第6話 白ひげ様
その夜、宿の一室に落ち着いたところで、悠人はようやく、自分の身に起きたことをきちんと整理する余裕を取り戻した。
まず、荷物を確かめる。着の身着のままで飛ばされたと思っていたが、ズボンのポケットには、見慣れない硬貨がいくつか入っていた。
鈍い光を放つ銀貨と、小さな銅貨。数えてみると、路頭に迷うほどではない、それなりの額のようだった。
(――ミレイユ様、こういうところは、ちゃんと気が回るんだな)
あれだけ慌ただしかった割に、最低限の路銀くらいは用意してくれていたらしい。悠人は思わず苦笑した。
次に気になったのは、言葉の問題だった。考えてみれば、この世界に来てから、誰の言葉も不自由なく理解できている。
老婆の方言めいた喋り方も、商人の伝法な口調も、リゼットのぶっきらぼうな物言いも、まるで日本語のように、すんなりと頭に入ってきていた。
(――もしかして)
異世界ものの知識を頼りに、悠人は静かに目を閉じ、自分の内側に意識を向けてみた。
すると、瞼の裏に、ぼんやりと淡い文字が浮かび上がった。
『言語:自動変換(相互)』
『身体機能:転生前よりわずかに向上』
それだけだった。
剣術も、魔法も、特別な加護らしきものも、何一つ書かれていない。
「――地味だな、僕」
思わず声に出して呟き、悠人は小さく笑った。
せめてもの救いは、体が以前より少し軽く感じることと、言葉に困らずに済むということだけ。
派手なチート能力とは、まるで縁のない話だった。
それでも、悪くない、と悠人は思った。
特別な力に頼らずとも、自分の目で、この世界を見て回ることはできる。
むしろ、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
そんなことを考えながら眠りにつき、迎えた翌朝。
宿の前で待っていたリゼットは、開口一番こう言った。
「案内料、前払いだからな」
悠人が素直に硬貨を渡すと、リゼットは満足げに頷き、さっさと歩き出した。
慌ててその後を追う。
「今日はどこを回るんですか」
「町の全部だ。すぐ終わる。何しろ、見るところなんてほとんど残ってないからな」
その言葉通り、案内は淡々としたものだった。
閉まった店の跡地、崩れた市場、使われなくなった造船所。
リゼットは足を止めるたびに、投げやりな口調でそれらの説明をした。
やがて二人は、町外れの崖の上――半壊した灯台のそばに辿り着いた。
かつては光を放っていたであろう灯台も、今は上部が崩れ、役目を果たしていない。
「ここが最後だ。見ての通り、灯台も死んでる」
崖下に広がる海を眺めながら、リゼットがぼそりと呟いた。
「この辺りの海には、漁師どもがめったに近づかない」
「何か、危険なものでもいるんですか」
「『白ひげ様』が出るからだ」
「白ひげ様?」
「巨大な海獣だよ。何十年も前から、時々この辺りに姿を見せる。船をひっくり返した記録は、少なくとも俺が知る限りない。だが、あの図体を見たら、誰だって怖くなる」
リゼットが話し終えたそのとき。
海面が、大きく盛り上がった。
「――っ!」
次の瞬間、轟音とともに、白く輝く巨大な影が海中から躍り出た。しぶきが陽光を受けて虹のように弾け、辺り一帯に潮の匂いが強く広がる。
全長は、下手な建物よりも大きい。白い体表に、苔むしたような緑の模様が浮かび、悠然と宙を舞ったかと思うと、次の瞬間には海面へと巨体を叩きつけた。
轟音と共に、波が崖下まで押し寄せてくる。
しばらくの静寂の後、悠人はようやく声を絞り出した。
「……すごい」
単純な感想しか出てこなかった。だが、それ以外の言葉が見つからないほどの光景だった。
「怖くないのか、お前」
「怖いというより……綺麗だと思いました」
リゼットは怪訝な顔をしたが、悠人はまだ興奮冷めやらぬ様子で、崖下の海を見つめ続けていた。
(この景色を、船の上から見られたら)
頭の中に、自然とそんな想像が浮かんでくる。
潮風を浴びながら、あの巨体が海面から躍り出る瞬間を、間近で見上げる。それはきっと、誰の記憶にも残る体験になるはずだ。
「リゼットさん、船を出して、あれを間近で見に行くことってできませんか」
「は?」
リゼットは心底呆れた顔をした。
「正気か。誰があんな化け物にわざわざ近づきたがるんだ。第一、この町にまともに動く船なんて、もう数えるほどしか残ってないんだぞ」
その一言に、悠人はふと考え込んだ。
船がない。人が来ない。だからこそ、誰も気づいていない。
(――だったら、まずはそこからだ)
悠人の中で、何かがゆっくりと形を成し始めていた。




