第8話 網を繕う
翌朝、悠人は宿を出ると、迷った末にもう一度、漁師小屋へ向かった。
ドルンに謝りに行くわけでも、説得しに行くわけでもない。ただ、あの場所からすぐに逃げ出すのは違う気がした。
潮風の冷たさが、昨日よりも一層、肌に染みるように感じられた。
「――何しに来た」
小屋の前に立つ悠人を見て、ドルンは面倒くさそうに顔をしかめた。
「昨日は、すみませんでした。何も知らずに、失礼なことを言いました」
「分かってるなら、もう来るな」
「代わりに、何か手伝わせてもらえませんか。船を出すとか、そういう話は一旦置いておいて」
ドルンは訝しげに悠人を睨んだが、悠人が本当に動く気配を見せないでいると、やがて面倒そうに網の束を放って寄越した。
「暇なら、これでも繕ってろ」
不器用な手つきで網を繕う悠人を、ドルンも、他の漁師たちも、最初は遠巻きに眺めているだけだった。だが、時間が経つにつれ、誰からともなく手ほどきをしてくれるようになった。
「そこの結び目、そのやり方じゃすぐほどける。こうやるんだ」
教えてくれたのは、ドルンの隣で作業していた若い漁師だった。名をコウガといい、戦争で片足を負傷し、以前のようには船に乗れなくなったのだという。
義足代わりの木の棒を器用に使いこなしながら、彼の手つきは、驚くほど滑らかだった。
「昔は俺も、白ひげ様の漁場近くまで船を出してたんだ。今はもう、無理だけどな」
コウガは自嘲気味に笑いながら、そう教えてくれた。彼にとっても、あの海はただの傷跡ではなく、若い頃の記憶が刻まれた場所でもあるらしかった。
「怪我をしてから、辛くはなかったですか」
悠人が尋ねると、コウガは手を止めずに、ぼんやりと答えた。
「そりゃあ、最初は荒れたさ。船に乗れない漁師なんて、ここじゃ半人前以下だからな。今は、こうして陸の仕事を見つけられただけ、ましな方だよ」
コウガの言葉には、悔しさと、それでも前を向こうとする意志の両方が滲んでいた。
悠人は、その手元を見つめながら、静かに相槌を打つことしかできなかった。
昼過ぎ、リゼットが呆れたような顔で小屋を覗きに来た。
「本当に一日中、網を繕ってたのか」
「思ったより、奥が深くて」
悠人が笑いながら答えると、リゼットは肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。
それでも、その日は特に急かすこともなく、小屋の隅で腰を下ろし、日が傾くまで待ってくれていた。
夕暮れ近く、繕い終えた網の束を見て、ドルンがぼそりと言った。
「……悪くない出来だ」
その一言だけで、悠人は素直に嬉しくなった。今日一日の作業で、ようやく漁師たちとの間に、ほんの少しだけ隙間ができたような気がした。
帰り際、小屋の外で遊んでいた小さな女の子が、悠人の袖を軽く引いた。ドルンの孫娘だという。
「お兄ちゃん、また来るの?」
「うん、また来るよ」
「お父さんが帰ってきたら、みんなで漁に出るんだって、おばあちゃんが言ってた」
悪気のない、無邪気な言葉だった。だが、その父親がもう戻ってこないことを、悠人はドルンとの会話で既に知っていた。まだ幼いこの子には、本当のことを、誰も伝えられずにいるのかもしれない。
何と答えればいいか分からず、悠人はただ小さく頷くことしかできなかった。
振り返ると、ドルンが少し離れた場所で、孫娘と悠人のやり取りを、複雑な表情で見つめていた。何かを言いかけて、結局は何も言わずに、視線を海の方へと逸らしてしまう。
宿への帰り道、夕日に染まる港を眺めながら、悠人は静かな声で呟いた。
「観光客を呼ぶより先に、やることがある気がします」
「ようやく分かったか」
リゼットが横目でそう言った。その声には、わずかながら、これまでとは違う響きが混じっていた。
「今日一日、網を繕っただけの奴に、何が分かったのか知らないけどな」
「――でも、少しだけ分かった気がします。ここの人たちが、何を守ろうとしてきたのか」
その言葉に、リゼットは何も言い返さなかった。ただ、いつもより少しだけ、その歩調は悠人に合わせてくれているようだった。




