第8話 素描画とカスミソウ
亀裂が広がった。
あの理屈の壁に阻まれていた子爵の姿が露わになった。
「……子爵様……だいじょうぶですか?」
心配げに覗き込むリンちゃんの顔も見れていない。
片手で目を覆い、嗚咽を殺し続け、それでも片手でリンちゃんの頭を撫でている。
今ならはっきり読み取れる。
埋められぬ喪失感――
何かに縋る事で、辛うじて自分に折り合いをつけようと足掻く。
それが、あの素描画。
そして――
窓辺に移動する。
置かれた安楽椅子。
私たちが来た時、子爵はここに居たのだろう。
ここから見えるのは――
あのカスミソウ……か
部屋に目を移す。
この安楽椅子から一望できる。
ベッドも、素描画も、肖像画も、カスミソウも
安楽椅子に揺られ、それぞれに語りかけ、問いかけ、得られた答えをまた自分で否定する。
その繰り返し。
重なる。
かつての私と――
子爵が顔から手を外せるようになるには、まだかなりの時間が必要のようだ。
❖ ❖
「無様を晒してしまいましたな……。
誠に申し訳ございませんでした……」
頭を下げる子爵に、エリシア様が静かにとりなす。
「子爵様、頭をお上げ下さい。どうかお気になさらずに」
子爵が頭を上げた。
その顔に、もう険はなく、頑なさもまた影をひそめていた。
「私にも、子爵様があの素描画に込める想いの幾ばくかはわかる気が致します。
あの肖像画は――御息女……ですね」
一瞬、眉が僅かに上がり、目が泳いだ。
だが、すぐにエリシア様と、そしてリンちゃんに向け、次いで視線が肖像画に注がれた。
フッと肩の力が抜けた。
「事ここに至れば、もはや――というところですな。
よろしい、胸襟を開いてお話いたしましょう。
ご推察の通り、我が娘です」
「御息女はもう――」
「はい、亡くなってもう10年になります。
ちょうど、リンちゃんより少し上……かな」
子爵が肖像画とリンちゃんを交互に見た。
眼差しには慈愛が満ち、それに僅かに苦味が加わった。
「私が30を越えてようやく授かった子でしてな。とても愛おしかった。
しかしながら薄幸な子でした。
母を流行病で亡くし、自身も病弱で、あまり外に出られずに育ちましてね。
特に亡くなるまでの2年余りは、ほぼベッドの上で過ごさねばならぬようになりました」
リンちゃんが、エリシア様の袖をキュッと握ったのがわかった。
エリシア様の手が、そこにソッと添えられた。
「だからなのでしょうか……。私とともに外に出かけた時の事をよく覚えていて……。
お父さま、あの時楽しかったね、とよく話してくれました……」
その目が、徐々にここから遠ざかっていった。
「数少ない外出でしたが、特に開国祭に一緒に出かけた時の事をよく話しておりました。
疲れて歩けないと言う娘を肩車したのです。
私自身にはさほど印象的な事ではなかったが、あの子にとってはそうではなかったのでしょう。
後に病床で、それはうれしそうに語っておりましたよ。『周りが全然違って見えた』『空を飛んでるみたいだった』と」
遠い目が窓の外に向いた。
「その祭りの時に、肩の上からねだられたのがカスミソウの鉢植えです。
『宿根』と言うのですか。枯れてもまた次の季節に咲く。『キレイだね』『かわいいね』と、娘はとても大切に育てておりました。
病床に伏して、私が世話をしている時も……『また来年も見れるといいな』……そう申しておりました……」
子爵がまた嗚咽を漏らした。
リンちゃんがまた子爵の元に行き、その腕に寄り添った。
「……すまんね……ありがとう」
小さな声が、聞こえた。
私は花に詳しくはない。
だが、かすみ草は好きだ。
あれは誰かの傍らにいる花だ。
主の有り様を邪魔せず、そこに在るだけで引き立たせる。
今見ている光景も、それに似ている。
エリシア様が目頭を押さえた。
しばらくの間、部屋には小さな嗚咽だけがあった。
❖ ❖
「子爵様……」
「もう大丈夫だよ、ありがとうね……」
子爵はだいぶ落ち着いたようで、柔らかい笑顔をリンちゃんに向けている。
「あの素描画はね、娘が亡くなる少し前に手に入れたんです。
私は歴史的遺物の蒐集をしております。そういった品々はいろいろな経路で――それはもうご承知の通りだ。
あれが目に止まったのは、ウォーケン領の遺物だからでも、貴都市の成り立ちの遠因だからでもない。肩車をしている父娘だったからです」
「……そうですか」
エリシア様が微笑んだ。
もう十分に理解できていた。
「娘は、それはそれは喜んでくれた。
あの開国祭の時の肩車が、絵を通してよみがえって来るように思えたのでしょう。
毎日、ベッドから眺めておりました。
亡くなるその日まで……」
子爵が、グッと何かを飲み込んだ。
「そして私にも、父として娘にしてやれた事の証になりました。
素描画の少女は、父に肩車をされ、娘と同じようにうれしかったに違いない。
作者は、その心根に寄り添い、それを絵として遺した。私はそう思っております」
そして立ち上がり、一歩引いて私たちに礼を取った。
「もはや想いに優劣を付けるつもりはありません。ありませんが……、どうかこれは……これだけは……ご容赦いただきたい……」
父として在れた、その証……か。
確かにもう、優劣をつけられるような話ではない。
どちらも正しく、どちらも等価だ。
だが、エリシア様にも私にも、もはや決定権などなかった。
リンちゃんが子爵の手を握った。
涼やかな声が、結論を告げた。
「子爵様、わたし、さっきも言いましたよ。子爵様ならこれからも大切にしてくれるって。
わたしは、絵のなかのふたりが笑ってくれてるのが見れました。それで十分なんです」
「……リンちゃん……」
「あ、でも、ここにいる間はまた会いたくなるかな……。
明日もまた見に来てもいいですか?
ご迷惑……ですか?」
子爵が、二、三拍ほど固まっていた。
ゆっくりと片膝を付いた。
ちょうど同じ高さになったリンちゃんの目を見つめた。
そして、笑った。
「ああ、もちろんだ。いつでも見に来てくれ。
毎日来てくれても構わないよ」
その顔には、もう鎧は欠片も残っていなかった。




