耳は、この琥珀色の楽器からそれ以上の真実を聴き取っていた。
これはただの頑丈な楽器ではない。あの日、冷たい雨の路地裏で聴いた、コレットのあの「完璧で、泥臭い、命懸けの音程」を受け止め、ともに戦場で血を流せる、世界で唯一の武器なのだ。
「オディロン。……お前はやはり、ただの強欲な商人だな」
伯爵は低く笑い、ヴァイオリンを愛おしげにケースへと収めた。
「この楽器に、そんな、三倍などという値段がつくわけがないだろう」
「……は?」
呆気にとられるオディロンを置き去りにし、伯爵は机の引き出しから紙とペンを取り出しつつ続ける。
「安すぎる。これほどの名器を安売りするなど、楽器商失格だぞ。当初の金額の、十倍だ。グランヴェル伯爵の名において、この本物の武器にそれだけの価値を支払おう。職人には、自身の魂を削り出した対価としてそのまま渡すがいい」
自分の耳が認めた本物の価値に、金に糸目をかけるつもりなど毛頭なかった。
これならば、コレットに課した「価値を示せ、さもなくば叩き出す」という地獄の試練を、彼女は耐え抜くことができる。
声楽の道へ逃がす必要すらなく、ヴァイオリンで大成させて、我が家に、リュミエールの姉として引き留めておける。
そんな安堵と確信を胸に、伯爵は莫大な金額の小切手にサインを走らせたのだった。
この出来事は、オディロンを通じて音楽の街グランヴェル全体に瞬く間に広まった。
人々はグランヴェル伯爵の音楽に対する鑑識眼の高さと、その熱意に応えた職人の素晴らしさを大いに称えたのだという。
それから一年が流れた。
グランヴェル伯爵の期待に反し、コレットのヴァイオリンの上達は、歪な方向へと向かっていた。
彼女の技術は確かに上がっていた。だが、その響きはあの日路地裏で聴いた凄絶な「血の叫び」ではなく、傷つくことを恐れるあまりに寸分の狂いもなく楽譜をなぞるだけの、上品で、冷たい、機械のような演奏へと変貌してしまっていたのだ。
あれほどの武器を与えながら、仕上がりはただの「綺麗な造花」か。
伯爵の神の耳は、彼女の音楽に漂う強烈な停滞を聴き取り、本気で一度、彼女を家から放り出して様子を見る荒療治を実行しようかとすら考えていた。
だが、そんな伯爵の冷徹な決断を阻んだのは、実の娘であるリュミエールだった。
「お姉様! 今日の演奏もとっても素敵でしたわ! 私、本当にお姉様を尊敬しております!」
コレットの打算や怯えなどつゆ知らず、純粋無垢に姉を慕い、その冷たい音楽を「一番格好良い」と肯定するリュミエール。
そんな妹に気に入られようと、必死に慈愛の仮面を貼り付けるコレット。
その歪な、けれど確かに寄り添い合う二人の姿を見て、伯爵は小さく溜息をつき、おかしそうに口元を緩めた。
(……まあ、いいか。コレットがこれ以上音楽で行き詰まろうとも、こうして我が家の太陽と本当の姉妹になって仲良くやってくれるのなら、それだけでコレットを拾った価値はある)
父親としての穏やかな妥協。伯爵はコレットの品評を止め、とりあえずの猶予として、彼女を音楽学院へと入学させた。
相変わらずコレットの音は「精密な機械」のままだったが、その入学を境に、徐々に異変が起こってゆく。
変わったのは、コレットと同じタイミングで音楽学院に入学した、あの空っぽな天才、ジュリエット・ド・ヴァロアだった。
ここ最近、ジュリエットの音に奇妙なゆらぎが混ざり始めている。
その原因が分からず首を傾げていた伯爵だったが、学院から入ってくる報告を耳にして、さらに困惑することになった。
どうやら原因は、コレットにあるらしい。
ジュリエットは他の学院生の演奏には一瞥もくれないくせに、コレットの演奏となれば、どれほど小さな発表会であっても必ず最前列に陣取り、恐ろしいほどの眼力でコレットを凝視しているというのだ。
(あの子が、コレットを……?)
