表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

第9話 さようなら

第9話 さようなら


 十一月の朝だった。


 窓の外では銀杏の葉が黄色く色づいていた。


 風が吹くたびに葉が舞い落ちる。


 まるで小さな黄金の蝶が飛んでいるようだった。


 富子はいつものように食堂へ向かった。


 朝食の時間だった。


 焼き魚の匂い。


 炊きたてのご飯の湯気。


 味噌汁の香り。


 慣れた風景。


 慣れた時間。


 慣れた席。


 だが、その朝は違った。


「……あれ?」


 思わず足が止まる。


 窓際の席が空いていた。


 いつも桜井さんが座る席だった。


 花柄のカーディガン。


 優しい笑顔。


 毎日のように娘の話をしていた桜井さん。


 その席だけがぽっかり空いている。


 富子は辺りを見回した。


「桜井さんは?」


 近くの職員へ聞く。


 職員は一瞬だけ表情を曇らせた。


「富子さん」


 小さな声だった。


 胸がざわつく。


 嫌な予感がした。


「昨日の夜」


 職員は言葉を選んだ。


「お亡くなりになりました」


 富子は何も言えなかった。


 耳の奥で何かが遠くなった気がした。


 周囲では食器の音がしている。


 利用者たちが話している。


 いつも通りの朝だ。


 なのに。


 自分だけ違う世界へ放り込まれたみたいだった。


「そう……」


 それしか言えなかった。


 席に座る。


 味噌汁の湯気が上がっている。


 だが味がしない。


 箸が進まない。


 昨日までいた人がいない。


 それだけなのに。


 こんなにも寂しい。


 昨日の午後を思い出した。


 談話室だった。


 桜井さんが言った。


「娘を迎えに行かなきゃ」


 富子が笑った。


「そうだったの」


「帰り道が暗いから」


「心配だねえ」


 桜井さんも笑った。


 確かに笑っていた。


 昨日だ。


 たった昨日。


 それなのに。


 もう会えない。


 朝食後。


 富子は談話室へ向かった。


 窓際の椅子を見る。


 誰も座っていない。


 午後になる。


 やはりいない。


 夕方になる。


 やはりいない。


 いない。


 いない。


 いない。


 その事実が少しずつ胸へ染み込んでいく。


 夜。


 部屋へ戻った富子は窓を開けた。


 冷たい風が入ってくる。


 遠くで犬が鳴いていた。


 冬が近い。


「桜井さん」


 思わず呟く。


 返事はない。


 当然だ。


 もういないのだから。


 富子は夫を見送ったことがある。


 両親も見送った。


 親戚も。


 知人も。


 死は初めてではない。


 それなのに。


 今回は違った。


 昨日まで一緒にご飯を食べていた人だ。


 昨日まで話していた人だ。


 昨日まで笑っていた人だ。


 それが突然いなくなる。


 特養とはそういう場所なのだ。


 初めて実感した。


 ここは老人ホーム。


 終の棲家。


 人生の最後を過ごす場所。


 頭では分かっていた。


 でも本当には分かっていなかった。


 翌日。


 富子は朝から落ち着かなかった。


 営業部長の巡回もやる気が出ない。


 談話室へ行く。


 また桜井さんの席を見る。


 空いている。


 胸が痛む。


「富子さん」


 美咲が声をかけた。


「元気ないですね」


「そう?」


「そうです」


 富子は苦笑した。


 隠せていないらしい。


 二人で窓際に座る。


 外では銀杏の葉が風に舞っている。


「ねえ」


 富子が言った。


「なに?」


「私も死ぬのかな」


 美咲は黙った。


 その沈黙が答えだった。


「怖いの」


 富子は続ける。


「最近まで平気だった」


「うん」


「でも急に怖くなった」


 声が震える。


「私の席も」


「……」


「いつか空くんでしょう」


 美咲は何も言わなかった。


 簡単な慰めを言わない。


 その優しさがありがたかった。


「営業部長なんて言われて」


 富子は笑う。


「偉そうに歩いて」


「うん」


「でも本当は怖い」


 涙が滲む。


 七十歳。


 人生の終わりが見えてくる年齢。


 分かっていたはずだった。


 だが目の前で友人を失うと現実になる。


「死ぬのは嫌だな」


 富子はぽつりと言った。


 美咲は静かに答えた。


「私も嫌です」


「え?」


「怖いですよ」


 富子は驚いた。


「若いのに?」


「若くても怖いです」


 二人は顔を見合わせた。


 そして少し笑った。


 人間は皆同じなのかもしれない。


 若くても。


 老いていても。


 死は怖い。


 数日後。


 桜井さんの席には新しい利用者が座るようになった。


 それが自然なことだと分かっている。


 施設は生きている。


 人が来て。


 人が去る。


 季節が巡るように。


 それでも。


 富子にはまだ桜井さんの笑顔が見える気がした。


「娘を迎えに行かなきゃ」


「そうだったの」


「暗くなるから」


「大変だったねえ」


 あの日々が胸の中によみがえる。


 夕方。


 富子は中庭へ出た。


 車椅子を押してもらいながら銀杏を見上げる。


 黄色い葉が風に舞う。


 一枚。


 また一枚。


 空から降ってくる。


 美しい。


 そして少し寂しい。


 富子は空を見上げた。


「桜井さん」


 小さく呟く。


「娘さん迎えに行けた?」


 返事はない。


 だが風が吹いた。


 銀杏の葉がふわりと舞い上がる。


 その光景がなぜか優しく見えた。


 死は怖い。


 今でも怖い。


 明日、自分がどうなるか分からない。


 けれど。


 桜井さんが残してくれた笑顔もまた本物だった。


 生きていた証だった。


 富子は冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。


 そして静かに目を閉じた。


「さようなら」


 秋空の下で、その言葉だけが風に溶けていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