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第10話 春の花壇

第10話 春の花壇


 三月の風はまだ少し冷たかった。


 けれど冬の匂いはもう消えている。


 施設の庭では梅が咲き始め、柔らかな陽射しが芝生を照らしていた。


 富子は窓際で麦茶を飲みながら外を見ていた。


 花壇だった。


 去年の秋に植えられていた花は枯れ、土だけが残っている。


 茶色い土。


 少し寂しい景色だった。


「なんかもったいないわね」


 思わず呟く。


「何がですか?」


 美咲が聞いた。


「花壇」


「花壇?」


「あんな広いのに何もない」


 美咲も窓の外を見る。


「ああ」


「花を植えたらいいのに」


「いいですね」


 その一言から始まった。


 数日後。


 施設会議で花壇づくりの話が出たらしい。


 利用者参加型の園芸活動。


 美咲が提案したのだという。


「富子さんが言ってました」


 そう説明したらしい。


「余計なこと言うんじゃなかった」


 富子は照れた。


 しかしもう後には引けない。


 花壇係になってしまった。


 ある晴れた朝。


 利用者たちが中庭へ集まる。


 軍手。


 スコップ。


 ジョウロ。


 土の匂いが漂っていた。


 春の匂いだった。


「営業部長、指示をお願いします」


 美咲がわざと言う。


「誰が営業部長よ」


「花壇部長ですか?」


「もっと嫌」


 周囲が笑った。


 富子も笑う。


 久しぶりだった。


 土に触るのは。


 しゃがむ。


 膝が痛む。


「いててて」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫じゃない」


「無理しないでください」


「無理する年なのよ」


 皆がまた笑った。


 土を掘る。


 黒く湿った土だった。


 指先に感触が伝わる。


 懐かしい。


 昔の庭を思い出す。


 アパートの前に置いていた鉢植え。


 朝顔。


 撫子。


 金魚草。


 毎朝水をやっていた。


 花は返事をしない。


 それでも育つ。


 それが好きだった。


「何植えるんですか?」


 利用者の佐々木が聞く。


「春だから」


 富子は考えた。


「パンジー」


「いいねえ」


「あとチューリップ」


「咲いたら綺麗だろうね」


 話が弾む。


 不思議だった。


 皆、普段より元気なのだ。


 土を触るだけで顔が明るくなる。


 午後。


 植え付けが始まった。


 黄色。


 紫。


 白。


 色とりどりの花苗。


 土へ植えるたびに庭が賑やかになる。


「この子はここ」


「それならこっちがいい」


「近すぎるわよ」


「そうかなあ」


 利用者たちが真剣に議論している。


 まるで子どもみたいだった。


 富子は嬉しくなった。


 桜井さんがいたら喜んだだろうなと思う。


 娘さんの話をしながら植えただろう。


 ふと寂しさが胸をよぎる。


 だが以前ほど苦しくはない。


 思い出は悲しいだけではなくなっていた。


 数週間後。


 花壇は見違えていた。


 パンジーが咲く。


 チューリップが伸びる。


 ネモフィラの青が広がる。


 春の庭になっていた。


 利用者たちは毎日のように見に来る。


「咲いた」


「大きくなった」


「昨日より綺麗」


 話題が尽きない。


 気づけば花壇の周りに人が集まるようになった。


 ベンチも置かれた。


 天気の良い日は誰かが座っている。


 利用者だけではない。


 職員も来る。


 面会の家族も来る。


 子どもたちも来る。


「ここ好きなんです」


 ある家族が言った。


「綺麗ですね」


 富子は照れくさかった。


「そう?」


「はい」


 春の風が吹く。


 花が揺れる。


 甘い香りが漂う。


 中庭は施設で一番人気の場所になっていた。


 四月。


 桜が咲いた。


 満開だった。


 青空の下で花びらが舞う。


 チューリップも咲いている。


 花壇も見頃だった。


 昼食後。


 利用者たちは中庭へ出た。


 皆で桜を見る。


 車椅子の人。


 杖をつく人。


 職員たち。


 家族。


 たくさんの人。


「綺麗ねえ」


 誰かが言った。


「本当だね」


 誰かが答える。


 富子は空を見上げた。


 花びらが舞う。


 白い雲が流れる。


 暖かな陽射し。


 春の匂い。


 胸がいっぱいになった。


 あの夜。


 家へ帰りたいと泣いたことを思い出す。


 桜井さんとの別れも思い出す。


 不安だった。


 怖かった。


 寂しかった。


 それでも。


 今ここにいる。


 生きている。


 笑っている。


「営業部長」


 美咲が呼ぶ。


「だから違うって」


「花壇部長?」


「もっと違う」


 二人は笑った。


 周囲も笑った。


 その笑い声が春の空へ溶けていく。


 富子は花壇を見た。


 小さな苗だった。


 水をやった。


 皆で育てた。


 そして花が咲いた。


 人生も少し似ているのかもしれない。


 苦しい時がある。


 寂しい時もある。


 それでも。


 誰かと支え合いながら生きていけば、また花は咲く。


 富子はそっと土に触れた。


 温かかった。


 春の日差しを吸い込んだ土は、生きているようだった。


 空を見上げる。


 満開の桜。


 咲き誇る花壇。


 笑い声。


 柔らかな風。


 富子はゆっくり微笑んだ。


「悪くないわね」


 その言葉は春風に乗り、花の香りと一緒に中庭いっぱいへ広がっていった。



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