第18話 商人バロック
湯が戻ってから数日が経った頃、街道の向こうから、久しぶりに荷馬車の車輪の音が聞こえてきた。
「お客さんかしら……いえ、あれは」
ノアが窓の外を覗きながら首を傾げた。
到着したのは、幾つもの荷車を連ねた、規模の大きな商隊だった。先頭の馬車から降りてきたのは、恰幅の良い、如才なさそうな笑みを浮かべた中年の男だった。革の上着には、あちこちに土埃がこびりつき、長旅の跡がありありと見て取れる。
「いやはや、噂は本当だったか。カルデナの湯が戻ったと聞いてな、様子を見に来たんだが」
男は懐から取り出した手拭いで額の汗を拭いながら、街道の先を見やった。街まで急いで馬を走らせてきたのだろう、額には、まだ玉のような汗が浮かんでいる。
男は名をバロックといい、この辺り一帯を回る行商人の元締めだった。
「戦前は、うちの商会もこの街に定期的に品を卸してたんだがね。湯が涸れてからは、さっぱり寄り付かなくなっちまった」
「今は、様子見にいらしたんですか」
「まあな。ただの噂話に、大事な荷を持ってくるほどお人好しじゃない。商売ってのは、まず自分の目で確かめてからだ」
バロックはそう言いながらも、興味深そうに街の様子を見回していた。湯気の立つ露天風呂、修繕中の宿の看板、久しぶりに賑わい始めた通り。その視線は、値踏みするように一軒一軒を丁寧に辿っていく。
「――なるほどな。この様子なら、多少は張り込む価値がありそうだ」
「張り込む?」
「商売の話さ。今は空荷同然だが、次に来るときは、風呂上がりに合う石鹸だの、湯治客向けの土産物だのを積んでこよう」
悠人がその手際の良さに感心していると、バロックはふと悠人の方に目を向けた。
「そういうお前さんは、何者だ。旅の商人には見えないが、この街の再建に一枚噛んでるって噂だぞ」
「相良悠人といいます。旅をしながら、面白い場所を見つけて回っているだけの者です」
「面白い場所、ねえ」
バロックは、値踏みするような目つきで、頭のてっぺんから足の先まで悠人を眺め回した。
「特に商売をしているわけではないんです。ただ、面白い場所を見つけたら、放っておけない性分で」
「儲けにもならんことに、随分と精を出すもんだな」
バロックは呆れたように笑ったが、その目には、どこか値踏みするような色も見えた。
「まあいい。悪い人じゃなさそうだ。おい、そこの姉ちゃん」
バロックがエミルの食堂の方を指差した。
「湯たまごを名物にしたいなら、大鍋と、香辛料の一つも仕入れた方がいいぞ。今度、うちの荷に混ぜて持ってきてやろう」
「本当ですか! ぜひお願いします!」
エミルは、両手を胸の前で握りしめながら、目を輝かせた。
「香辛料が揃ったら、新しい味も試してみたいんです。悠人さんに、真っ先に食べてもらいますね」
「楽しみにしてます」
悠人が素直にそう答えると、エミルは頬を緩ませたまま、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。その横で、ノアも遠慮がちに口を開いた。
「あの、うちの宿も、お布団と、あと石鹸を……」
「分かった分かった、まとめて見積もってやるよ」
バロックは懐から使い込まれた帳面を取り出し、慣れた手つきで、それぞれの注文を書き留めていく。面倒見が良いのか、単に商機に敏いだけなのか、次々と話をまとめていく様子は、どこか職人的でもあった。
「次に来るのは、ひと月後だ。それまでに、しっかり客を呼び込んでおけよー!」
そう言い残すと、バロックは意気揚々と荷馬車に乗り込み、街を後にした。土煙を上げながら遠ざかっていく荷馬車を、街の人々は、期待の眼差しで見送っていた。
「――なんというか、忙しない人ですね」
「ああいうのが、地に足のついた商売人ってやつだ。損得抜きで動く俺たちとは、また違う種類の頼もしさだな」
リゼットが呟いた言葉に、悠人は思わず笑った。旅を通して出会う人々は、一人として同じ顔をしていない。それが、たまらなく面白いと思えた。
エミルは、遠ざかる荷馬車を見送りながら、まだどこか夢見心地の様子で、湯たまごの殻を握りしめていた。




