着任式と踊る蛇たち
宇宙探査艦のブリッジには、新任航法士の簡単な着任式のために主要乗員が集まっていた。
医務長カシウス・ヴァルが気を配るべきは、乗員の体調とダグラス・ミラー艦長の余計な軽口である。後者は正式な職務ではないが、艦長と長く働くうち、放っておけなくなっていた。
ところが今日は艦長どころではない。頭の蛇たちがまるで言うことを聞かないのだ。
カシウスはブリッジの入口付近で背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ねた。
一匹がひょいと頭をもたげる。静かにしろ。念じると、蛇は渋々ほかの蛇の陰に引っ込んだ。代わりに別の一匹が、操縦区画の操作パネルへ首を伸ばす。
真顔を保つのが大変だった。
艦長席の数段下、操縦区画の操作パネルには航路図が広がっていた。新任の航法士はその前に踏み台を使って立ち、星々を結ぶ線を目で追っている。
「――本日、新たに本艦の航法部門に加わる仲間を紹介する」
艦長の声にようやく航路図から顔を上げ、小さな影が艦長席の手前へ進み出た。
焦げ茶の耳に、顔の中央を逆V字に抜ける白い模様。青い瞳が映える、シールバイカラーのラグドールだ。ぬいぐるみじみた丸顔に、ふさふさの尻尾。
抱きつきたくなるほど愛らしいが、子猫ではない。二児の父で、軍歴を持つ航法士だということは、救助以来、痛いほど承知している。
「バーナビー・クロス。かつて故郷フェリシア・プライムの軍で航法士を務め、その後は民間航宙で経験を積んできた。今日からは契約に基づく民間航法専門官として、我々と未知の宇宙を探査する」
二本の後肢で立つバーナビーは、胸を張って正面を見据えた。
(あのピンクの肉球で顔面を踏み荒らされたい)
唇を引き結び、唾を飲み込んだ。
七週間前、カシウスはあの前足から伸びた爪で引っ掻かれている。衰弱しきったバーナビーが、二人の子供を庇って爪を立て、そのまま意識を失った。
今、その男が艦長の前で堂々と立っている。
カシウスは重ねていた手をほどき、足元の子供たちの肩に添えた。
長女ライラは、母親譲りの鬣めいた毛並みを持つ少女だ。いかにも退屈そうだが、父親の名前が呼ばれると耳がさっと前を向いた。
隣のタリクも父と同じラグドールだが、サビ柄で、左目の周りに焦げ茶のまだら模様がある。
タリクは父親の名前が呼ばれると今にも飛び上がりそうになった。カシウスが肩に添えた手を緩めずにいると、ライラも弟の身体をそっと押さえた。
バーナビーがこちらをちらりと見た。タリクが尻尾を大きく振る。父親が目を細めると、タリクは満足げに胸を張った。ライラの耳もぴんと立った。
「さて、クロス専門官」
ダグラスがバーナビーの隣に立つ。
「本艦は未知の航路を拓き、まだ見ぬ世界と生命を探す。君の経験と判断を、その任務に役立ててほしい」
「承知しましたにゃ、艦長」
高く柔らかな声で、きっぱりと答えた。
「自分の専門知識を尽くします。ただし、航路の安全については、必要なら艦長にも遠慮なく意見を申し上げますにゃ」
ダグラスが破顔した。
「大いに結構! 私には、率直にものを言う部下が必要だからな!」
乗員たちから笑いと拍手が起こり、カシウスも手を叩いた。
ついにこの猫と同じ艦で働くのか。式が終わったら、仕事抜きでお茶に誘おう。平然を装えるかが心配だ。
* * *
「いやあ、実に素晴らしい着任式だった!」
そう宣言したダグラス艦長は、上機嫌でバーナビーに身を寄せた。
「クロス君、改めて歓迎する。これからは君を僕の右腕として頼りにしているぞ!」
少し離れた位置で聞いていたカシウスは、眉を上げた。右腕だと? 仕事まで取り違えていないだろうな。
バーナビーはにこりと笑った。
「光栄ですにゃ、艦長。ただ、私は航法専門官ですので、右腕としてできることには限りがあります」
「うむ?」
「航路の評価と構築については責任を持って進言します。でも実際に艦を操るのは操舵担当の仕事ですにゃ。そこを混同されると、お互い困ると思いますので」
「もちろんだとも!」
ダグラスは即座に頷いた。
「僕は専門家の意見を尊重する艦長だからな!」
「それは助かりますにゃ」
バーナビーは目を細め、尻尾を揺らした。
見事なものだ。
「パパ、右腕になったの?」
タリクが尋ねた。
「そういうわけじゃないにゃ」
「じゃあ、パパの右腕は?」
「ちゃんとあるにゃ」
バーナビーが片方の前足を持ち上げると、タリクは愉快そうに笑った。
ライラが大きなため息をつく。
「そういう意味じゃないでしょ。タリクってば」
「ライラは分かるの?」
「当たり前じゃない」
ライラは得意そうに顎を上げた。
「パパは航法士なんだから。艦長の右腕なんかになってたら、航路を調べる仕事ができないでしょ」
「さすがライラ。よく分かってるにゃ」
「別に。そんなの普通だし」
ライラはそっぽを向くも、耳は父親に向けたままだった。カシウスは思わず微笑んだ。
