第53話 白い静寂
砂漠の熱気が嘘のように、北へ進むにつれて、空気は次第に冷たさを増していった。
やがて視界いっぱいに広がったのは、一面の雪景色だった。息が白く染まり、踏みしめる雪が、きゅっきゅっと乾いた音を立てる。バロックの荷馬車は、車輪を外し、橇に付け替えられていた。滑るように進む荷台の上で、悠人は両手に息を吹きかけながら、凍える指先を擦り合わせた。
「これは、また極端な変わりようだな」
厚手の外套に身を包みながら、リゼットが肩をすくめた。
辿り着いた雪国フロストハイムは、これまでの土地とは、また違った静けさに包まれていた。
拒絶されるわけでも、警戒されるわけでもない。ただ、通りを歩く人影がまばらで、開いている店も少なく、全体に、どこか諦めにも似た静寂が漂っていた。軒先には、雪の重みで傾いた看板が、そのまま放置されている。
「――お客さんかい。珍しいねえ」
雪かきをしていた年配の女性が、驚いたようにこちらを見た。
「昔は、この時期、氷の城見物やら、雪祭りやらで、賑わったもんなんだけどねえ」
「今は、開かれていないんですか」
「担い手がいないのさ。若い連中は、みんな都会に出ていっちまってね」
女性は、寂しげに笑いながら、雪に埋もれた通りを見渡した。
「残ってるのは、あたしらみたいな年寄りばかりだよ。祭りをやろうにも、手が足りないのさ」
その口調には、怒りも、拒絶もなかった。ただ、静かな諦めだけがあった。
「それより、あんたら、唇が真っ青じゃないか。うちで、温まっていきな」
半ば強引に連れて行かれたのは、小さな石造りの家だった。囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てて、部屋を暖めている。
女性が出してくれたのは、湯気の立つ、素朴な雑炊だった。ほんのり緑がかった、山菜が、たっぷりと入っている。
「雪の下で育つ山菜でね。雪解けを待たずに、この時期でも採れるんだよ。この辺りの冬のごちそうさ」
一口すすると、ほろ苦さの後に、驚くほどの甘みが、舌に広がった。雪に守られて育った山菜は、柔らかく、香りが深い。冷え切った体の芯に、じんわりと温かさが染み渡っていく。
「……美味しい。山菜なのに、こんなに甘いなんて」
「寒さにさらされると、草は、甘くなるんだよ」
女性は、少し得意げに目を細めた。食後には、小さな木の椀が、そっと差し出された。中には、白くふんわりとした、雪のようなものが盛られている。
「雪乳さ。搾りたての乳と、木の蜜を混ぜて、雪の上で冷やすんだよ。昔は、祭りの屋台でも、売ってた。子供らの、一番のごちそうだった」
匙ですくって口に含むと、冷たさと共に、ほんのりとした甘みが、ゆっくりと溶けていった。濃厚な乳の香りと、木の蜜の、優しい風味が、鼻の奥に抜けていく。
「これは、アイスクリームですね……!」
悠人が思わず声を上げると、女性は目を丸くした。
「あいす……何だって?」
「いえ、僕の故郷の言葉で、似たお菓子があるんです」
バロックが、匙を口に運びながら、商人の目になっていた。
「雪の山菜に、雪乳。どっちも、ここでしか食えない味だな。数が作れんのが、惜しいが」
「作る人が、もういないからねえ」
女性は、静かに笑った。
その夜、宿として借りた部屋から、悠人は何気なく窓の外を見上げた。雲一つない夜空に、淡い緑色の光の帯が、ゆらゆらと揺れている。
「……あれは」
悠人は、思わず息を呑んだ。夜空を、カーテンのように、光がたなびいている。ゆっくりと形を変え、緑から、淡い紫へと移ろっていく。
「ああ、あれかい。毎晩のように出るよ。冷え込む晩ほど、よく見える」
背後で、女性がのんびりと言った。
「年寄りは、もう見飽きちまってるけどね」
「見飽きる、なんて。あれは、すごいことです」
悠人は、窓の外に釘付けになったまま、呟いた。
街を歩いていると、遠くの丘の向こうに、白く輝く尖塔のようなものも見えていた。
「あれは……」
「ああ、氷の城だね。昔は、あそこが祭りの中心地だったんだけど。今じゃ、誰も手入れしてないよ」
悠人は、その遠い輝きと、夜空の光に、思わず目を奪われた。
これまで訪れた土地は、どこも何かに立ち向かう強さを持っていた。だが、この雪国には、それとは違う、静かな寂しさが根を張っているように感じられた。
「――何もない場所だと思うだろう」
女性は、悠人の視線に気づいたのか、ぽつりと付け加えた。
「若い子らも、そう思ったから、出ていったんだろうしね」
その言葉に、悠人は小さく首を振った。
「そんなことは、ないと思います。まだ、ちゃんと見ていないだけで」
女性は、意外そうな顔で悠人を見た後、寒さに身を縮めながら、小さく笑った。
「変わった旅人だねえ。まあ、ゆっくりしていきな」
白い息を吐きながら、悠人は、夜空に揺れる光を、もう一度見つめた。
この静かな土地にも、まだ見ぬ何かが、きっと眠っているはずだった。




