回避不能の初勤務
目覚めると腹の上に重みがあった。タリクが胸元に鼻先を埋め、乳首をちゅぱちゅぱ吸っている。前足は交互に腹毛をこね、喉奥からは小さな雷音が響いていた。
四歳にもなる息子は、当然乳など出ないことを知っている。
「タリク、そろそろ起きるにゃ」
「みゅう」
ふみふみが速くなった。バーナビーは自分に似たV字の額に鼻先を寄せた。耳や腹に触れるといつもより温かい気がするが、ブランケットの下に潜っていたせいかもしれない。
今日から初勤務なのにまた熱が出たら困る。熱があれば医務室に寄って、保育先にも連絡。初日から遅刻は御免だ。
保護されて間もない頃、タリクが診察台から飛び降りかけた。カシウスは片腕で息子を受け止め、空いた手で医療機器を押さえた。
まくれた白衣の袖から、思いのほか太い前腕が覗いた。
あの先生ならうちの子を診てもらっても安心だ。そういえばお茶も誘われていたが、医務室の外で何を話したいのだろう。
ぐずるタリクをベッドの上に転がし、そばに常備している体温計を咥えさせる。平熱だと分かってほっとした。手早く身支度に移る。
前足の甲を舐めて顔を拭い、頬毛と胸毛を櫛で整える。最後に自慢の尻尾を梳き、抜け毛を専用のゴミ箱へ落とした。
子供たちの毛づくろいを手伝おうとすると、タリクは櫛から逃げた。隣の部屋から出てきたライラも嫌がった。
「それくらい自分でできるわよ」
そう突っぱねるライラの耳の後ろには、見落とされた毛玉があった。指摘すれば毛を逆立てるに決まっている。黙ってブラシを差し出す。
バーナビーの視線に気づいたライラは飛行機耳で受け取った。
三人で人型規格の大きな円卓を囲んだ。椅子に飛び乗ったバーナビーは、タリクを腿に乗せ、肉のムースの皿を引き寄せてやる。
ライラはカフ型のスプーンを使い、タリクはまだ舌でぴちゃぴちゃと食べる。バーナビーも椀の縁を前足で押さえ、ほどよく冷めたスープを舌ですくった。
食べ終えると、三人そろって口周りをぺろんと舐めた。
体格の近い異種族用を改造した制服に袖を通す。ところがジャケットの裾にある尻尾用のスリットが狭く、尻尾が挟まった。せっかく梳いたのに。
タリクが手伝うつもりで尻尾の先を引っ張った。パンツの腰回りも毛が詰まって少々窮屈で、まだ調整が要りそうだ。
「これでいいかにゃ?」
姿見の前で、ライラの隣に並ぶ。深紺のツーピースに青緑の切り替え。尻尾用のスリットさえ合えば、悪くない。
ライラはユーティリティベスト姿だ。胴はクリーム色、耳や足先には炎のような赤いポイント。十二歳にしてすでに自分よりも背が高い娘は、鬣のような毛並みが美しい、元妻に似て凛としたミニライオンだった。
「曲がってる」
横から伸びてきた太い前足が左胸の徽章の位置を直す。バーナビーが見上げると、ライラは顔を逸らした。
「ありがとう」
「別に。初日からだらしない格好で行かれたら困るし」
左胸の円形徽章には銀色の星が描かれ、それらを結ぶ青緑の航路が走っている。その下に「B. CROSS / NAVIGATOR」とある識別タグを留める。右上腕には《U.S.S.アムンゼン》と刻まれた盾形の艦章を付けた。
足元では、タリクがバーナビーのブーツに前足を入れようとしていた。
「それはパパのだよ。忘れ物はないかにゃ?」
「ない!」
元気な返事をしたタリクに小さなバックパックを背負わせる。バーナビーも後肢にパウブーツを履き、部屋を出た。
雑多な匂いのする一般居住区を迷いなく進むと、保育園の入口で幼児たちに包囲された。猫が珍しいのか、腹が空いたグレムリンみたいに寄ってくるのが、ちょっとおかしい。
友達と早速会話をしていたタリクが振り向き、バーナビーに抱きついてきた。短い前足は背中まで届かず、代わりに脇に回る。
「ぱぱ」
「タリク、いい子にしてるにゃ。あとで必ず迎えに来るよ」
ライラの方にも両前足を広げてみるも、娘はこちらを一瞥するだけだった。ハイカットスニーカー風のパウブーツで、級友たちとさっさと学舎へ向かう。
気難しい年頃だ。でもいい子だと分かっている。
* * *
「我が右腕、クロス君! 今日からよろしく頼むよ!」
ブリッジに入るなり、よく通るバリトンが響いた。艦長席からダグラスが飛び降りてくる。撫でつけられた髪から爽やかな柑橘系の匂いがした。
「いえいえ、艦長の右腕を務めるにはまだまだ若輩者です。本日から航法士として尽力いたしますにゃ」
力強く頷くダグラスを置いて、バーナビーはそそくさと操作パネルに向かう。
直後、アラートの琥珀色がブリッジの視界を塗りつぶした。コンソールから突き刺さるような警告音が鳴り響く。
