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第6話 カーライル子爵

 カーライル子爵邸は先日訪れた時と同じ風景で我々を迎え入れた。

 豪奢に咲く薔薇と剪定された木々に囲まれるように玄関に向かう。


 ふと、リンちゃんが足を止めた。


 あの一角――

 

 場違いのようにひっそりと、しかし確かに息づくカスミソウの一群。


「……リン?」


 エリシア様が横に立った。

 ふたりでカスミソウを見ている。


 綿埃のような小さな花たちが、儚げにそよ風に揺れる。


「かわいいな……カスミソウ」

「……うん、かわいい……。

 だけど……なんか……」

「……なんか?」

「なんか……淋しそう……」


 どこからか、視線を感じた。

 どこだ?


 辺りを見渡す。

 違う、これは――


 2階?


 2階の部屋から、窓越しにこちらを伺う人影があった。だが、すぐに見えなくなった。揺れるカーテンだけが私の視線の先にあった。



       ❖   ❖


 

 ルナとロッテは別室で待機する事とし、エリシア様、リンちゃん、私の3人は家令殿の案内で応接室に通された。


 カーライル子爵邸の応接間は、豪奢というより静謐だった。

 飾り立てた成金趣味とは無縁の、手入れの行き届いた古い調度。壁際には背の高い書架が並び、年代物らしい木の匂いに、かすかに乾いた紙の匂いが混じっている。


 少しして男が入ってきて、正面のソファに座った。

 

 男は痩せていた。

 老いているわけではない。五十をいくらか越えた頃合いだろう。背筋は伸び、衣服にも乱れはない。だがその頬には、長く削がれてきた者だけが持つ影があった。


「ようこそおいで下さいました、テーゼ領主閣下」


 立ち上がり、一礼する。

 礼法は正確だったが、声音には歓迎より測る響きの方が強かった。


「突然の願いにもかかわらず、お時間を賜り感謝します、カーライル子爵様」


 エリシア様が礼を返す。

 その傍らで私は、子爵の視線がまずエリシア様に向かい、次に私を一瞥し、最後にリンちゃんのところでほんの僅かに止まったのを見逃さなかった。


「そちらのお嬢さんは?」

「妹です。リンと申します」

「リンです。こんにちは」

 ぺこりと頭を下げるリンに、子爵は少しだけ目を細めた。


「……これはご丁寧に」


 笑った、ように見えた。

 だがその笑みは薄く、すぐに消え、また私を見た。


「そちらの紳士は?貴都市のアルベルト執政官補佐はもう少しお若いはずだが」

「この者はアレクと申します。テーゼ騎士団副団長を務めております。今回は護衛チームのリーダーとして、そして未熟な私の補佐役として随行しております」

「お初にお目にかかります、カーライル子爵閣下。アレクと申します」


 背筋を伸ばし、腰から深く丁寧に頭を下げる。


「……ほう、あなたが謁見式待機場の……。

 レモンの説法者が、これほど貴族然とした御仁とは、正直驚きましたな」


「これはお耳汚しを。しかしお耳が早いですね。もうご存知とは」


「求めずとも囀る口もいくらでもありますので」


 口調は柔らかい。だが、その目に甘い成分はほとんどなかった。

 


