第16話 湯守のいない山
その夜、悠人は宿の湯に浸かりながら、昼間のエミルの言葉を思い返していた。
硫黄の香りに混じって、微かに甘い花の匂いがする湯だった。この谷全体に漂う独特の匂いは、単なる硫黄泉だけでなく、いくつもの異なる泉質の湯が、複雑に入り混じっているからなのかもしれない――ふと、そんなことを考えながら、悠人は湯に肩まで沈んだ。
「設備の問題、か……」
翌朝、朝食の席でその話をノアに振ってみると、彼女は少し考え込んでから、思いがけないことを口にした。
「実は、宿のお湯も、祖母が生きていた頃より、だいぶ量が減っているんです」
「量が減っている?」
「はい。昔はもっと勢いよく湧いていたはずなんですけど……原因までは、私にも分からなくて」
朝食後、フィンが持参の古い地図と見比べながら唸った。地図には、細かい書き込みで、いくつもの源泉の位置が記されている。
「この地図だと、山の中腹に『湯守の詰所』という記載がある。おそらく、源泉から街まで湯を引く水路を管理してた場所だろうな」
「湯守、ですか」
「温泉街には大抵、そういう役目の人がいるもんさ。水路の掃除や、湯量の調整をする専門職だ。それに、この山には源泉が一つじゃないらしい。泉質ごとに、細かく水路が分かれてたみたいだぞ」
だが、今その詰所に人がいる様子はないという。ノアに尋ねると、答えは予想通りのものだった。
「先代の湯守さんは、戦争中に山向こうの砦へ徴用されて……そのまま、戻ってきていません」
湯守がいなくなって以来、水路の点検も手入れもされないまま、放置されているのだという。
祖母が生きていた頃は、まだ細々と自分たちで手入れを続けていたそうだが、半年前に祖母が亡くなってからは、それすらも滞ってしまっていたらしい。
「じゃあ、今の湯量が減ってるのは」
「水路のどこかが、詰まってるか、壊れてるかもしれない、ってことですね」
フィンの言葉に、悠人はテーブルの上で拳を握った。
「見に行けますか、その詰所」
「地図上はここから半日ほどの距離だ。ただ……」
フィンは表情を曇らせた。
「戦時中、あの辺りは激戦区だったらしい。地形も相当変わってるだろうし、魔物が住み着いてる可能性もある」
「だったら、俺が行くしかないだろうな」
リゼットが当然のように口を挟んだ。
「探索なら任せろ。それに――」
珍しく、彼女は少し言いよどんだ。
「この街の湯が戻れば、この宿の女将も、あの食堂の姉ちゃんも、少しは救われるだろう。悪い話じゃない」
その言葉に、悠人は思わず目を丸くした。以前のリゼットなら、決して口にしなかったであろう一言だった。
「フィンさんも、山の地図を作り直せますね」
「もちろんだ。誰も足を踏み入れてない場所を歩けるなんて、地図屋冥利に尽きるってもんさ。それに、源泉がいくつもあるってことは、まだ他にも、使われていない湯が眠ってるかもしれないぞ」
その一言に、悠人の胸が小さく高鳴った。
魔力で光る湯だけでなく、この山には、まだ知られていない泉質の湯が、いくつも隠れているのかもしれない。
硫黄の匂いにも、微妙に違う種類があると聞いたことがある。もし本当に複数の源泉があるなら、それぞれの湯の性質に合わせて、使い方を変えられるのではないか――そんな考えが、頭の片隅をかすめた。今はまだ、漠然とした思いつきに過ぎなかったが。
ノアは心配そうな顔をしながらも、深く頭を下げた。
「危険な思いをさせてしまって、申し訳ないんですけど……どうか、お願いします」
その隣で、エミルも心配そうに眉を寄せていた。
「無茶だけは、しないでくださいね。あなたに何かあったら、私……その、この町全体が困りますから」
最後の一言だけ、なぜか少し早口になっていたことに、当のエミル自身も気づいていない様子だった。
「そんな大袈裟な…でも、任せてください。明日、出発しましょう」
悠人がそう答えると、窓の外では、山の稜線に夕日がゆっくりと沈んでいくところだった。谷全体が、燃えるような橙色と、立ち上る白い湯気に包まれている。
まだ見ぬ山の奥に、この温泉街を蘇らせる鍵が眠っている。そんな予感が、悠人の胸の中で静かに膨らんでいた。




