第47話 砂丘の向こう側
その夜、悠人は寝付けないまま、宿の外に出て夜風に当たっていた。
昼間の灼熱が嘘のように、砂漠の夜は冷え込んでいた。吐く息が、微かに白く曇る。頭上には、手を伸ばせば届きそうなほどの満天の星が、一面に輝いていた。
昼間見えた人影が、また同じ場所に見えた気がした。気づけば、足は自然とそちらへ向かっていた。
「――一人で出歩くな、危ないだろうが」
すぐにリゼットが追いついてきた。二人で砂丘を登ると、足元の砂は、昼の熱を失って、さらさらと冷たかった。その頂に、フードを深く被った小柄な人影が立っていた。
「動くな」
鋭い声とともに、短剣の刃が月明かりに光った。
「敵意はありません。ただ、様子が気になっただけです」
悠人が両手を上げてそう言うと、フードの下から、警戒に満ちた若い目がこちらを見据えた。
「――ヴァディアの犬か」
「いえ、旅の者です。今日、あの街に着いたばかりで」
しばらくの沈黙の後、ようやく短剣が下ろされた。
「ジールだ。砂漠の民の、見張りをしている」
砂丘の向こう、暗闇の中に、ぽつぽつと小さな焚き火の光が見えた。天幕がいくつも張られ、その傍らで、駱駝たちが、静かに身を寄せ合っている。遠目にも、痩せ細った家畜の影が、いくつも見て取れた。
ジールは、警戒を解ききらないまま、ぽつぽつと事情を語り始めた。
「昔は、あの井戸は、俺たちの民も自由に使えるものだった。何世代も前から、共に手入れをしてきた井戸だ」
「今は、違うんですか」
「戦争のあと、街を治める連中が変わってな。井戸の管理は、街の人間だけのものだと言い出した。俺たちは、決められた僅かな量しか、もらえなくなった」
ジールの声には、静かな、しかし深い怒りが滲んでいた。
「家畜が何頭も死んだ。子供や年寄りが、体を壊した者もいる。それでも、街の連中は聞く耳を持たない」
「それで、対立が」
「向こうは、俺たちが井戸を襲うと思い込んで、余計に警戒を強めている。悪循環だ」
ジールは、腰の革袋から、干した果実を一つ取り出すと、無言で悠人に差し出した。
「……食え。砂漠じゃ、客人を、腹ぺこで帰すのは、恥だ」
「ありがとうございます」
受け取った果実は、驚くほど濃厚な甘みがあった。昼間、街の広場で食べたピザの上に載っていた、あの果実と、同じ味だった。
「これ、街のピザに乗っていた、果実ですよね」
「ああ。あれも、山羊のチーズも、もとは俺たちが街に納めていたものだ。取引がなくなって、向こうも、困ってるだろうさ」
ジールは、皮肉っぽく口の端を歪めた。
「だが、水をくれなきゃ、品物を作る家畜が、持たない。俺たちにだって、意地がある」
悠人は、広場で出会った、ピザ焼きの女性の寂しげな顔を思い出した。窯の火を絶やしたくなる、と彼女は言った。街の側にも、砂漠の側にも、同じように、この対立で失っているものがあるのだ。
「話し合いなど、何度も試みた。だが、そのたびに反故にされてきた。もう、期待するだけ無駄だ」
その言葉には、諦めに近い響きがあった。だが、完全に心を閉ざしているわけでもないように、悠人には感じられた。
「もし、また話し合いの場ができたら、応じてもらえますか」
「――何を企んでいる」
「企んでいるわけじゃありません。ただ、双方に、それぞれの理由があるなら、話す価値はあるはずだと思うんです」
ジールはしばらく悠人を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「族長に、聞いてみないと分からん。だが……お前が、余計な諍いを起こす気がないなら、少しくらいは、話を通してやってもいい」
その一言を残し、ジールは砂の中へと姿を消していった。
去り際、ジールは一度だけ振り返り、ぶっきらぼうに付け加えた。
「明日の夜も、ここに来る。気が向いたらな」
それが、彼なりの約束なのだと、悠人には分かった。
悠人とリゼットは、しばらく無言のまま、月明かりに照らされた砂丘を見つめ続けていた。
「――一歩、進んだかもしれないな」
リゼットの言葉に、悠人は静かに頷いた。手のひらには、干した果実の甘い余韻が、まだほのかに残っていた。
「それにしても、お前、危なっかしいぞ。夜の砂漠で、見知らぬ奴に近づくなんて」
「すみません。つい、気になってしまって」
「……次からは、一声かけろ。俺が先に行く」
リゼットは、そう言って、先に砂丘を下り始めた。その背中が、いつもより少しだけ、頼もしく見えた。