 一通りの挨拶が終わり、茶が運ばれ、従者たちが下がる。 静けさが落ちた。


「さて」


 子爵が、指先でカップの持ち手に触れた。


「本日は、我が家の所蔵品についてのお話とか」

「はい」


 応じたのはエリシア様だった。


「単刀直入に申し上げます。貴家が所蔵しておられる一枚の素描画について、ぜひ拝見し、可能であればお譲りいただきたいのです」


 カーライル子爵の眉が、ほんの僅かに動いた。


「ほう……、いったい何を?」


「旧ウォーケン領主と、その息女を描いた素描画です」


 その瞬間だった。

 子爵の視線が、すっと細くなった。

 空気の質がわずかに変わったのを感じた。

 この男は今、驚いたのではない。

 構えたのだ。


「……なるほど」


 子爵はカップを置いた。


「では、まず一点。なぜ我が家にその品があるとお知りになったのか。差し支えなければ伺いたい」


 穏やかな口調。 しかし問いは鋭い。


 エリシア様が私を見る。私は微かに頷き、答えた。


「過去の流通記録を精査する機会がありまして」

「流通記録、ですか」

「ええ。正規の市場に出たものではない、という点も承知しています」


 子爵の目が、僅かに冷えた。


「……正直で結構」


 短い沈黙が流れた。


 今の一言で、相手は"こちらが来歴まで知っている"と悟った。

 ならば、ここから先は互いに、曖昧な建前だけでは済まない。


「しかし、だとすれば妙なお話だ」


 子爵が背もたれに身を預けた。


「来歴に難のある品と承知の上で、敢えてそれを"譲れ"と仰るのかな?」


「返還請求に来たわけではありません」

 エリシア様が静かに言った。

「非を問うためでも、責を追及するためでもないのです」


「では、なおさら奇妙だ」


 子爵の視線が、今度は真っ直ぐエリシア様に向いた。


「閣下ほどのお立場の方が、なぜその絵を欲しがるのです?」


 エリシア様はすぐには答えなかった。

 ほんのひと呼吸。

 その間を埋めるように、私が口を開いた。


「その絵には、失われた歴史の断片として、極めて大きな価値があると考えています」


「歴史的価値、ですか」

 子爵が、小さく鼻で笑った。


 この反応に私は僅かに違和感を感じた。

 『歴史的価値』――

 この問い返しに、我々に対する軽い侮蔑が混じっているのはわかる。


 だがそれだけじゃない。


 子爵が、自分自身にもどこかそれに似た感情を含んでいるような、そんな気がした。

 

「テーゼに住まう者、それを拠りどころとして、自分たちこそ、あの絵の歴史的価値を認めるに相応しいと訴えるわけですか」


 また、違和感を感じた。

 

 なんだ、これは?

 まだよく掴めない。


 だが、こういう論法……

 大所高所から己が正当性を訴えるやり方では、おそらくうまく話が進まないのでは――。

 そう強く感じた。


「今さら、ではありませんかな」

「今さら、だからです」

 

 エリシア様の声色が少し強くなった。


「失われたままにしていい記録ではありません」


「記録、ね……」


 子爵はそこで初めて、はっきりと笑った。

 だがその目に温度はなかった。

 

「領主閣下。ひとつ申し上げておきましょう」


 その声音に、部屋の空気がさらに細く引き締まる。


「歴史的遺物というものには、必ずそれが作られた理由があります。それは往々にして極めて小さい事柄です。ましてや作者は後世に遺そうなど考えてもおらんでしょう。

 作者の意図は正確にはわからない。わかりようがありません。

 だからこそ、そこに何が描かれ、何が託され、何が失われたのか――その意図に最も"近づけた者”が持ってこそ価値を持つ」


 言葉を切る。 静かな断定だった。


「価値を量れぬ者の手に渡れば、それはただの古紙です」


 エリシア様の顔が歪んだ。


「我々では、その価値を理解できぬと……」


「価値を語るのであれば、純度の高い語りをご用意下さい。

 貴都市の成り立ち、生まれ育った市民たちの希求――

 大きな視点、多数の声、そのような希釈された戯れ言を持ち出されても、私には全く響かない」


 エリシア様の指先が僅かに強張るのを見た。


 だが、子爵の言葉はまだ終わっていなかった。


「そして私は、この絵の価値を知っている」


 その一言だけ、妙に重かった。

 言葉の意味以上のものが、そこにはあった気がした。


 私が静かに問い返す。


「どのような意味で、でしょう」


「……申し上げる必要がありますかな」


「交渉の前提としては」


 子爵の目が、ゆっくりと私から外れた。

 そして壁の向こう、あるいはもっと遠いどこかを見るように、焦点を薄くずらした。


「私は、あの絵を通して、もう二度と見るはずのないものを見れる気がするのです」


 独白のような声だった。


「ただ私に、父に笑いかけてくれていた頃の……娘の顔を」


 その場の誰も、すぐには言葉を返せなかった。

 リンちゃんが、きゅっと両手を握った。

 その小さな動きを、私は横目で見た。


 子爵はすぐにいつもの顔へ戻った。

 今の揺らぎを自分で打ち消すように。


「失礼。つまらぬ私情を挟みましたな」


「いえ……」


 エリシア様が、そっと返す。


 子爵は首を横に振った。


「だが、いずれにせよ答えは同じです。あの絵はお譲りできない」

「子爵――」

「価値ゆえに、です。

 誰にとってか、というね」


 言葉は柔らかい。

 だが拒絶は明確だった。


 エリシア様が僅かに目を細めた。

 たぶん今の一言で、この男が"理屈だけの蒐集家ではない"と確信したのだろう。


 私もまた、同じものを感じていた。

 この男は、ただ頑ななのではない。

 なにかを守ろうとしている。

 あるいは、手放せぬ何かに、しがみついている。



 その時だった。



 小さな声が落ちた。



「あの……」



 リンちゃんだった。


 全員の視線が集まる。


 リンちゃんは少しだけ俯いて、それからカーライル子爵を見た。


「その絵……に描かれてる人は……どんなお顔していますか……?」


 子爵の表情が、止まった。


 エリシア様が息を呑み、即座にリンを制そうとして――やめた。


 子爵は答えなかった。


 答えなかったが、その沈黙そのものが、先ほどまでよりずっと雄弁だった。


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