第7話 子供の純真
「……お嬢さん、リンちゃん……と呼んでもよいかな」
「はい、うれしいです」
子爵の様子が明らかに変わった。
もちろんまだ警戒の鎧を脱いだわけではない。
だが、最初にリンちゃんを見た時の、あの僅かな笑みと視線の柔らかさが、更に一層深くなっている。
「どんなお顔か……気になるのかね?」
リンちゃんが大きな声で返事をした。
「はい!子爵様!」
自分でも驚くほどの声にハッとして、少し気恥ずかしそうに顔に手をやった。
それでもモジモジしながら、抑えきれない想いに視線が虚空を泳ぐ。
「……絵のなかの……おじさんと子供は……
笑って……ますか……?
……笑ってると……いいなぁ……」
期待が込められた眼差しと、はにかむ笑顔。
正直、そのいじらしさに私もエリシア様も圧倒される。
子爵も少し驚いたような素振りを見せ、次いで目尻のシワをまた深くした。
「……そうか、それでは……お見せしようか」
そう言って子爵が立ち上がった。
リンちゃんに手を伸ばす。
「さあおいで、案内してあげよう」
一瞬の躊躇、しかしすぐに笑顔になり、差し出された骨張った手を小さな手が握り返した。
「あなた方も、よければついてくればいい」
呆気に取られた私たちに向けられた声は依然として素っ気ない。
しかし醸し出す雰囲気は格段に違っている。
「子爵様……」
私とエリシア様の戸惑いに、さっきより少しだけ潤いの混じった乾いた声が返された。
「譲る事はできん。だが見せる事まで拒んだとなれば狭量というものだ。あなた方の申し出を半分は叶えた事にもなる。
それに――」
また目尻のシワを深めた目線がリンちゃんに注がれた。
「こんなかわいらしい淑女の希望を無視するなど、騎士道精神、とやらに反する。
そうではないかね、アレク殿」
こちらは一瞥もせず、子爵はリンちゃんと部屋を出ていった。
私たちも慌てて後を追った。
どうやら2階に行くようだ。
階段を登ると広い廊下に出た。
子爵が、何番目かの部屋を指差した。
リンちゃんの歩みが速い。子爵はリンちゃんの歩に合わせている。
――あの部屋の位置は……確か……
追いつこうと急ぎながら、カスミソウを見ていた時の2階の人影を思い出した。
部屋の扉が開かれた。
中に入る。
そこは子供部屋だった。
広い部屋の中には、ベッドとテーブルと椅子、それだけしか置いていない。
まるで生活感のない空間だった。
ただ、窓際に置かれている安楽椅子が、この部屋には不釣り合いに映った。
ベッドの横の壁には、2枚の絵が掛けられていた。
1枚は大きな肖像画。少女が微笑んでいる。
リンちゃんより少し下くらいに見える。
子爵の御息女だろうか。
もう1枚は小さな―――
リンちゃんが駆け寄って行った。
絵の前にリンちゃんが立つ。
一拍遅れて私たちも素描画の前に立った。
リンちゃんの蒼い瞳が素描画を映し、そのまま視線が動かなくなった。
視線と同様にリンちゃんも動かなかった。
蒼い瞳も、表情も、身体も、素描画に縫い止められていた。
素描画に描かれていたのは――
笑顔の壮年の男性と、肩車されている少女
壮年の領主は、肩車した少女の足を片手で支えていた。
少女は父の髪を両手で掴み、声が聞こえてきそうなほど笑っている。
描線は決して精緻ではない。紙質も上等とは言い難い。
けれど、そこにいる父子の空気だけは、奇妙なほど生々しかった。
リンちゃんがポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
300年ぶりに見る父親に―――。
(……お父さん……)
声も立てず、身じろぎもせず、ただただ涙だけが落ちる。
「こらこら、部屋の中を走っては―――」
苦笑混じりに歩み寄る子爵。
だが、肩に伸ばした手がそのまま虚空に浮き、漂う事も忘れた。
頰を伝う雫だけが、ガラス玉のように光を孕み、床を濡らして爆ぜた。
暫しその時間の流れに、皆が声も立てず、ただ浸っていた。
❖ ❖
「ありがとうございました……子爵様」
「いや……それは気にしなくてよい……」
部屋の中の小さなテーブル。
それを囲む小さな椅子にみんなが腰掛けた。
赤い目の笑顔を向けられ、子爵の反応がどうにも歯切れが悪い。
まあ、そうなるだろう。
7歳の子供が素描画を見たいと望んだ。
どんな顔をしているか、ただそれを見たいと望んだ。
そして―――
声も立てずに涙をこぼした。
子爵は今一度問わねばいられないだろう。
この子は、本当はこの素描画に何を見たかったのか。
そして、何を見たのか。
「……リンちゃん……」
「はい、なんでしょう、子爵様」
「君は……あの素描画に何を……見たかったのかな?
