第13話 湯煙の消えた街
山道を登るにつれ、空気にほのかな硫黄の匂いが混じり始めた。
「この硫黄の匂い……間違いなく温泉ですね」
悠人が思わず頬を緩めると、フィンが地図から顔を上げて苦笑した。
「気が早いな。まだ着いてもいないのに」
「温泉の匂いがしたら、もう半分着いたようなものですよ」
「意味が分からん」
リゼットは呆れたように首を振ったが、その足取りは、どこか楽しげにも見えた。
道端には、苔むした小さな石仏や、色褪せた道標が点々と並んでいる。かつて湯治客が、この山道を何度も行き来したのだろう。
道の脇には、湯気を立てる小さな水たまりがいくつもあり、岩肌には黄色い結晶がこびりついていた。足元の石は、靴底越しにもほんのり温かく、山そのものが呼吸しているかのようだった。
やがて視界が開け、谷間に広がる街並みが見えてきた。あちこちから立ち上る白い湯煙は、遠目には確かに幻想的だった。
だが、近づくにつれ、その印象は少しずつ違ったものに変わっていった。
かつては旅館だったらしい建物の多くが、雨戸を閉ざしたまま静まり返っている。案内板には「大浴場」「貸切露天」といった文字が読み取れるが、肝心の建物は蔦に覆われ、朽ちかけていた。石造りの共同浴場らしき建物は、屋根の一部が崩れ落ち、湯船に瓦礫が積もったまま、湯気だけが虚しく立ち上っている。
「昔は、大陸中から湯治客が集まる街だったらしいぞ」
フィンが手元の古い地図を広げながら言った。
「この地図だと、通り沿いにびっしり宿が並んでる。だが……」
実際の通りには、営業している気配のある建物は数えるほどしかない。ひび割れた石畳の隙間から雑草が伸び、かつて賑わっていたであろう土産物屋の看板は、色褪せて文字も読めなくなっていた。
側溝には、温かい湯がちょろちょろと流れているが、それを楽しむ人の姿は、どこにも見当たらない。
「もったいないですね……」
悠人が思わず呟くと、リゼットが横目で見た。
「お前、またそれか」
「だって、こんなに温泉があるのに」
「魔力温泉、というのもあるんですよね」
「ああ。この山一帯は魔力が濃くてな、湯そのものがほのかに光る泉もあるらしい。……らしい、としか言えないのが悲しいところだが」
通りを進むうちに、日が傾き始めた。硫黄の匂いに混じって、夕方特有の少し冷たい風が肌を撫でる。谷間に落ちる影が、街全体をゆっくりと藍色に染めていった。
路地の奥から、痩せた三毛猫が一匹、こちらをじっと見つめていたが、悠人が手を伸ばそうとすると、ふいと物陰に消えてしまった。人の気配のない街で、それだけが、唯一の生き物の気配だった。
「今夜の宿、見つかりそうか」
リゼットの問いに、悠人は辺りを見回しながら首を振った。開いている店はおろか、人の姿すらほとんど見当たらない。
「この様子だと、野宿も覚悟した方がよさそうですね」
「それは勘弁してほしいところだな」
リゼットが、外套の襟を立てながら顔をしかめた。山の夕暮れは、思いのほか冷える。
三人がそろって肩を落としかけたそのとき、通りの奥、他の建物よりも一回り小さな旅館の窓に、ぽつりと灯りが点っているのが見えた。
近づいてみると、看板には「湯宿・しずく屋」と書かれている。年季の入った木の看板だが、文字の部分だけは、誰かが丁寧に磨き続けているらしく、艶やかに光っていた。
二階建ての建物は、決して大きくはないものの、軒先には手入れされた鉢植えが並び、格子窓には清潔な白い障子が張られている。
周囲の荒れた景色の中で、そこだけが、時間の流れから切り離されたように、静かに息づいていた。
玄関先を、竹箒で丁寧に掃いている若い女性の姿があった。年の頃は二十歳前後だろうか。肩にかかる柔らかな栗色の髪を後ろで一つに束ね、藍染めの前掛けを身につけている。箒を動かす手つきは慣れたもので、その横顔には、どこか凛とした気品さえ漂っていた。
三人の気配に気づいたのか、女性がふと顔を上げる。
「あら……お客さん、ですか?」
その声には、驚きと、それを上回るくらいの、隠しきれない喜びが滲んでいた。箒を持つ手が、わずかに震えている。
悠人は、その表情を見て、思わず胸が詰まる思いがした。ずっと、誰かが訪ねてくるのを、待ち続けていた人の顔だった。