伯爵には理解ができなかった。
コレットの今の演奏が、技術だけで中身のない「綺麗な造花」に成り下がっていることは、伯爵自身が誰よりも熟知している。
まあ、リュミエールと仲良くやってくれているし、あれはあれで良いのだが。
と穏やかに現状維持を決め込んでいる伯爵に対し、ジュリエットの意図は全く読めない。
ただただ不気味に、鋭く、一介の学院生であるコレットに執着を燃やしているようにしか見えなかった。
そしてさらに一年後。愛娘リュミエールの音楽学院の入学式。
新入生歓迎の式典で、代表としてヴァイオリンを弾いたジュリエットの音を聴いた瞬間、伯爵は椅子から立ち上がりかけるほどの衝撃に打たれた。
(……何だ、この音は……!?)
かつて世界で最も贅沢なはりぼてだったジュリエットの音に、聴いたこともない熱が、完璧に融合していた。
完璧な模倣の殻を破り、命を絞り出すような至高の響き。
(素晴らしい……! コレットを学院に入れた私の選択が、ジュリエットに真の芸術的ライバル心の目覚めをもたらしたのだな!)
伯爵は胸のうちで、これ以上ないほどの感動に震えていた。
コレットを拾い、あえて学院に入れた自分の領主としての、そして鑑識官としての選択は完璧に正しかったのだ、とここに来てようやく確信が持てた。
これほどの至高の領域に達したのなら、もはや迷う必要はない。
伯爵は、グランヴェル伯爵家が秘蔵する名匠の最高傑作『暁の聖母』を、ジュリエットに譲渡することをその場で決心した。
数日の後、譲渡のタイミングをいつにしようか、と考えていたグランヴェル伯爵の元に愛娘リュミエールがとんでもない報告を携えてやってきた。
「お父様! 素晴らしいニュースですわ! ジュリエット様から、お姉様との合同演奏会のご提案をいただいたのです! 練習のために、私とお姉様でジュリエット様の実家へお泊まりに行ってもよろしいでしょうか?」
「……何、合同演奏会だと?」
伯爵は驚きつつも、タイミングの良さに頷いた。
ならばちょうどいい、と伯爵はリュミエールに『暁の聖母』のケースを託すことにした。お前たちの輝かしい未来の祝いとして、ジュリエットへ直接手渡してきなさい、と。
だがその瞬間、伯爵の胸に、父親としてのいつもの葛藤が鎌首をもたげた。
実の娘であるリュミエールを差し置いて、またしても外部の、それもジュリエットという別格の天才へ家宝を渡してしまう。
リュミエールはまた「お父様は私に期待していないのだ」と傷ついてしまうのではないか。
しかし、リュミエールはそんな父親の小心さを見抜いたように、温かい微笑みで完全に吹き飛ばした。
「まあ、ジュリエット様へ『暁の聖母』を! なんて素敵な決断なのでしょう! 素晴らしい音楽のために、そんな私情にとらわれない見事な決断を下せるお父様を、私は心から尊敬いたしますわ!」
実子のなんの曇りもない肯定を受け、伯爵は内心で有頂天になった。
自分の耳の確かさ。最愛の娘からの変わらぬ尊敬。これ以上ないほど満たされた気持ちで、伯爵は娘たちの旅立ちを最高の笑顔で見送った。
神に与えられたその耳は、世界のあらゆる音楽の傷を聴き分けることができる。
だが、その耳をもってしても、これから娘たちを待ち受ける「最高に前向きで、最低に間違えた不協和音」の足音だけは、まだ、何ひとつ聴き取れてはいなかった。
我が家の愛娘が天使すぎる。