踏み台に飛び乗り、すぐさま画面を確認する。スクリーン中央の赤い光点が急接近してくる。拡大した識別画像に、骨めいた装甲が浮かんだ。ナビゲーション・アレイの数値が激しくカウントダウンを始めた。
バーナビーの肉球が操作パネルを小気味よく叩いた。
《アムンゼン》の進む量子航路は、通常空間の距離を短縮して星々の間を渡る、宇宙の高速道路だ。だが今、その一本道に何かが逆走してきている。
「浮遊小惑星ではありません。この骨のような装甲……スペースヴァンパイアの軍艦に酷似しています! 衝突まであと五十秒!」
ブリッジに緊張が走る。まともにぶつかれば、船体はおろか乗組員の命まで失われかねない。
「迎撃はっ?」
背後から艦長の声が飛ぶ。
「推奨しません! 相手の接近速度が速すぎます。それにあの船の周囲にはすでに不規則な重力の歪みが点在している……単純な方向転換では、私たちの船体が引き裂かれます!」
「通常航行では距離を取れないのか?」
「この速度差では間に合いません!」
衝突まで、あと三十秒。
自動演算の画面には赤い「回避不能」の文字が居座っている。AIが探せるのは登録済みの航路だけ。刻一刻と変化する重力の歪みの隙間に退避経路があったとしても、候補には上がらない。
(道を作るしかない)
バーナビーはコンソールから視線を外し、正面の虚空を見つめた。頭の中で星図を回し、敵艦の進路に、刻々と変わる重力分布を重ねていく。
軍でも民間航宙でも、幾度となく繰り返してきた作業だ。
肉球が再びパネルを叩く。AIの予測軌道に最新のセンサー情報を重ね、重力の歪みが移動する先を追った。
あった。
重力の嵐の中に、ほんの一筋だけ残された、針の穴を通すような退避経路。
最短の跳躍先は敵艦の進路上で使えない。今跳ぼうにも、敵艦を取り巻く重力の歪みが船体を引き裂きかねない。だが横に逃げれば、歪みの隙間を抜けられる。敵艦が通り過ぎてから安全座標へ跳ぶ。
「登録済み航路では回避不能! 補助推進で横に逃げ、衝突線を外してください! 敵艦の通過後、観測済みの安全座標へ緊急跳躍! 操舵席へルートを送ります!」
「操舵、実行できるか!」
ダグラスが叫んだ。
「ルート受信! 量子ドライブ、ナビゲーションリレーと同調。可能です!」
「よし、実行しろ!」
「まず横へ逸れる! 補助推進、全開――今だァッ!」
衝突まで、あと十二秒。バーナビーの設定した退避座標が機関室の量子ドライブへと送られる。
次の瞬間、操舵士が補助推進を噴かした。
《アムンゼン》は弾かれたように真横へスライドする。重力の歪みに引っ張られ、船体が軋んだ。衝突進路を外れた艦のすぐ上を、巨大軍艦の骨めいた船底が覆いかぶさるように通り過ぎた。
「衝突線クリア、跳躍!」
操舵士が指定された退避座標への量子跳躍を起動する。窓の外の景色がぐにゃりと歪み、周囲の星々が一斉に光の筋へと変わった。
バーナビーはパネルの縁に爪を立てて掴まる。重力の乱れが船体を激しく揺らしたが、損傷を示す警告は増えなかった。
数秒後、警告音は消え去り、ブリッジには静寂が戻る。あの不気味な軍艦の光点は、遥か後方へと置き去りにされていた。
「ふぅ……ヴァンパイア共の死んだ魚みてぇな顔が、走馬灯のごとく見えちまったよ」
隣の席で操縦桿を握るコーディがシートに深く背中を預け、大袈裟にため息をつく。
バーナビーもまた強張っていた肩の力を抜き、小さく息を吐いた。キーを叩き、乱れた星図をなめらかな蛍光グリーンのラインへと戻していく。
「スキャナー、クリア。危険域を脱しました。元の目的地へ向かう、新たな安全航路を再プロットしますにゃ」
「よくやった、二人とも。さすが僕の親友と航法士だ……!」
艦長の安堵した声を聞きながら、バーナビーは席から立った操舵士と向き合う。
腰を屈めてコーディが手を差し出した。
「ろくな挨拶もまだだったな。一等操舵士のコーディ・パーカーだ」
「よろしくお願いいたしますにゃ」
実質ローファイブみたいな握手をする。するとコーディの手が、まだ毛が逆立ったままの頭に伸びかけた。
「あっ、悪い。つい! 俺も猫を飼っていてな。まあ、元カノにぶんどられたんだが」
「そうでしたか」
飼い猫と同一視されても困るのだが。
思えば、ドクター・ヴァルは診療でもないのに勝手に撫でようとしたことがない。猫好きそうではあるのに。ああいった節度を皆に持ってほしいものだ。
警戒と報告書の処理は続いた。あの軍艦がなぜ逆走してきたのかは、結局分からずじまいだ。猫草を貰い、犬星人に睨まれたのを除けば、概ねつつがない初勤務だった。
「はふぅ」
勤務を終え、制服の首元を緩める。猫草のポットを抱えてタリクを迎えに行く道すがら、共用通路の奥に見覚えのある蛇頭を見つけた。
「ドクター! お疲れ様ですにゃ」
