第29話 凍っていたもの
長老は、ゆっくりとした足取りで泉へと歩み寄った。誰も、声をかけることができなかった。
澄んだ水面に映る自分の姿を見つめながら、長老はしばらくの間、微動だにせず立ち尽くしていた。
風が止み、光の粒だけが、静かに彼の周りを漂っている。
「……何年ぶりだろうな。ここに、まともに近づけたのは」
やがて漏れた声は、これまでの張り詰めた威厳とは違う、どこか老いた一人の父親のものだった。
「息子が最後に守ろうとした場所だ。だが、我自身は、ここに来る勇気がずっと持てなかった」
長老は水面にそっと手を浸し、目を閉じた。
「悲しみを見ないふりをして、掟という盾の後ろに隠れていただけだったのかもしれん」
「……」
「精霊が、泣いているのは、感じていた。だが、それが我らへの恨みなのか、嘆きなのかも確かめず、遠ざけ続けてきた」
悠人は、静かに口を開いた。
「あの精霊は、エルフの皆さんだけでなく、ここで亡くなった人間たちのことも、悼んでいました」
「……人間、も?」
「はい。全部を見ていたから、全部が悲しかったんだと思います」
長老は、しばらく黙り込んだ。その肩が、微かに揺れている。
「あの夜の後、我らは、討ち果たした人間どもを、森の外れに、ただ埋めただけだった。墓標の一つも、立ててはやらなかった」
「……」
「許すことはできん。今でも、そうだ。だが、あの者たちにも、帰りを待つ家族がいたのかもしれんと、今日、初めて思った」
長老は、泉の傍らに立つ焼け焦げた大樹に、そっと手を触れた。よく見ると、その根元から、小さな緑の芽が、いくつも顔を出している。かつてこの泉のそばで、あの光る果実を実らせていた木々の、若い命だった。
「お前たちが、掟を破ってまで、ここに来た理由が分かった気がする」
長老はゆっくりと振り返り、悠人をまっすぐに見据えた。
「見返りを求めた様子もない。ただ、荒れたこの場所を、放っておけなかった、それだけなのだろう」
「はい。それ以上でも、以下でもありません」
悠人は正直にそう答えた。
「長老様の悲しみを、消し去ることができるとは思っていません。ただ、この場所だけでも、少しでも綺麗にできたらと、そう思っただけです」
長老は、静かに頷いた。
「セレアの処罰は、取り消す。あの子は、悪意を持って掟を破ったわけではあるまい」
「ありがとうございます……!」
背後から、隠れて様子を窺っていたらしいセレアの声が上がった。目には、うっすらと涙が浮かんでいる。長老は苦笑しながら、彼女の方を一瞥した。
「まったく、危なっかしい奴だ」
それから、長老は再び悠人たちに向き直った。
「すべての掟を、すぐに変えるつもりはない。長年積み重ねてきた警戒には、それだけの理由がある」
「分かっています」
「だが……近く、妖精の夜祭りがある。今年は、特別に、お前たちをその末席に招くことを許そう」
その言葉に、悠人は思わず息を呑んだ。
「よろしいんですか」
「森を見物させてやる、という話ではない。あくまで、この泉を清めてくれたことへの、礼のつもりだ」
長老の声には、まだわずかな硬さが残っていた。それでも、確かにそこには、以前にはなかった小さな歩み寄りがあった。
「森のすべてを、簡単に受け入れられるようになったわけではない。だが」
長老は、光の粒が舞う泉に、もう一度目をやった。
「凍っていたものが、少しだけ、溶けた気がする」
その一言を最後に、長老は静かに森の奥へと戻っていった。
残された悠人たちは、しばらくの間、言葉もなくその泉を見つめ続けていた。
「――やったな」
リゼットが、珍しく柔らかい声でそう呟いた。
セレアが、堪えきれずに、悠人たちのもとへ駆け寄ってきた。
「ありがとうございます、本当に……!長老様が、あんな風に泉に触れる姿、私、初めて見ました」
「僕たちは、瓦礫を運んだだけですよ」
「それでも、です。あの、夜祭りには、私が案内しますから。楽しみにしていてくださいね!」
セレアは、涙を拭いながら、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、初めて会った夜よりも、ずっと晴れやかだった。
悠人は静かに頷きながら、まだ夢を見ているような、不思議な満足感に包まれていた。泉のほとりで、光の粒が、祝福するように静かに舞っていた。




