第19話 湯に入れない男
「最近、山の方でよく見かける人がいるんです」
バロックが去って数日後、洗濯物を干しながら、ノアがふと漏らした。
「一人で暮らしている方なんですけど……昔は、よくうちに泊まりに来てくれたお客さんで」
ノアの話によれば、その男は戦争で足を負傷し、除隊してからは町の外れの小屋に一人で住んでいるのだという。
「湯には、一度も浸かりに来てくれないんです。すぐそこまで、来てくれることはあるんですけど」
洗濯物を干すノアの手が、ほんの少しだけ止まった。
「祖母が生きていた頃は、あの方が来るのを、いつも楽しみにしていました。『ガレンさんは、湯の入り方を本当によく分かってる人だ』って」
「そんなに、常連さんだったんですね」
「はい。だから、今の様子が、どうしても気がかりで……」
気になった悠人は、翌日、散歩がてらその小屋を訪ねてみることにした。
町外れの小屋は、山の斜面に寄り添うように建てられていた。屋根には、雨漏りを防ぐために継ぎ当てされた板が何枚も重なっている。小屋の前には、松葉杖を脇に置いた男が、ぼんやりと湯気の立つ街を見下ろしていた。片足を、大きく引きずるようにして立っている。
「――何の用だ」
声をかける前から、男は不機嫌そうにこちらを見た。
名をガレンといい、その口ぶりには、明らかな拒絶が滲んでいた。日に焼けた顔には、深い皺が刻まれ、両の腕には、古い切り傷がいくつも走っている。
「湯が戻ったと聞いて、見に来ただけだ。それだけで、文句があるか」
「いえ、そういうわけでは。ただ、よろしければ、湯に浸かっていかれませんか」
「――余計なお世話だ」
ガレンは吐き捨てるように言うと、松葉杖に体重を預けた。
「こんな足で、湯に入って何になる。それに、まともに歩けもしない姿を、見せ物にしろってのか」
「見せ物になんて――」
「お前に何が分かる」
鋭い声だった。悠人は思わず口をつぐんだ。
「戦友は何人も死んだ。俺だけが、こんな体で生き残った。それなのに、街は湯が戻った、良かった良かったと、まるで何もなかったみたいに浮かれてやがる」
その言葉には、怒りだけでなく、深い疲労と、行き場のない悲しみが滲んでいた。
悠人は、何か気の利いた言葉を返そうとして、やめた。安易な励ましは、この人には届かない。そう感じたからだ。
「……分かった、なんて言いません。僕には、想像することしかできませんから」
しばらくの沈黙が流れた。風に乗って、麓の街から、微かに湯の匂いが届いてくる。
「ただ、この湯を直したのは、あなたのような人のためでもあると、僕は思っています。祭りに浮かれるためだけじゃなくて」
「――どういう意味だ」
「戦争で傷ついた体を、少しでも楽にするための湯治って、この世界にもあるんじゃないですか。少なくとも、僕のいた場所には、そういう温泉がたくさんありました」
悠人の脳裏には、旅先で訪れた、いくつもの古い湯治場の光景が浮かんでいた。傷や関節の痛みに効くと言われる湯には、それぞれ異なる性質があった。この山の湯にも、きっと同じように、傷ついた体を癒す力を持つ泉質が、眠っているはずだ。
ガレンは何も答えなかった。だが、その視線は、街の方角にしばらく留まっていた。
悠人はそれ以上、何も言わずに小屋を後にした。無理に答えを引き出そうとは思わなかった。
数日後、ノアが少し興奮した様子で悠人に耳打ちしてきた。
「あの、ガレンさんが……人目の少ない、貸切のお風呂を借りたいって、いらっしゃったんです」
「――そうですか」
悠人は静かに頷いた。それは、決して大きな変化ではないのかもしれない。それでも、確かな一歩だった。
ノアは、貸切風呂の支度をしながら、何度も目を潤ませていた。祖母の代からの常連が、ようやく戻ってきてくれたのだ。
「悠人さんのおかげです。本当に……ありがとうございます」
ノアは、悠人の手を両手でそっと握りしめ、しばらく離さなかった。その頬が、湯気のせいか、ほんのりと赤く染まっている。
「僕は何もしていません。ガレンさんが、自分で決めたことですよ」
悠人が不思議そうに首を傾げると、ノアは慌てて手を離し、「そ、そうですよね!」と誤魔化すように笑った。悠人には、その理由が、さっぱり分からなかった。
誰もがすぐに元気になれるわけではない。傷は、そう簡単には癒えない。
それでも、その人なりの速さで、少しずつ前を向けるように。
悠人は、そんな場所を、これからも見つけていきたいと思った。




