第2話 素描画
正直、声が出なかった。
暫くして、吐く息がようやく声になったが、それはただのオウム返しだった。
「……旧ウォーケン領主と、御息女の……素描画……?」
団長もアルベルト様も、その素描画の意味の重さを承知している。
もちろん私も知っている。
知っていても尚、問い直さなければ自分で消化する事ができなかった。
「……つまり……それは……」
声が震えた。
それを受け止めるように、アルベルト様が低く、だが真っ直ぐに返してきた。
「……300年前の、リンとその父親だ……」
この言葉とともに、耳鳴りが襲ってきた。
音が聞こえない。
いや、私だけなのか?
団長もアルベルト様も、止まって見えた。
色も輪郭もぼやけていく。
周囲が素描画になってしまったようだった。
パン!
素描画に、色と輪郭が戻り、音も帰ってきた。
アルベルト様が手を打った音で、私はようやく取り戻せたようだった。
「……アレク、帰ってきたかい?」
いや、なんともいい難い感じだ。
まだ、これが現実だという感覚は、完全には戻っていない。
軽く首を振りながら、やっとの思いで応えた。
「……申し訳ありません……、まだ少し変です」
団長がドサッとソファに身を沈めた。
「ああ、仕方ないわ。リンと親父殿が描かれた絵が、まだ現存しとったちゅうんじゃ。わしだって仰天したわい。
しかも、あの『破滅の閃光』の中でのう」
「……まったくです……」
そう言いながら、私は歪みの収まらぬ感覚を放り投げるように天を仰いだ。
❖ ❖
濁りの中、このテーゼに伝わる伝承が浮かんできた。
〃300年前、この地にあったウォーケン領が侵略軍によって蹂躙された夜。
その少女は、血に染まった地面に膝をついていた。
「父上……」
横たわる領主の体は、もう微かにしか動かなかった。
傍らに寄り添う少女は、必死にその大きな手を握りしめていた。
冷たい。
けれど、まだ、わずかな温もりは残っている。
「私も……私も共に……」
領主は震える手で、娘の頬に触れた。
苦痛に歪んだ顔に、微かな微笑みが浮かぶ。
領主の手が、ゆっくりと落ちる。
地面に、血の音を立てて。
世界から、音が消えた。
少女は空虚な瞳で、天を仰いだ。
少しの間。
血の涙が、一滴、ポタリと領主の手に落ちた。
その瞬間――
「ーーーーーーーーーーーーーー!!」
地を震わせ、天にまで届く慟哭が響き渡った。
眩い閃光が、少女の小さな体から迸り出る。
白銀の光が、周囲一帯を包み込んだ。
すべてが、光の中に飲み込まれていく。
光が消えたとき、そこに残っていたのは、ただの荒野だけだった。
父の亡き骸も、城も家も、山の頂きの一部さえも、消え失せていた〃
この伝承は『破滅の閃光』と呼ばれ、また、少女は『破壊神』と畏怖され、今も語り継がれている。
その伝承の少女こそが、あのリンちゃんだった。
だが、私は知っている。
エリシア様も、アルベルト様も、団長も知っている。
あの子は、父の死を目の当たりにした絶望の淵で、それでも必死に、ともに暮らした領民たちを守ろうとしていたという事を。
光の中で、届かぬ手を伸ばして泣きじゃくりながら、みんなを助けられなかったと、領民たちに詫びていた事を。
(ごめんなさい……!ごめんなさい……!
みんなを助けられなくて……!ごめんなさい……!)
だから生き残った者たちは、ある秘匿口伝を胸に、この街テーゼを造った。
ある朝、祖母が伝えた『あの子に祈らないで』。
ある夜、祖父が孫に語った『崇めてはならんよ』。
父親は子に、『それはあの子を遠くに連れてっちまう』と説く。
母親は子に、『きっとあの子は寂しがって、そばにいてって泣いちまう』と教えた。
そして皆が、こう結んだ。
『もしもあの子がお前の前に現れたら――』
『しっかりその手を握ってね、傍にいておあげなさい』
だから私たちもまた、リンちゃんを「神」としてなどではなく、ただの女の子として接し、その事実を秘匿し続けている。
祈らない。崇めない。跪かない。
ただの子供として手を取り、傍らにいる。
それが私たちにとって、当たり前のことだった。
❖ ❖
やっと感覚が戻ってきた。
やけに喉が渇いた。
ぬるくなったコーヒーを口にする。
「ようやく、落ち着いたかい?」
「はい……」
カップを置く。
また、カシャン……と歪な鳴き声を上げた。
「リンちゃんは……この事を?」
アルベルト様が私に視線を向けた。
「……ああ、話をした。
そして、リン自身がどうしたいのかを聞いた」
「……な!」
思わず私は立ち上がってしまった。
「なぜ話したんですか!秘密裏に譲渡交渉すればよかったじゃないですか!
