第3話 旅人として
崩れた石畳の道を歩きながら、悠人はこれからのことを考えていた。
女神のところに戻って文句を言う、という選択肢が頭をよぎらなかったわけではない。
だが、そもそもどうやって戻ればいいのかも分からないし、あの慌てぶりを思い出す限り、まともに話を聞いてもらえる気もしなかった。
(――というか、よく考えたら)
悠人は一人、乾いた笑いを漏らした。
魔王はすでに討伐されている。
つまり、自分が「勇者として世界を救う」必要は、もうどこにもないということだ。
誰かに命を狙われるわけでもない。
戦えと命令されるわけでもない。
誰かの期待を背負う必要も、締め切りに追われる必要もない。
困ったことに変わりはないが、同時に、これほど身軽な「巻き込まれ」もそうそうないのではないか。
そう思うと、不思議と肩の力が抜けていった。会社員時代には縁のなかった、妙な解放感すらあった。
道の両脇には、まだ手つかずの瓦礫が積まれたままの家や、焦げた木の柵が並んでいる。
それでも、時折覗く畑の一角には、誰かが植え直したらしい小さな芽が顔を出していて、悠人はそのささやかな緑に、少しだけ目を留めた。
しばらく歩くと、道端に苔むした案内標識が倒れかけているのが目に入った。かろうじて読み取れる文字を目で追う。
『王都ヴァンドール 馬車で三日』
『港町ポルテナ 馬車で五日』
――港町。
その二文字を見た瞬間、悠人の中で何かがざわりと動いた。
長年の旅の趣味で培われた、あの感覚だ。
潮風の匂い、揚がったばかりの魚介、朝市の喧騒。
行ったこともない異世界の港町だというのに、勝手に想像が膨らんでいく。
「……行ってみるか」
誰に言うでもなく呟いたところで、背後から車輪の音が近づいてきた。
振り返ると、荷馬車を引いた初老の商人が、怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「兄さん、こんな道端で何してんだい。この先の村はもう機能してないよ」
「実は、行き先に迷っていまして。港町ポルテナの方に向かおうと思っているんですが」
「ポルテナかい。奇特だね、あそこは戦争でだいぶやられて、今じゃ寂れた漁村だよ。観光に行くような場所じゃない」
「危ない場所なんですか」
「危ないっていうより、つまらない、って意味さ。もっとも、街道沿いにはぐれ魔物が出ることもあるから、一人歩きは勧めないがね」
商人はそう言って肩をすくめたが、悠人はむしろその言葉に興味を引かれた。
「寂れた場所には、寂れた場所なりの魅力があるかもしれません」
「変わった兄さんだ」
商人は呆れたように笑うと、荷台の隅を指差した。
「ちょうどそっち方面に行くところだ。一人だと道中も物騒だし、手が空いてるなら、荷物運びでも手伝ってくれや。乗せてってやるよ」
思いがけない申し出に、悠人は迷わず頷いた。
「助かります。あの、お名前を伺っても」
「名乗るほどのもんじゃないさ。この辺りじゃ、みんな『商人のおっさん』で通じるくらいだからな」
商人は豪快に笑うと、荷台の空いた場所を顎で示した。乗り込みながら、悠人はふと尋ねた。
「戦争が終わって半年も経つのに、どうしてこんなに、街道の様子が荒れたままなんですか」
「整備したくても、人も金も、根こそぎ足りてないのさ。国の連中は王都の立て直しで手一杯だし、こんな地方の街道にまで、手が回るのは、まだまだ先の話だろうな」
その言葉に、悠人は静かに相槌を打った。
派手な魔法も、劇的な奇跡も、この世界の傷を一瞬で癒してはくれない。
それは、当たり前のことのはずなのに、妙に重く胸に響いた。
荷馬車の荷台に揺られながら、悠人は流れていく荒れた景色を眺めた。
焼け跡も、崩れた橋も、まだそこかしこに残っている。
荷台が石畳の段差を跨ぐたびに、がたごとと体が揺れ、砂埃の匂いが鼻をかすめた。
世界は、確かにまだ傷ついたままだ。
けれど。
(誰も知らない場所に、何があるのか見てみたい)
その気持ちだけは、異世界に来ても変わらなかった。
むしろ、この世界に来てから、その気持ちは以前よりも強く、鮮やかになっている気さえした。
勇者としてではなく、ただの一人の旅人として。
悠人を乗せた荷馬車は、傷跡の残る道を、港町ポルテナへ向けてゆっくりと進み始めた。