「クロス専門官。お疲れ様です」
カシウスが白衣を翻した。広い肩から垂れる白衣の襟元は、バーナビーが見上げる高さにある。ほのかに消毒液の匂いが鼻を打った。ゴルゴン族特有の蛇髪は、静かに揺れている。
「艦長から初日で見事な危機対応をされたと伺いました」
お喋りなダグラスは、きっと我が事のように話したのだろう。悪い人ではないが、どうもなれなれしい。
「いえいえ、自分はルート確保をしただけですにゃ。そういえば、お茶の件なのですが……」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。あなたの都合に合わせます」
子供を二人抱えていると、自分の時間は取りづらい。最後に家族を置いてまとまった休みを取れたのは、いつだっただろうか。
どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。オリーブオイルにトマト、チーズ……ピザだ。間違いない。
鼻をひくつかせるバーナビーをカシウスがじっと見つめる。
「お腹が空いたにゃあ」
「夕食時ですしね。私はあと数時間、食べられそうにありませんが……」
この時間帯は乗組員の多くが退勤してくるが、医務長はまだ勤務が終わらないのだろうか。
「このあともお仕事ですか?」
「あいにくと」
「いつも遅くまでお仕事とは、頭が下がりますにゃ」
「クロス専門官も、ご無理はなさらず。タリク君に何かあればすぐに連絡をください」
カシウスが少し腰を屈め、金色の瞳を細めた。間近で見ると睫毛がない。滑らかな頬、毛のない指、白衣の袖口から覗く太い前腕。毛むくじゃらの自分とはまったく違う。
強面のわりに、押しが強くない。
自然とバーナビーの目がゆっくりと閉じていく。
「そう言っていただけると助かりますにゃあ」
息を呑む気配がし、頭上で蛇が数匹勢いよく頭をもたげた。
「……今のは、私に?」
一瞬何を言っているのか分からなかった。カシウスが目尻を指でとん、と叩いたのを見て、やっとスローブリンクのことだと察した。
文化圏が違えば、場合によっては死罪に値する仕草もある。まずかっただろうか。
「そうですが、もしかして失礼に当たりますか?」
「あ、いえ! そうではなく」
早口で訂正しようとするカシウスの肩に毛無しの腕がかかる。コーディ操舵士だ。
「よぉカシウス! なんだお前、もっこりさせてるのか!?」
カシウスは固まり、蛇たちが心なしかしんなりした。バーナビーの耳も後ろにぺたんと寝る。
後ろから追ってきたダグラスがコーディを引き剝がした。
「ドクターの身体を勝手にそういう目で見るな! 謝れ」
「ごめんカシウス」
カシウスが首を振る。
「この頭は私の感情や肉体反応と必ずしも一致しません。……今度医務室にサボりに来たら追い出しますね」
そうだったのか。自分の耳や尻尾もたびたび勝手に動くので、少し親近感が湧いた。しかしサボりとは。
ダグラスがコーディを睨む。
「コーディお前……」
「ダグの前でサボりをバラすなんてずるいぞ! ッアー!!」
コーディがダグラスに首根っこを掴まれて叫ぶ。人間もあそこを掴まれると弱いらしい。
騒がしい二人が去って、辺りに大小の足音や話し声が戻る。
ははぁ。さっきの「もっこり」は、そういう意味か。猫の写真や動画に金を払う異種族がいることは知っている。だが目の前の男が自分にそういう関心を持っているとは、考えたこともなかった。
(趣味が変わっているな)
もっとも、あの蛇が動く理由はそれだけではないと、本人も言っていたが。
少し、からかってやろう。
バーナビーが尻尾をふりふり揺らすと、カシウスの金色の瞳がそれを追った。呼吸がわずかに乱れる。
「先生、今週のお休みはいつですか?」
頭上の蛇が一斉に顔を上げた。
「お茶の約束です。私も予定を空けておきますにゃ」
あ、やっぱり。気のせいじゃなかった。
ひときわ高く首をもたげた蛇を手で押さえ、カシウスは「水曜」と上擦った声で答えた。
「それなら都合をつけられます。午後三時はいかがでしょう?」
「死んでも確保します」
「あの世で待たれても困りますにゃん。お店はあとでご連絡しますにゃ」
「……そうですね。ご連絡、楽しみに待っています」
軽く頭を下げて保育所へと急ぐ。ちらりと振り返った通路にはカシウスがまだ残っていた。頭の蛇たちは四方八方に首を振っているが、音頭でも取っているのだろうか。
弾むように床を蹴って歩く。
離婚して、もうずいぶん経つ。そろそろ誰かとデートの一つくらいしてみてもいいのかもしれない。
子供の預け先を考えなければ。カシウスは甘いものが好きだろうか。いける口なら一緒に噂のカフェで名物プリンに挑んでみたい。




