第10話 二十戸の署名
署名集めは、思っていたよりずっと骨の折れる作業だった。
「船を直すための木材の話です」
悠人は一軒一軒、そう説明して回った。観光という言葉は、あえて出さなかった。
今必要なのは、綺麗な景色を見せることではなく、生活を取り戻すことだと分かっていたからだ。
「船が直るなら、そりゃありがたいが……本当に木材、もらえるのか」
最初に訪ねた家の主人は、半信半疑の様子だった。それでも、話を聞き終えると、渋々といった様子でサインをしてくれた。
次に訪ねた家では、痩せた老婆が、扉の隙間から警戒するように顔を覗かせた。
「余所者の話なんて、聞く耳持たないよ」
そう言って、そのまま扉を閉められそうになったが、リゼットが一歩前に出て、静かに言った。
「こいつは、そういう詐欺師じゃない。俺が保証する」
その一言で、老婆の手がぴたりと止まった。リゼットがこの町で、少なからず信頼を得ていることに、悠人は改めて気づかされた。
「前にも似たような話があったが、結局立ち消えになったんだよ」
別の家では、そう言われて断られかけた。
「今回は、僕とリゼットさんで、ちゃんと最後まで見届けます」
悠人がそう言うと、隣に立っていたリゼットが小さく頷いた。その一言に背中を押されたのか、住人はしぶしぶ署名に応じてくれた。
一軒、また一軒と回るうちに、少しずつ噂が広まっていった。
夕方になる頃には、十七戸分の署名が集まっていた。足は棒のようになり、喉もからからだったが、不思議と嫌な疲れではなかった。
「……意外と、悪くない仕事だな、これも」
道端の石段に腰を下ろしたリゼットが、珍しくそんなことを漏らした。
残るは、あと三軒。そのうちの一軒が、ドルンの家だった。
「――署名なんて、しない」
事情を話し終える前から、ドルンはにべもなく言い放った。
「あんたの好意はありがたいがな、余所者に世話になるのは、性に合わん」
「これは好意とか、そういう話じゃなくて――」
「同じことだ」
取り付く島もない様子に、悠人は言葉に詰まった。そのとき、家の奥から、ドルンの孫娘がひょこりと顔を出した。
「おじいちゃん、お兄ちゃん、また来たの?」
「お前は奥に入ってろ」
ドルンはぶっきらぼうに言ったが、孫娘は気にせず、悠人の方へ駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、この前、網の直し方教えてもらったって、コウガおじちゃんが言ってたよ」
その無邪気な一言に、ドルンの表情がわずかに揺れた。
「……この子が、大人になる頃にも、この町に船が浮かんでいてほしいだけです」
悠人は静かにそう言った。
「お父さんの代わりになりたいとか、そういうつもりはありません。ただ、この子が漁に出たいと思ったとき、船がない、じゃ困るでしょう」
しばらくの沈黙が流れた。
ドルンは孫娘の頭に手を置き、深く息を吐いた。ごつごつとした大きな手が、小さな頭を包み込むように撫でるのを、悠人は黙って見守った。
「……お前は、本当に面倒な奴だな」
そう言いながらも、差し出された紙に、無言でサインをした。その筆跡は、少しだけ震えていた。
二十戸分の署名が、ついに揃った。
翌朝、悠人とリゼットは、その署名を携えて再び補給廠へと向かった。あの疲れた顔の役人は、書類を受け取ると、少し驚いたように目を見開いた。
「本当に、集まったんですね……」
役人は、二十戸分の署名がびっしりと並んだ書類を、何度も見返した。まるで、何かの間違いではないかと疑うように。
「はい。これで、木材を分けていただけますか」
「上への確認は必要ですが……これだけ揃っているのでしたら、まず通ると思います。私も、責任を持って掛け合います」
その言葉に、悠人は思わず安堵の息を漏らした。役人の目にも、ほんの少しだけ、久しぶりに前向きな光が宿っているように見えた。
結果が出るのは、もう少し先だ。それでも、確かに一歩、前に進んだという実感があった。
帰り道、リゼットは何も言わなかったが、その足取りは、来たときよりもわずかに軽く見えた。