ダグラスがまたくだらない冗談を口にすると、バーナビーは上目遣いで笑ってみせた。
まったく、恐るべきお猫様だ。
「ドクター・ヴァル」
不意に名を呼ばれて見ると、バーナビーがこちらを向いていた。
「今日はありがとうございましたにゃ」
「……私が、何か?」
「式のあいだ、タリクが疲れないか見ていてくださったでしょう」
「当然のことです。彼に無理をさせずに済んで何よりでした」
「それでも、ありがとうございますにゃ」
バーナビーが軽く頭を下げた。親としての礼だ、勘違いするな、とでも言いたげだ。余計な言葉を足さず、頷きを返した。
「パパ、もう行こうよ」
ライラが弟の前足を取った。まだ話し足りなさそうなタリクも、父親に促されると素直についていく。
三人はほかの乗組員のもとへ向かった。歩くたびに揺れる尻尾を目で追う。
声をかけるなら、子供たちと離れてからだ。
「ドクター。君、クロス君とはもう親しいのか?」
今度はダグラスだった。
「担当医師ですから」
「うん? それは知っているぞ」
「医師としての関係と、私的な親交は別のものですよ」
ダグラスは満足げに頷いた。相変わらず艦長は何も分かっていない。
「なるほど。君らしい、実に堅実な考え方だ」
今は、それでいい。
* * *
歓談がお開きになってしばらく。カシウスは共用通路でバーナビーと再び顔を合わせた。
偶然だった。勤務表で居場所を探すような悪知恵を、実行に移したわけではない。
……考えたことならあるが。
「ドクター・ヴァル」
先に声をかけたのはバーナビーだった。
「さっきはどうも。今日は忙しそうでしたにゃ」
「新任の専門官が着任する日ですからね。艦内の皆が少し浮き足立っているようです」
「艦長は、いつもあんな感じですかにゃ?」
「残念ながら」
バーナビーが小さく吹き出した。耳がぴくりと動く。
カシウスは耳に吸い寄せられた視線を慌てて戻した。いけない。そんなに見つめる必要はない。まったくない!
診療中なら毛並みも耳も尻尾も、必要な所見として冷静に観察できる。ところが今は、耳が動いただけで手を伸ばしそうになった。
カシウスは両手を身体の脇に留めた。本人の許しなく触れるわけにはいかないし、七週間前、あの爪が何を守ろうとしていたかも忘れてはいない。
……そんなところまで好ましいのだから、始末に負えない。
「クロス専門官。改めて、着任おめでとうございます」
「ありがとうございますにゃ」
「もし差し支えなければ、今度、勤務外にお茶でもいかがでしょう」
バーナビーの耳がこちらに向く。
「ご多忙なら、もちろん遠慮なく断っていただいて構いません」
「お茶、ですか?」
「ええ」
「医務室で?」
「いいえ。食堂でも、ほかの場所でも。あなたのお好きなところで」
バーナビーは首を傾げ、カシウスを見上げた。
「先生は、いつも新入りをお茶に誘うんですかにゃ?」
急所を突かれた。カシウスは微笑みを崩さなかった。
「いいえ。あなたとお話がしたかったので」
「じゃあ、私は運がいいんですね」
「そう言っていただけるなら」
蛇髪がざわめく。「運がいい」と返されただけなのに、何という破壊力だ。断られたら引き下がるつもりだったが、返事を待つ数秒がやけに長い。
「ちょうど、艦内でゆっくりお茶を飲める場所を探していたところですにゃ」
バーナビーは尻尾を軽く揺らした。
「子供たちがいない時間は貴重ですから。今度、都合が合えばぜひ」
蛇髪の一匹が勢いよく跳ね、ほかの蛇も次々と顔を上げる。制御するより早く、バーナビーの視線が頭上に移った。
「……先生?」
「はい」
「蛇さんたち、どうかしました?」
カシウスは沈黙した。「都合が合えば」――まだその程度だ。そう念じても、頭上の連中は浮かれっぱなしである。
「何でもありません」
「そうですかにゃ?」
「ええ。少し、気分がよいだけです」
バーナビーがふっと笑った。
「それならよかった。先生も、お仕事ばかりじゃ身体に悪いですからにゃ」
今度はこちらが健康を気遣われるとは、医者の不養生もいいところだ。返す言葉もなかった。
バーナビーは別れの挨拶をして歩きだした。曲がり角で一度だけ振り返り、前足を軽く上げた。こちらも手を上げ、姿が見えなくなるまで見送った。
もしあの丸い前足を差し出され、肉球をぺろぺろ舐めることまで許されたら、いったいどうなるだろう。想像するだけで膝から力が抜けそうだ。ひとりで悶絶した挙げ句、今度は自分が医務部の患者になるかもしれない。さよなら、ドクター・ヴァル。こんにちは、ケモノ狂いの患者一号。
頭の蛇が一匹、頬に鼻先を寄せてくる。
「……分かっている。まだ何も始まってはいない」
バーナビーはお茶の誘いを断らなかった。生涯で最も好ましい外見をしたお猫様が、自分と二人でお茶を飲んでもよいと言ったのだ。
しかも仕事ができて、気が強く、二人の子を育てている上にゲロマブい。知るほど好きになるとはどういう罠だ。
カシウスは片手で目元を覆った。頭の蛇たちはすでに祝賀会を始め、踊っていた。




