第15話 湯たまごの店
「お昼でしたら、ぜひ寄っていただきたい場所があるんです」
朝食の片付けをしながら、ノアがそう教えてくれた。
「大きな店じゃないんですけど……この辺りの名物を、今も作ってる方がいて」
案内されたのは、通りの外れにある、こぢんまりとした食堂だった。
半分ほど焼け焦げた壁に、新しい木材で継ぎ接ぎされた跡が残っている。
営業中の札は出ているものの、店の中に他の客の姿はなかった。店先の脇では、地面の割れ目から白い湯気が勢いよく噴き出し、その上に、竹で編んだ籠がいくつも吊るされている。
「いらっしゃい……って、お客さんなんて、久しぶりだね」
厨房から顔を出したのは、悠人と歳の近そうな女性だった。
短く切りそろえた黒髪を手ぬぐいでまとめ、袖をまくった腕は、日々の仕事で鍛えられたのか、意外なほど引き締まっている。
名をエミルといい、この店の――正確には、かつてこの店を営んでいた家族の、たった一人の生き残りだった。
「うちの名物は、湯たまごです。この辺りの温泉には、ちょうど半熟に仕上がる温度の湯脈があって、店先で蒸すんですよ」
エミルは店先へ出ると、湯気の中から竹籠を一つ引き上げ、卵を布巾の上に転がしてみせた。
「時間は、この砂時計で測るんです。あと十秒早くても遅くても、ダメでね」
長年、火と湯を相手にしてきた人の、迷いのない手つきだった。
運ばれてきたのは、殻のまま出された温泉卵と、それを使った簡単な丼だった。白身はとろりと柔らかく、黄身は濃厚で、ほんのりと甘い。そこに、特製だという醤油だれが、香ばしく絡んでいる。一口食べた瞬間、悠人は思わず声を上げた。
「これは……美味しいです。すごく」
「そりゃどうも」
「白身の固まり具合が絶妙ですね。黄身が濃いのに、全然くどくない。それに、このたれ、ほんの少し山椒が入ってますか?」
悠人が夢中で感想を述べると、エミルは目を丸くして、思わず手を止めた。
「……よく分かったね。うちの親父が、こっそり隠し味にしてた奴なのに」
「食べ歩きが趣味なんです」
「へえ。そういう風に美味そうに食べてくれる人、久しぶりに見た」
エミルは照れくさそうに笑い、視線を逸らした。ほんの少しだけ、頬が赤い。だが、その表情には、どこか陰りもあった。
「もっとも、親父の作ってたものには、まだ全然及ばないんですけどね」
「お父さんも、この店を?」
「ええ。私はまだ見習いみたいなもんで、色々仕込まれてる途中だったんです。……戦争で、店ごと焼かれちゃって。親父もその時に」
エミルは淡々とした口調でそう語った。感情を押し殺しているというより、もう何度も同じ話をしてきたような、そんな慣れた語り口だった。
「それでも、店を続けてるんですね」
「他に、やれることもないんでね。それに」
エミルは厨房の方に目をやった。
「この味を覚えてる人が、まだこの町に何人かいるんですよ。たまに、懐かしいって顔をしに来てくれる年寄りもいる。それだけで、まあ、続ける理由には十分です」
リゼットとフィンも、それぞれ湯たまごの丼を平らげ、満足げに頷いていた。
「これだけの味なのに、客が少ないのは、正直もったいないな」
フィンがぽつりと漏らした一言に、悠人は思わず反応した。
「僕も、同じことを思いました」
「またそれか」
リゼットが呆れたように肩をすくめたが、その口調に、以前のような拒絶の色はもうなかった。
ただ、悠人とエミルのやり取りを横目で眺めるその表情は、なぜか少しだけ、不機嫌そうにも見えた。当の本人は、その理由を、まったく自覚していないようだったが。
食後、会計をしながら、悠人はエミルに尋ねた。
「もし、この店にもっとお客さんが来るようになったら、うれしいですか」
「そりゃ、うれしいに決まってるでしょう。ただ……」
エミルは少し言葉を濁した。
「今の設備じゃ、正直、大勢のお客さんを相手にする自信がないんですよね。鍋も足りないし、竈も古いままで。私一人じゃ、手も回らないし」
その一言に、悠人は小さく頷いた。すぐに答えの出る話ではない。だが、確かに一つ、次に考えるべき課題が見えた気がした。
店を出る間際、エミルが暖簾の陰から、小さく手を振ってくれた。「また、食べに来てね」という声が、なぜか悠人の耳に、いつまでも残っていた。




