第14話 しずく屋
「本当に、お客さんが来てくださるなんて……!さあ、どうぞ中へ!」
女性は箒を放り出す勢いで駆け寄ってくると、三人を旅館の中へと案内した。
名をノアといい、この「しずく屋」の若き女将なのだと、恥ずかしそうに自己紹介してくれた。
館内は決して広くはなかったが、隅々まで丁寧に手入れされているのが分かった。
木の廊下は磨き込まれ、生けられた花は水々しい。人が来ない宿だからこそ、その手入れの丁寧さが、かえって切なく映った。
廊下の壁には、古い宿帳や、色褪せた湯治客の礼状が、丁寧に額装されて並んでいる。
「こんな時期に、旅の方がいらっしゃるなんて、二年ぶりです」
案内された部屋で荷を解きながら、ノアが淹れてくれたお茶をすすると、悠人はふと尋ねた。
「二年間、お客さんが誰も来なかったのですか?」
「はい……。戦争が始まってからずっと、湯治に来られる方も、観光の方も、めっきりいなくなってしまって」
ノアは苦笑いを浮かべながら、宿の来歴を語ってくれた。
この宿は、彼女の祖母の代から続く老舗だったこと。かつては大陸中から客が訪れ、湯煙の絶えない賑やかな街だったこと。
だが、戦争が始まると客足は途絶え、多くの宿が次々と店を畳んでいったこと。
「祖母は、それでも最後まで宿を続けていました。『いつかまた、お客さんが戻ってくる』が口癖で」
「今は、ノアさんお一人で?」
「半年前に、祖母が亡くなりまして……。それからは、私一人です」
その口調は静かだったが、悲しみを押し殺しているようにも聞こえた。
「正直、何度も畳もうかと思いました。お客さんは来ないし、一人で管理するのも大変ですし」
「それでも、続けているんですね」
「祖母が大事にしていた場所を、私の代であっさり手放すのは……なんだか、悔しくて」
ノアはそう言って、はにかむように笑った。
「素敵だと思います。誰も来ない宿を、毎日こんなに丁寧に磨き続けるなんて、なかなかできることじゃありません、凄いです!」
悠人が何気なくそう言いノアの手を取ると、ノアは一瞬きょとんとした後、みるみるうちに耳まで赤くなった。
「そ、そんな、当たり前のことをしているだけで……。あの、お夕食の支度をしてきますね!」
慌てたように部屋を出ていくノアの背中を見送りながら、悠人は首を傾げた。
「急にどうしたんでしょうね、ノアさん」
「……お前、本当に鈍いな」
リゼットが、呆れたようにぼそりと呟いた。だが、その意味を、悠人はさっぱり理解できていなかった。
夕食は、ありあわせの野菜と干し肉を使った質素なものだったが、味付けは丁寧で、旅の疲れが染み渡るようだった。
リゼットは黙々と箸を進めていたが、気がつけば、二杯目のおかわりまで平らげていた。「別に、腹が減ってただけだ」と、聞かれてもいないのに言い訳をする姿が、少しだけ可笑しかった。
「せめて、湯だけでも楽しんでいってください。ここの湯は、この辺りでも一番良いと、祖母がよく自慢していましたから」
案内された露天風呂は、確かに素晴らしいものだった。
岩を組んで作られた湯船からは、白い湯気がゆらゆらと立ち上り、湯の表面には、時折ほのかな青い光の粒が、蛍のように浮かんでは消えていく?魔力温泉特有の現象なのだという。夜空の下、その湯に肩まで浸かりながら、悠人は思わず声を漏らした。
「これは……本当に、もったいない」
「もったいない?」
隣で湯に浸かっていたフィンが首を傾げる。
「こんなに良い温泉なのに、誰も知らないままなのが、です」
空を見上げると、満天の星が広がっていた。硫黄の匂いさえも、今は心地よく感じられる。
壁の向こうの女湯からは、湯を使う音と、ノアの小さな鼻歌が、かすかに聞こえてくる。
誰かのために準備された湯に浸かる幸せを、この宿はずっと、待ち続けていたのだろう。
悠人の中で、港町で芽生えたばかりのあの感覚が、再びゆっくりと動き始めていた。
翌朝、ノアは宿帳を取り出し、久しぶりに埋まったページを、嬉しそうに何度も見返していた。
「また来てくださる方が、増えるといいんですけど」
その呟きに、悠人は静かに頷いた。
(――このお湯を、もっとたくさんの人に)
まだ何の当てもない。それでも、確かな予感だけが、胸の中で膨らんでいった。