そして何が……見えたのかな?」
やはり尋ねてきた。
描かれた理由を見い出し、その意図に最も"近づけた者"こそ所有する資格ありと自負しているからこその反応だ。
「え……?何が見たかった……?」
リンちゃんは……何を尋ねられているのか、よくわからないのか。
キョトンとしている。
「子爵様、最初にお聞きになりましたよ、それ。
だから、笑っていればいいなぁって」
子爵の身体が強張ったのがわかった。
「ウォーケン……様と……お嬢様の絵ですから、きっと笑ってる、ふたりとも笑ってくれてるはずだって……思ってました……」
また、瞳に涙が浮かんだ。
「やっぱり……笑ってくれてました……。
うれしかった……。幸せそうに笑ってる顔が見れて……ホントにうれしかった……」
「……リン……」
「……うれしかったの……」
リンちゃんがエリシア様の胸に抱かれる。
銀糸の髪を優しく撫でられるたびにしゃくりを上げる。
子爵に、亀裂が入った。
その表情から、何かがひとつ剥がれ落ちたように見えた
❖ ❖
「あなた方は最初に私を謀ったんですな」
子爵の苦言。
だが、言葉ほど口調は厳しくない。
エリシア様が素直に頭を下げた。
「申し訳ありません。慎重に進めたい交渉事だったが故に、最初にわかりやすい建前論を提示してしまいました」
子爵のつくため息にも、どこか寛容さが窺えた。
「まあよろしいでしょう。相手の真意が掴むのが交渉事の第一歩。無難な切り口から意図を探るのはある意味常道です。
私もうまく乗せられてしまった。真っ向から否定して、私の真意はそこで丸裸だ。
そこにリンちゃんが……ですか。
実に見事なお手並み―――」
そこでエリシア様が子爵を制した。
「いえ、子爵様。誤解なさらぬよう願います。
私たちはあの時、まさに迷走状態でした。
この圧倒的な劣勢を、どのような策を打てば挽回できるか、そればかり考えておりました」
リンちゃんに目を向ける。
「でも、この子は違いました。
絵が見たい、どんなお顔をしているのか、それだけを知りたい。
策など何も持たず、ただただそれだけを望んでいたのですよ」
子爵もリンちゃんに目を細めた。
「なるほど……、大人の小賢しい化かし合いなど、いとも簡単に崩れるわけだ。子供の純真さの前にはね……」
「子爵閣下……」
しかしまた子爵の目が変わった。
最初の時の警戒と値踏みは消え失せているが、堅固な意志だけは残っている。
「しかしながら、やはり素描画をお譲りする事にできない」
改めての拒否。
だが、温度はこれまでと違う。
「リンちゃんは確かに、作者の意図に近づいたと評すに値するでしょう。
だが、私がそれに劣っているとは、やはり思えません。身勝手な理屈で申し訳ないが、ここは譲れん一線です。お許し願いたい」
静かに頭を下げる子爵。
エリシア様に落胆と僅かな納得が窺えた。
リンちゃんはどう感じているか……
エリシア様も同じ気持ちだ。
ふたり同時にリンちゃんに注目した。
だが、当のリンちゃんの声に、私たちは驚かされた。
「わかりました」
その言葉の明快さに、私たちのみならず、子爵も唖然としていた。
「……リン、お前……本当にいいのか?」
リンちゃんは晴れやかに笑って、素描画を指差し、こう言った。
「子爵様、あの絵を何度も直してくれてるよ。
いっぱい直した跡があった。
そんなに大切にしてくれてたんなら、これからも絵はずっと残るでしょ」
そして子爵の前に立った。
なぜか怯えたような目をする子爵に、リンちゃんがきれいなカーテシーを取った。
「だいじにしてくれて、ありがとうございました」
子爵の口元が歪んだ。
言葉にならぬ吐息が溢れ、両手が顔を覆った。
また、何かがこぼれ落ちた気がした。




