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第8話 帰りたい

第8話 帰りたい


 十月の夜だった。


 昼間はあんなに賑やかだったのに、消灯後の施設は別世界のように静かだった。


 廊下の照明は落とされ、足元灯だけが淡く床を照らしている。


 遠くでナースコールが一度鳴った。


 やがて静かになる。


 窓の外では秋の虫が鳴いていた。


 富子は眠れなかった。


 ベッドの上で何度も寝返りを打つ。


 時計を見る。


 午前一時半。


「まだこんな時間」


 小さく呟く。


 部屋の空気は少し冷たい。


 毛布を引き上げる。


 それでも眠れない。


 胸の奥がざわざわする。


 理由は分かっていた。


 今日、和俊が帰る時だった。


「また来週ね」


 そう言って手を振った。


 いつもと同じだった。


 笑顔だった。


 何も変わらなかった。


 なのに。


 なぜだろう。


 急に家が恋しくなった。


 あの古いアパート。


 六畳間。


 台所。


 小さな窓。


 夕方になると西日が差し込んで畳が赤く染まった。


 古い冷蔵庫の音。


 ガスコンロの火。


 味噌汁の湯気。


 全部が懐かしい。


 目を閉じる。


 すると鮮明に思い出せた。


 台所の流し台。


 少し剥げた木目調の棚。


 何度も修理した引き出し。


 換気扇の音。


 秋刀魚を焼いた匂い。


 夫が好きだった肉じゃが。


 冬のおでん。


 夏のそうめん。


 全部そこにあった。


「帰りたいな」


 思わず声が漏れた。


 誰もいない部屋だった。


 返事もない。


 窓の外では風が木を揺らしている。


 さらさら。


 さらさら。


 葉の擦れる音が聞こえた。


 富子は目を閉じた。


 さらに昔を思い出す。


 まだ和俊が小さかった頃。


「お腹すいたー」


 学校から帰ってきた声。


「手を洗いなさい」


「はーい」


 ランドセルを放り投げる音。


 台所に漂うカレーの匂い。


 笑い声。


 怒鳴り声。


 泣き声。


 生活の音。


 あの部屋には人生が詰まっていた。


 夫と喧嘩した夜もあった。


 仲直りした朝もあった。


 病気で不安だった日もあった。


 それでも。


 あそこが家だった。


 今さら気づく。


 恋しいのは建物じゃない。


 時間なのだ。


 もう二度と戻れない時間。


 若かった自分。


 元気だった夫。


 小さかった和俊。


 夕飯の支度をしながら聞いたテレビの音。


 全部失われてしまった。


 富子の目から涙がこぼれた。


「帰りたい」


 もう一度呟く。


 分かっている。


 帰れない。


 あの頃には。


 絶対に帰れない。


 それでも帰りたい。


 涙は止まらなかった。


 枕が濡れる。


 鼻をすする。


 七十歳になっても泣く時は泣く。


 人間なのだから。


 しばらくして。


 ノックの音がした。


「富子さん?」


 美咲だった。


 夜勤らしい。


「起きてますか?」


 富子は慌てて顔を拭いた。


「起きてる」


 美咲が入ってくる。


 柔らかな光の中で顔を見る。


 きっと泣いたのがばれている。


「眠れませんか?」


「ちょっとね」


「体調悪いですか?」


「違う」


 美咲は隣の椅子に座った。


 何も急かさない。


 何も聞き出そうとしない。


 その沈黙がありがたかった。


 やがて富子がぽつりと言う。


「帰りたくなったの」


 美咲は頷いた。


「お家ですか」


「うん」


 窓の外を見る。


「急にね」


「ありますよ」


「あるの?」


「皆さんあります」


 富子は少し驚いた。


「そうなんだ」


「何年たってもあります」


 美咲の声は優しかった。


「だって家ですもの」


 その一言でまた泣きそうになった。


「そうよね」


「そうですよ」


 しばらく二人で窓の外を眺めた。


 月が出ている。


 丸い月だった。


「でもね」


 美咲が言う。


「帰りたいと思うのは」


「うん」


「それだけ大事な家だったってことですよ」


 富子は黙った。


 確かにそうだった。


 貧しかった。


 古かった。


 雨漏りもした。


 冬は寒かった。


 でも。


 幸せだった。


 翌朝。


 富子はいつものように食堂へ向かった。


 秋の日差しが窓から差し込んでいる。


 焼き鮭の香り。


 味噌汁の湯気。


 利用者たちの話し声。


「営業部長、おはよう」


 佐々木が笑う。


「誰が営業部長よ」


 富子も笑った。


「昨日眠れた?」


 美咲が聞く。


「まあまあね」


「本当ですか?」


「本当よ」


 嘘だった。


 本当は寂しい。


 本当はまだ帰りたい。


 本当は昨日の夜の涙が胸に残っている。


 でも。


 それでも朝は来る。


 生きている限り。


 朝は来る。


 窓の外では金木犀が咲いていた。


 甘い香りが風に乗って漂う。


 富子はその香りを吸い込んだ。


 家へ帰りたい。


 その気持ちは消えない。


 たぶん一生消えない。


 けれど。


 ここにも朝がある。


 ここにも笑い声がある。


 ここにも誰かがいる。


 富子は味噌汁を一口飲んだ。


 温かかった。


 胸の奥の寂しさは消えなかった。


 それでも。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 今日を生きてみようと思えた。



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