あの子にとって、その素描画は唯一の遺品です!
手に入れられればいい!だが、手に入らなかった時、あの子はどれだけの喪失感に襲われるか!あなたがそこに考えが至らぬわけないでしょう!」
肩で息をする私がいた。
私も、もう両親も家族もいない。
だが、墓はある。
遺品もある。
想い出もある。
あの子には、なにも遺っていなかった。
あの時、全てが消滅した。
だが、奇跡的に現存する絵があった。
欲しいに決まっている!
決まっているからこそ、これは秘すべきだった。
団長が無言で立ち上がった。
その武骨な大きな手が、私の震える肩を叩いた。
身体に溜まった困惑と苛立ちをため息に変え、ボスッとソファに座った。
「君がそれほど動揺するくらいだ。
当事者であるリンの心中は如何ばかりだったか。我々には想像もつかない」
私は、まともに目線を合わせられなかった。
「君の言は正しい。あの子には隠したまま話をしに行く事もできた。
密かに譲渡交渉をすれば、不首尾だった時にあの子に辛い想いをさせないで済む」
「では……なぜ……」
ようやく顔を上げる事ができた。
「あの子は、父親に関する想い出は記憶だけしかなかった。全てが消失した、あの子もそう思っていた……」
アルベルト様の目に僅かに……
これは……潤み……?
「300年ぶり……だよ、アレク……。
あの子が父親に……300年ぶりに……。
だからこそ私は、あの子に自分で決めてほしかった」
左目から雫が一筋、頬を伝った。
「長い沈黙の後、あの子は言ったよ。
”お父さんに会いに行きたい”とね。
欲しいとは言わなかった。会いに行きたい、そう言ったんだ。
私とエリシア様が、欲しくはないのかい?と尋ねた。
そしたらあの子は、”絵は欲しいけど、売ってくれないかもしれない。ならそれでもいい。お父さんに会えるだけでいい”、そう泣き笑いの顔で答えてくれたよ……」
握る手に力が入ったのがわかった。
「だから……、だからこそ、私は……あの子の腕の中に絵を……」
……この方でも言葉に詰まる……か。
『アイツの身体に流れているのは血ではない、数字だ』
この方をよく知らない側の連中は、その一面を掬い上げてそう言う。
確かにそう見える面がある事は否定はしない。
物事の判断に数字、データを用いる。
行政官として当然の手法だ。
しかし本質は違う。
この方の語る『数字』の後ろには、いつも『ヒト』がいる。『数字』に血が通っているんだ。
そういう意味でこの方は『傑物』なんだ。
その『傑物』が、私に頭を下げた。
「アレク……、エリシア様は領主たる資質は十分に備えた方だ。だが、経験という点ではまだ二歩も三歩も他者に譲らざるを得ない。
今回は単純な商談じゃない。相手は素描画を売りに出しているわけではないからね。
だからこそ、相手の心の機微を掴めなければ、うまくは進まないだろう。その辺のフォローを含めて君に力を貸して欲しい」
目尻を軽く拭う。
なるほど……
理解した。
リンちゃんに選ばせたあなたの気持ちも、絵に対するリンちゃんの想いも。
「頭を上げてください。私こそ、声を荒げてしまい申し訳ありませんでした。
もちろん微力ながらお手伝いさせていただきます」
私が笑顔で返すと、アルベルト様も満足気に微笑んでくれた。
団長もウンウンと頷いている。
「これもリンちゃんのためです。
私もあの子にはこれまで通り笑顔でいてもらいたい。
お任せ下さい。
このアレク、リンちゃんがお父上を連れ帰れるよう全力を尽くしましょう」




