第17話 最後の書き置き
翌朝、三人は日の出とともにカルデナを出発した。
山道は、フィンの地図にある道とは似ても似つかないほど荒れ果てていた。焼け焦げた木々、崩れた石垣、大きく抉れた地面。かつての激戦を物語る痕跡が、そこかしこに残っている。時折、錆びついた武具の破片が、下草の中から覗いているのが見えた。誰も回収に来なかったのだろう。
道中、フィンは何度も足を止め、変わり果てた地形を新しい地図に描き直していった。「ここも違う、ここも違う」と呟く声には、悔しさと、それでも記録し続けようとする執念が滲んでいた。
「この辺りに湯守の詰所が……あった」
半日ほど歩いたところで、フィンが指し示した先には、屋根の半分が崩れ落ちた小屋があった。中を覗くと、埃をかぶった道具や、朽ちかけた机が、時間が止まったままの様子で残されていた。壁には、几帳面な字で書かれた点検表が、色褪せたまま貼られている。
「水路は、この裏手のはずだ」
小屋の裏へ回ると、山肌に掘られた石造りの水路が続いていた。だが、その途中で大きく岩が崩れ落ち、完全に流れを塞いでしまっている。
「これは……人の手で崩れたっぽいな」
リゼットが崩落した岩を叩きながら呟いた。
「戦の最中、この辺りに魔法か何かの余波が届いたんだろう。詰所を放棄したのも、それが理由かもな」
水路の隙間から、小動物のような魔物が数匹、警戒するように顔を覗かせた。リゼットが軽くあしらうと、あっさりと逃げていく。
「よし、俺たちだけでも、動かせそうな岩から片付けるか」
三人がかりで、崩れた岩を一つずつ運び出していく。小さな石は手で、大きな岩はリゼットが力任せに転がし、フィンが隙間に木の棒を差し込んで梃子代わりにした。
地味で、根気のいる作業だった。汗が滴り、腕は悲鳴を上げていたが、誰も手を止めようとはしなかった。それでも、少しずつ水路の隙間が広がり、やがて、堰き止められていた水が、勢いよく流れ出した。
「――出た!」
悠人が思わず声を上げた。透き通った湯気の立つ水が、山肌を伝って、麓の街の方角へと流れていく。三人は、しばらくその流れを、言葉もなく見つめていた。
作業を終え、崩れた机の引き出しを何気なく開けたフィンが、ふと手を止めた。
「……日誌、か」
中から出てきたのは、ぼろぼろになった一冊の帳面だった。読める箇所を辿ると、そこには几帳面な字で、湯量の記録や、水路の手入れについての覚え書きが、几帳面に綴られていた。何十年分もの、細かい数字と気づきの積み重ねだった。
そして、最後のページには、こう記されていた。
『召集の知らせが来た。心残りは水路の点検が済んでいないことだ。戻ったら、まずそこから直そう。街のみんなが、また安心して湯に入れるように』
それきり、日誌の続きはなかった。
しばらくの沈黙の後、悠人はそっと日誌を閉じた。胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。会ったこともない誰かの、果たされなかった約束が、今ここで、ようやく引き継がれた気がした。
「――ちゃんと、直りましたよ」
誰に向けてでもなく、悠人は静かにそう呟いた。
山を下りる頃には、日が傾き始めていた。だが、三人の足取りは、来たときよりもずっと軽かった。
街に近づくにつれ、あちこちの湯気の勢いが、明らかに増しているのが分かった。
「戻ったぞ!湯が、湯が戻ってきた!」
通りで誰かが叫ぶ声が聞こえる。悠人たちが宿に着く頃には、ノアが目を潤ませながら、飛び出すように出迎えてくれた。その後ろから、エミルも前掛け姿のまま駆けつけてきて、二人で顔を見合わせ、声を上げて喜び合っていた。
「ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます!」
ノアがそう言うと、エミルも大きく頷いた。
「これで、湯たまごも、もっとたくさん作れます。本当に、何とお礼を言ったら」
「お礼なら、その湯たまごを、また食べさせてもらえたら十分です」
悠人が笑ってそう答えると、エミルは嬉しそうに、それでいてどこか照れくさそうに、頷き返した。
その声に、悠人は静かに頷きながら、懐にしまった古い日誌に、そっと手を添えた。




