第20話 湯気の向こうに
バロックが約束した「ひと月後」まで、悠人は街の湯を一つ一つ巡って過ごしていた。
きっかけは、フィンの古い地図だった。山の中腹から街へ向かって、細い水路が幾筋にも分かれて描かれている。その先端に打たれた小さな印を辿っていくと、魔力温泉の他にも、いくつもの源泉が、手つかずのまま眠っていることが分かったのだ。
「これ、全部、湯が湧いてるってことですか?」
「地図の記録が正しければな。ただ、どれも今は誰も使ってない。水路が詰まってて、湯守もいなくなってたからな」
悠人は、フィンとリゼットを連れて、その源泉を一つずつ確かめて回った。
最初の源泉は、乳白色に濁った、穏やかな湯だった。湯の香りは柔らかく、手で掬うと、ほんのりとした硫黄の匂いが立ちのぼる。指先で肌に馴染ませると、すべすべとした感触が残った。
「これは、単純硫黄泉ですね。肌当たりが優しくて、女性に人気の湯です」
「詳しいな、お前」
「温泉が趣味なので」
二つ目の源泉は、鼻を刺すような酸っぱい匂いのする、透明な湯だった。恐る恐る指先をつけたリゼットが、顔をしかめる。
「……ちょっと、ぴりぴりするぞ」
「酸性硫黄泉です。殺菌作用が強くて、小さな切り傷や古傷にいいんですよ。沁みるのが難点ですけど、傷の多い冒険者や元兵士の方には、きっと喜ばれます」
三つ目の源泉に近づくと、思わずフィンが顔を背けた。強烈な、腐った卵のような匂いが、辺り一面に漂っている。
「ひどい匂いだな……」
「硫化水素泉です。この匂いが、まさに湯の力の証拠なんですよ。血の巡りをよくするので、年配の方の療養向きです」
悠人は、目を輝かせながら、三つの湯の特徴を指折り説明した。そこに、魔力の光を宿した湯を加えれば、この谷には、四つもの異なる湯が揃っていることになる。
「――つまり、お客さんごとに、入ってもらう湯を変えられるってことか」
リゼットが、感心したように呟いた。
「はい。女性のお客さんには単純硫黄泉、傷の多い冒険者さんには酸性硫黄泉、ご年配の方には硫化水素泉。その日の気分で、光る魔力温泉を楽しんでもらうこともできます」
街に戻って、ノアとエミルにその話をすると、二人は目を丸くした。
「そんなに、種類があったなんて……祖母も、知らなかったと思います」
「湯守の日誌に、それぞれの源泉の記録が残っていました。ただ、活用する余裕がなかったんだと思います」
ノアは、しばらく黙り込んだ後、目を潤ませながら顔を上げた。
「悠人さんは、いつも、私たちが見えていないものを、見つけてくださるんですね」
「たまたま、知識があっただけです」
「それでも……本当に、ありがとうございます」
ノアは、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。その隣でエミルも、少し拗ねたように唇を尖らせながら、悠人の袖を軽く引いた。
「あの、悠人さん。新しい湯に合わせた料理も、私に考えさせてください。傷に効く湯には力のつく煮込み、年配の方の湯には、消化に優しい粥とか……」
「それは素敵ですね。ぜひお願いします」
「――はい!」
エミルは、満面の笑みで頷いた。
最初に、新しい湯に入ったのは、ガレンだった。
「……酸性硫黄泉、とか言ったか」
貸切の湯船に足を浸した彼は、顔をしかめながらも、じっと湯に身を沈めた。
「沁みやがる。だが……悪くない」
その一言が、悠人にとっては何よりの報酬だった。
そして、約束の日。街道の向こうから、荷馬車の列が近づいてくるのが見えた。
「言った通りだろう。空荷じゃ来ない、ってな」
得意げに笑うバロックの荷台には、石鹸や布地に加えて、旅の身なりをした数人の客の姿もあった。
「街道沿いで噂を聞いてな。一緒に乗せてきてやったんだ。……ほう、湯を四種類、売り分けるのか。客層ごとに狙いを絞れるのは、商売として面白い」
バロックは、悠人の説明を聞くなり、目の色を変えた。
「次に来るときは、もっと大勢連れてくるぞ」
その夜、久しぶりに賑わう宿の食堂で、悠人たちは旅立ちの相談をしていた。
「そろそろ、次の街に向かおうと思います。せっかくなら、ポルテナに寄って、あちらの様子も見てみたいんです」
「それはいいな。あの偏屈じじいが、どうなったか気になる」
リゼットが珍しく楽しそうに笑った。
翌朝、悠人たちは、見送りに出てきたノアとエミル、そしてガレンに手を振りながら、湯気の立ち上る街を後にした。
「また来てくださいね、絶対に!」
ノアの声が、遠くまで響いていた。エミルも、大きく手を振りながら、何度も何度も、悠人の名前を呼んでいた。
「……あの二人、随分と別れを惜しんでたな」
「そうですね。いい人たちでした」
悠人が何の疑問もなくそう答えると、リゼットは、なぜか呆れたような、それでいて少しだけ安心したような、複雑な顔をして、そっぽを向いた。
振り返ると、朝日を浴びた温泉街が、以前よりずっと生き生きとした表情で、悠人たちを見送っていた。
次の目的地は、久しぶりのポルテナ。そして、その先に広がる、まだ見ぬ景色だった。




